中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の寫眞帖ブログ、撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

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<少年の頃>
 昔懐かしい人にはわかると思いますが、これは昭和30年頃、1955年頃だと思います。父が撮ってくれた写真です。覚えています。撮影したときのこと、おぼろげというかかなりはっきりと思いだします。というのもこの写真を折りに触れて見ているからでしょうね。少年画報という少年向け月刊雑誌を抱いているのがぼくで、ぼくらの雑誌を持っているのが弟、後ろに少年が立てかけてあります。贅沢といえば贅沢な、兄弟で三冊も月刊雑誌を買ってもらったんですね。四畳半一間に、親子四人が生活していました。食べる場所であり、寝る場所であり、憩いの場所であり、いまなら学生の四畳半一間、そこに親子四人が生活している。おおむね、ぼくがいたこの界隈は、そんな生活空間だったと思います。

 ぼくが育ったこの地域を毛嫌いしてきた理由は、たぶん、近所の年上の男連中からいじめられていたからです。この地域、いまでこそ、京都のスポットとして観光客が来たりするようになっていますが、その当時なんて逃げ場のない袋小路の奥の奥といったイメージで、どうみたって下層生活者のイメージですよ。たぶん、貧乏だったから、親は無理して、子供にこんな雑誌を買ってくれたんだと思います。ほかの年上の奴らは、買ってもらえなかったから、ぼくが見る前に、ぼくの本を取り上げて、むさぼり読んでいたのです。それから祖母が駄菓子屋を営んでいて、目の前、お菓子に囲まれているぼくが羨ましかったのではないか、そのことを理由にねちねちと苛めるのでした。まだ小学生の子供で、菓子を持ってこいと脅されたことはありませんでしたから、のちのち不良になっていく手前だったと思います。最近はもう思わないが、よくも自分が不良の真似事はしたけれど、本当の不良にはならなかった、と思ったものでした。

 いや、なにが言いたいのかといえば、のちになって学生運動を経て、釜ヶ崎へ行くようになり、今に至っても人間救済のイメージを抱いていて、宗教家ではなくて芸術家の領域で、ことを仕掛けていく原動力になっているのだと思います。負けてたまるか、やられたらやりかえせ、なんか、そんな詩句が口ずさみたくなる感じで、やらないといられないんですね。自分研究の道筋で、自分の生い立ちを世間の枠組みの中で語っているところです。でも、こういう言い方はなんだけど、心は腐っていないぜ、心は清らかだぜ、正義の味方だぜ、なんてうそぶいていて、だました奴らにまけてたまるか、それが本音です。



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 いま、ぼくのなかで恩師と呼ぶ人があれば、達栄作さん、のちに智原栄作と名前が変わる方だろうな、と思います。カメラをもって、写真を撮りだして、年上の方と出会って懇意になった最初の人です。その当時、二科会の会友、光影会の会長、全日本写真連盟京都支部の役員、深草にあった自宅へ、かなり頻繁に訪問させていただきました。1976年から1978年まで、写真の基礎概念を考え、自分で作りだしていくための基礎を学んだように思います。教えられるというより、議論のような会話で、彼の撮影の方法が変わっていく過程そのもので、ぼくの写真に対する基本姿勢ができたように思います。最近になって、関西の写真史を概観するようになって、あの人もこの人もいらしたけれど、そこそこ深い交流があった先輩は、達栄作さんでした。もっぱらドキュメンタリーの方法とか、写真の在り方とか、写真のことがわからないまま、文学を学んだ概念を軸に、話をしていたように思います。このときの経験は、写真論とは、写真の外にある概念の組み立てである、といったようなことが直感として理解したように思えます。入門三年目で二科会関西支部に名を連ねさせてもらったところから、それらの関係を断ち切って釜ヶ崎へ向かったときまで、達さんには感謝します。縁というものはまわりまわって自分にかえってきます。その後においても様々な方と知り合って、深い議論や会話を交えた方には、感謝です。おおむね、深く関わった方というのは、この達栄作さんと1981年から三年間お世話になった東松照明さんでした。




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 この自伝を1979年12月に、飲み屋「聖家族」でおこなった「釜ヶ崎」写真展から起こしていますが、そこに至る前段として、ぼくに何が起こっていたのか、ということを検証しないといけないな、と思いだしています。ということで簡略すれば、ぼくが一眼レフカメラを買ったのは1975年の春ではなかったかと思います。1968年に立命館大学二部文学部に入学し、卒業まで七年かかっていて、その卒業が1975年だからです。学費を払わなくてよくなって、そのお金でニコマートを買った。そのように記憶しています。子供を撮るためといえば、一般的で常套句ですが、当初はそれでした。まだ文学というか、小説家を目指していましたから、文学への未練を捨てきれずにいて、写真を撮ることにのめりこむのは、それから一年ほど後、京都シュピーゲルという名前の写真クラブ、ぼくが入会したときは光影会と改称されていましたが、1976年の春頃だったでしょうか、1977年になっていた頃でしょうか。「’77冬の旅」というフィルムの束があるので、たぶん1976年ですね。最初は全日本写真連盟の個人会員となりました。カメラ雑誌が唯一の情報源だったぼくにとって、写真を撮っている人たちと交わっていくきっかけは朝日新聞社でした。

 写真は恩師達栄作さんとモデルになってくれた高校生の伸子さん、余呉からの帰りの列車のなかでの一枚です。ツーショットの写真は、これしかありませんが、彼女を撮った写真は、けっこう四季折々の場面であります。ちょうどフィルムスキャンしているいま、彼女があらわれてきています。達さんとのことを書いておかないと、ぼくの写真人生、わからなくなりますから、記述していきます。





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 1980年には、聖家族を拠点にしたフリースペース運動を行いますが、その広報誌として発行したのが「フリースペース聖家族通信」でした。この年、8月に聖家族の存続が立ちいかなくなり、フリースペースも休むことになりました。手元では、このフリースペース聖家族通信を「映像情報」にあらため創刊しました。「映像情報」の創刊は1980年8月1日付で発行していて、新しい映像の評論理論誌と標榜しています。まあ、大袈裟なといえば大袈裟な意思表示ですが、その頃は、一方で「季刊釜ヶ崎」の編集にも携わっていましたから、そのことの必要性も考えていたことでした。ぼくの雑誌編集発行ノウハウは、それより10年前に文学同人誌「反鎮魂」のグループに参加したことの経験からだと思えますが、1979年12月には「季刊釜ヶ崎」を創刊しているので、それの関連で「映像情報」が生むことができたと思えます。孤立無援、的な感覚でした。なぜ、そうなのか、そういう思いなのかということについては、別の機会に譲りますが、1969年ころの学生運動の末裔で、それらの企画が生まれ実践しなければいけない、と思っていたと思えます。この年、協賛者はビデオの岡崎くん瀬川さん、気持ちの上でもたいへんお世話になったと思います。

 1980年ごろだったと思います。アサヒカメラの誌上に「いま!!東松照明の世界展」という巡回展企画があることを読みました。それの大阪展を実行委員会があるというニュースを知ったのが1981年、記憶を辿って、若干の資料をつないでいくと、この1981年の秋に集まりがありました。連絡があって、出向いたところは、大阪写真専門学校(現在のビジュアルアーツ大阪)でした。この集まりで、向こうから声をかけていただいて、のちにいくつかのイベントを実行するメンバーと出会いました。そのなかに畑祥雄さんがいらして、ぼくのことを知っているといってもらって、京都のギャラリーDOT(どっと)の岡田悦子さんを紹介してもらいました。そのとき、畑さんからシンポジウムができないかとの発案があって、それを真に受けて、ほかの何人かのメンバーに呼びかけ、11月7日、京都は出町の「ほんやら洞」でシンポジウムを開催することになったのです。ほんやら洞の甲斐さん、その頃には知り合っていた新司さん、畑さん、岡田さん、それに中川の五人が呼びかけ人となりました。「Photo シンポジウム in Kyoto」に参加を、という呼びかけの手作りチラシを作って配りました。

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 1980年になってからの話しですが、聖家族で釜ヶ崎の個展をおこなったときに来てくれたビデオグループ、岡崎純くんと瀬川恵美さん、この二人にはたいへん世話になります。とくに瀬川さんは、釜ヶ崎でビデオカメラで労働者の人たちを記録しているということから、懇意になっていきます。岡崎純くんは、すでに白虎社をビデオ作品として撮っていたと記憶しています。ぼくが、釜ヶ崎取材から白虎社取材にいく橋渡しは、この二人から誘われたといえると思います。白虎社の写真は、聖家族の壁面に張られていました。ぼくが最初におとずれたときには、張られていたと記憶しています。その時まで、東寺、暗黒舞踏と呼んでいたジャンルのパフォーマンスがあるなんて、知りませんでした。ぼくの白虎社への興味は、釜ヶ崎への興味と同じ地平になりました。イメージとして、釜ヶ崎は社会のヘッジで、アウトサイドになるところです。そのことでいえば、ぼくのなかで、白虎社、暗黒舞踏の領域は、アウトサイドに位置するように感じられたのでした。取材に入ります。岡崎くんと瀬川さん、この二人と共に夏の合宿に同伴することになります。

 彼らは天王寺区の高層アパートの一室を事務所にしていて、ビデオカメラを使い、シンセサイザーを使い、レザー光を飛ばす技術を使って、新しい舞台をつくることができるグループでした。そのオフィスになっている事務所へ、釜ヶ崎取材の帰りに、立ち寄って、いろいろと歓談しました。京都では、聖家族を自主ギャラリーとして運営しだしたところで、彼らも賛同してくれました。ちょっと言いにくいことですが、写真を撮っていた連中は、その自主ギャラリーのムーブメントには、なにかと難色を示して、参加してきませんでした。ともあれ、自分たちの作品を発表する場所としての自主ギャラリー運営は、関西にいたメンバーにとっては魅力ある話ではあったはずなのに、です。岡崎くんらのグループが、新しい時代の潮流だとして、作家の小松左京さんの信望をもらい、ジョーシンの売り場管理するという名目で月額50万円の契約が成立しました。そこでビデオグループの入居先を、長堀橋のマンションの一角を借りることになり、念願だった自主ギャラリーの開設にいたるのでした。名称は「ザ・フォーラム」写真展示とビデオや映画の自主上映場所として、機能し始めることになります。

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