中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の自伝を書いていきます。すでに収録済みの寫眞帖ブログ、撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

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<フォトハウスの歴史>-2-
 前回ではフォトハウスの企画を文書にして関係各人へ郵送したところから記しましたが、そこへ至る前史としていることを記しておこうと思います。><写真舎「PHOTO HOUSE]からの御案内>(1984.11.15)の郵送した文の中に、その経緯を書いており、企画内容にもふれているので、それを転載します。
 
<かねてから、世界にはばたいていけるイメージ都市<京都>において、現代写真の質を定着させるべく、また現代写真の質を具現化する人材の輩出に向けて、そのバックグラウンド創りとして幾多の方法を考えてまいりました。
 たとえば「図書館に写真集を!」運動(1982.6)や、「フォトシンポジウム・京都」の開催(1981.11~)、また写真批評誌「映像情報」の発刊(1980.8~)等々。そして現在1984.11、なによりもそれら写真をめぐる潮流の意をくみとり、今後も引き続き、より発展的にそれらを総括し、新たなる写真をめざして、実践していける母体創出の必要を痛感してきたところです。
 そこで私たちは、写真という表現形態を持って、個々が一層主体的にかかわって、よりすぐれた写真活動のできる土壌を創っていく母体として、機能していけるシステムの創出を基本とした、写真舎「PHOTO HOUSE」の設立をもくろみ、ここにその準備会が発足しました。
 具体的には、次のような企画と形態を考えています。
1、フォトワークショップの開講
2、フォトシンポジウムの開催
3、写真展などの開催
4、写真批評誌の発行
5、写真集など単行本の刊行
6、その他、営業に関する企画
(中略)
皆様のより豊かな創造で、積極的な参加を期待しています。>


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<フォトハウスの歴史>-1-
 1984年11月、<写真舎「PHOTO HOUSE」設立のご案内>という文書を発出して、関係各方面へ郵送したことから公になったフォトハウスです。京都新聞に記事で紹介されたのが翌年1985年1月17日付でした。
 「現代写真のレベルアップと写真家育成をめざした新しい組織づくりが、京都のアマチュアカメラマンらの手で進められている。名付けて「フォトハウス(写真舎)」。写真塾の開講や批評誌の発行、シンポジウムの企画から写真作品の販売まで手がける計画で、カメラマンはもちろん、ジャンルを超えた人たちも加えて活動する考えだ。19日夕には、幅広い人たちに参加を呼びかけ、事務局づくりがスタートする。」
 こうして京都新聞に記事を掲載していただけて、新聞記事を読まれた人たち、その時の光景を思い出すと十数名の方がおられたと思えますが、会場となった「まつもと設計事務所」に集まりました。会場としてお借りした場所の経営者、松本健氏の支援と協力で、開催にいたったところでした。
 このフォトハウス構想は、それに先立つ季刊雑誌「映像情報」を発行していくなかで、イメージとして明確になったことで、東松照明さんとのセッションで、しだいに明確化されてきて、組織図と文章になったものです。松本健さんを知るのは、野口賢一郎さんを通じででした。結局、新聞記事を見てお集まりになった方々が、事務局メンバーになられることはなく、もう寒くなっていた時の集まりは、そこかの喫茶店がミーティング場でしたが、出席者ゼロという惨たる結果となってしまいました。
 「フォトハウス構想」を図式化し、文章化して、最初に見て読んでもらったのは東松照明さんでした。時期尚早、というのが東松さんの見識でした。実現するとしても資本のあるところに真似られる、とも分析されたのでした。今、思うと、最初、数か月で惨たる結果となったことを思いだすと、話がかみ合わなかったことが、わかります。理解されない、それではいけないのだけれど、現状に存在しないから、理解してもらえない。そういうことだったのだ、と思えます。
(続く)



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2013.10.23の記事が、このブログの最初でした。
そのときのタイトルが「フォトハウスです」でした。
それから丸四年近くが過ぎて今、あらためてフォトハウスがぼくのなかで浮上しています。
そのときには京都写真学校の情報を掲載します、と書いています。
今、あらためていうと、フォトハウス表現研究所をつくりました、ということです。
フォトハウス表現研究所は、フォトハウス表現塾を主宰します。
フォトハウス表現塾は、絵画、写真、映像、音楽、文章の五つのジャンルを軸にします。
古典的なジャンル分けですが、内容はコンテンポラリー、現在的なものにします。
フォトハウス表現塾の開塾は、2017年10月21日(土)と決めました。
プレ開塾との位置づけで、コアメンバーをそろえたいと思うところです。
開塾場所は、兵庫県の尼崎市、杉あつよさんが主宰されているスペース「アルナイル」です。
まだ、来年春には、フォトハウス表現塾/写真、を京都で開塾の手配をしはじめています。
京都市北区のアマノコーヒーロースターズの店舗の一角で、開塾の予定です。
理想を求めて、その理想を得るための場として、生成していけばいいなと思います。
只今、フォトハウス表現塾のコアメンバーを募集中です。

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-8-
<少年の頃>
 昔懐かしい人にはわかると思いますが、これは昭和30年頃、1955年頃だと思います。父が撮ってくれた写真です。覚えています。撮影したときのこと、おぼろげというかかなりはっきりと思いだします。というのもこの写真を折りに触れて見ているからでしょうね。少年画報という少年向け月刊雑誌を抱いているのがぼくで、ぼくらの雑誌を持っているのが弟、後ろに少年が立てかけてあります。贅沢といえば贅沢な、兄弟で三冊も月刊雑誌を買ってもらったんですね。四畳半一間に、親子四人が生活していました。食べる場所であり、寝る場所であり、憩いの場所であり、いまなら学生の四畳半一間、そこに親子四人が生活している。おおむね、ぼくがいたこの界隈は、そんな生活空間だったと思います。

 ぼくが育ったこの地域を毛嫌いしてきた理由は、たぶん、近所の年上の男連中からいじめられていたからです。この地域、いまでこそ、京都のスポットとして観光客が来たりするようになっていますが、その当時なんて逃げ場のない袋小路の奥の奥といったイメージで、どうみたって下層生活者のイメージですよ。たぶん、貧乏だったから、親は無理して、子供にこんな雑誌を買ってくれたんだと思います。ほかの年上の奴らは、買ってもらえなかったから、ぼくが見る前に、ぼくの本を取り上げて、むさぼり読んでいたのです。それから祖母が駄菓子屋を営んでいて、目の前、お菓子に囲まれているぼくが羨ましかったのではないか、そのことを理由にねちねちと苛めるのでした。まだ小学生の子供で、菓子を持ってこいと脅されたことはありませんでしたから、のちのち不良になっていく手前だったと思います。最近はもう思わないが、よくも自分が不良の真似事はしたけれど、本当の不良にはならなかった、と思ったものでした。

 いや、なにが言いたいのかといえば、のちになって学生運動を経て、釜ヶ崎へ行くようになり、今に至っても人間救済のイメージを抱いていて、宗教家ではなくて芸術家の領域で、ことを仕掛けていく原動力になっているのだと思います。負けてたまるか、やられたらやりかえせ、なんか、そんな詩句が口ずさみたくなる感じで、やらないといられないんですね。自分研究の道筋で、自分の生い立ちを世間の枠組みの中で語っているところです。でも、こういう言い方はなんだけど、心は腐っていないぜ、心は清らかだぜ、正義の味方だぜ、なんてうそぶいていて、だました奴らにまけてたまるか、それが本音です。



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-7-
 いま、ぼくのなかで恩師と呼ぶ人があれば、達栄作さん、のちに智原栄作と名前が変わる方だろうな、と思います。カメラをもって、写真を撮りだして、年上の方と出会って懇意になった最初の人です。その当時、二科会の会友、光影会の会長、全日本写真連盟京都支部の役員、深草にあった自宅へ、かなり頻繁に訪問させていただきました。1976年から1978年まで、写真の基礎概念を考え、自分で作りだしていくための基礎を学んだように思います。教えられるというより、議論のような会話で、彼の撮影の方法が変わっていく過程そのもので、ぼくの写真に対する基本姿勢ができたように思います。最近になって、関西の写真史を概観するようになって、あの人もこの人もいらしたけれど、そこそこ深い交流があった先輩は、達栄作さんでした。もっぱらドキュメンタリーの方法とか、写真の在り方とか、写真のことがわからないまま、文学を学んだ概念を軸に、話をしていたように思います。このときの経験は、写真論とは、写真の外にある概念の組み立てである、といったようなことが直感として理解したように思えます。入門三年目で二科会関西支部に名を連ねさせてもらったところから、それらの関係を断ち切って釜ヶ崎へ向かったときまで、達さんには感謝します。縁というものはまわりまわって自分にかえってきます。その後においても様々な方と知り合って、深い議論や会話を交えた方には、感謝です。おおむね、深く関わった方というのは、この達栄作さんと1981年から三年間お世話になった東松照明さんでした。




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