中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の寫眞帖ブログ、撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

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 1980年になってからの話しですが、聖家族で釜ヶ崎の個展をおこなったときに来てくれたビデオグループ、岡崎純くんと瀬川恵美さん、この二人にはたいへん世話になります。とくに瀬川さんは、釜ヶ崎でビデオカメラで労働者の人たちを記録しているということから、懇意になっていきます。岡崎純くんは、すでに白虎社をビデオ作品として撮っていたと記憶しています。ぼくが、釜ヶ崎取材から白虎社取材にいく橋渡しは、この二人から誘われたといえると思います。白虎社の写真は、聖家族の壁面に張られていました。ぼくが最初におとずれたときには、張られていたと記憶しています。その時まで、東寺、暗黒舞踏と呼んでいたジャンルのパフォーマンスがあるなんて、知りませんでした。ぼくの白虎社への興味は、釜ヶ崎への興味と同じ地平になりました。イメージとして、釜ヶ崎は社会のヘッジで、アウトサイドになるところです。そのことでいえば、ぼくのなかで、白虎社、暗黒舞踏の領域は、アウトサイドに位置するように感じられたのでした。取材に入ります。岡崎くんと瀬川さん、この二人と共に夏の合宿に同伴することになります。

 彼らは天王寺区の高層アパートの一室を事務所にしていて、ビデオカメラを使い、シンセサイザーを使い、レザー光を飛ばす技術を使って、新しい舞台をつくることができるグループでした。そのオフィスになっている事務所へ、釜ヶ崎取材の帰りに、立ち寄って、いろいろと歓談しました。京都では、聖家族を自主ギャラリーとして運営しだしたところで、彼らも賛同してくれました。ちょっと言いにくいことですが、写真を撮っていた連中は、その自主ギャラリーのムーブメントには、なにかと難色を示して、参加してきませんでした。ともあれ、自分たちの作品を発表する場所としての自主ギャラリー運営は、関西にいたメンバーにとっては魅力ある話ではあったはずなのに、です。岡崎くんらのグループが、新しい時代の潮流だとして、作家の小松左京さんの信望をもらい、ジョーシンの売り場管理するという名目で月額50万円の契約が成立しました。そこでビデオグループの入居先を、長堀橋のマンションの一角を借りることになり、念願だった自主ギャラリーの開設にいたるのでした。名称は「ザ・フォーラム」写真展示とビデオや映画の自主上映場所として、機能し始めることになります。

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 数年前から。フィルムで撮った写真をデジタルデーターにするために、スキャンしているところです。写真人生なんて言葉があるとすれば、自分の人生をそのように言い当てることも可能かと思っています。でも、実際に、自分の過去を振り返ってみて、十代のころから文章を書くことに意味を見出していたことを思うと、むしろ文学人生という方がいいかもしれない、と自分では思っているところです。でも、そういう〇〇人生なんていう言い方は妥当ではないと考えます。揺れ動きます。心の関心事とか、心の在り方とか、揺れ動きながら時の中で行ったり来たり、立ち往生したり前へ進んだり、後退したり、そういうことを繰り返しながら、年月を経過させてしまうのです。もはや古希という年代に入ってしまって、けっこううろたえてしまって、年甲斐もなく若さぶって、ことをなそうとしている。この自伝だって、自己顕示欲の一環で、自画像、読む自画像、だといえます。

 スキャンしているフィルムの中で、ここに載せた一枚の写真があります。特別に、ぼくと関係があった人かというと、そうではなくて、この物語は達栄作さんの関連で、達さんといっしょに撮影した高校生のふたり。場所は、余呉湖の湖畔、1977年の夏、だったかと思われます。女子の名前は伸子、男子の名前はわからない。この伸子さんの男友だちで、モデルになって撮影した男女です。ぼくは達さんの助手として、余呉湖撮影に同伴したものでした。写真に撮るテーマとか、いやはやテーマを決めて写真を撮る、というそのことが、わからなかった頃です。小説を書こうとしていた。でも、そのことが気持ち的にできなくなってきて、日常生活のなかに家族の写真を撮る、ということから関わりだした写真との関係です。年齢としては20代の終わりごろです。見よう見まねで、撮影に連れて行ってもらって、そこで撮る。撮ったものを例会の場で並べて、意見を聞く。そのうち、その写真に順位がつけられ、ほかの人が撮った写真と比べられる。



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 写真は聖家族で個展中の中川繁夫(右)と石山昭(左)、1979年12月、中川のカメラでだれかに撮影してもらった一枚です。石山さんは、この聖家族の主宰者で、夫婦と子供といっしょに山科のお寺に住まっていると言っていたのを思い出します。ぼくがこの店を最初に来たのは、釜ヶ崎で知り合った若い人が紹介してくれたと記憶しています。この石山さんからかなり強い信頼を受け、意気投合して、ここで壁面いっぱいの写真展を開き、リトルギャラリーとして機能させていきたいとの話になりました。
 
 フリースペース「聖家族」通信をペーパーで発行することにして、その形式は月刊、毎月20日発行、100円、発行所は聖家族。1980年2月20日発行で創刊号には、<フリースペース「聖家族」開設のご案内>を載せていて、開設の趣旨を書いています。・・・・ジャンルにこだわらず、各分野の自主的な発表の場として、利用していきたい・・・・旨が書かれてあります。この年の3月は、中川繁夫/釜ヶ崎写真展パート2、劇、フィルム、の三つ。会員を募集して、会費は月200円としましたが、数人が会員になられたと記憶しています。4月には写真展「南大阪1979・冬」自主管理の現場から-と題した写真展、ビデオ・コミュニケーション「ビデオ・イン」、森伸朗写真展「ガイコツ人」セルフポートレート-この三つが展示イベントとして企画されました。こうして聖家族通信は7月まで、5号を発行して、飲み屋の聖家族が閉店するにいたって、終わりました。



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 1979年12月に京都の聖家族という飲み屋で「ドキュメント釜ヶ崎」のタイトルで、個展を開きました。たぶん、この個展開催がターニングポイントになったように思います。というのも、このとき稲垣浩釜日労委員長を呼んで座談会を開催したのです。当時は、プレイガイドジャーナル誌が関西の情報誌として若い世代に読まれていて、ここにイベント情報として掲載されたのです。事前申込制でしたが、当日、テレビモアというビデオグループの取材を受けるということになりました。岡崎純さんと瀬川恵美さん、この二人に知り合ったのは、このとき、テレビモアを結成していて、座談会を取材してくれたからでした。
「わたし、釜ヶ崎で、ビデオ作品を作っています、ぜひ、見てほしいです」
取材のあと瀬川さんの申し出で、年が明け、1980年の初めに、テレビモアの事務所兼住居を訪れます。

 ところで、個展を開催した聖家族という飲み屋のことを、少し記しておこうと思います。というのも、ぼくにとっては貴重な場であり、のちに「カフェ&プレス」のイメージ原点としてあるからです。京都河原町、丸善ビルの裏にあたる路地に、その「聖家族」がありました。聖家族とはバイブルに出てくる名称で、堀辰雄の小説にもあったから、名前に親しみをおぼえます。当時の文化の潮流でヒッピー文化という枠で語られることがありますが、この飲み屋「聖家族」は、その文化を体現するかのような場所でした。釜ヶ崎つながりから、聖家族を知り、主宰者の石山さんと懇意になり、ここで写真展を開くことになり、続けて「リトルギャラリー聖家族」として、昼間の空き時間にギャラリー機能を持たせました。写真の世界で、東京では1976年ころから自主ギャラリー運動が起こっていて、それの関西版とでもいうような枠組みを試みたのです。実際には半年ほど運営できました。1980年2月から8月まで。いくつかの写真展とビデオ上映などのイベントが組まれました。月刊の聖家族通信を、ぼくの手元で発行しました。(続く)


 

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