中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の寫眞と文章。撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

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中川繁夫のホームページ
終い天神の日、結局、縁日に行くことにしました。
いつもは東門から入るのだけど、今日は南から参道を上がりました。
境内に入る山門には来年の干支、イノシシの絵がかかっていました。
買い物するのでもなく、真剣に写真を撮るというのでもなく、ぶらびら歩きです。
ぶらぶら歩きでいいと思うと気が楽で、むしろカメラを向けるより、物事がよく見える。
でもスマホで撮ろうとしているから、カメラ構えるのとよく似た感覚です。
この秋からはスマホで撮っているから、枚数が極端に少ないです。

今日は、その前に小松原、平野八丁柳の天皇陵へ赴いたのでした。
名前は二條天皇陵とあって、数カット撮っているけど、平地の御陵です。
紙屋川、高橋町にもあるし、金閣寺の北にもある、また行こうと思う。
いまは民家が密集してるけれど、昔は、家もなく、なんだったんだろう。
火葬塚というのがあるから、火葬したんでしょうね、その骨を埋めたお墓。
盛り土なんですね、そういえば桃山御陵は明治天皇だけど、盛り土ですね。
来年にまで持ち越してしまいますね、このテーマ、まだまだですね。


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あれあれと思っている間に12月23日、天皇誕生日の祝日ですね。
平成という年号が終わって、新しい年号になる、そういう切目の年ですね。
最近、日本の文化の原点がどこにあるのだろうか、と模索しています。
自分なりに、その日本の起源について思い浮かべるのですが、天皇制という制度。
しいて否定はしません、また肯定もしませんが、文化の基底にはそれがある。
そのように思っているところで、写真のテーマとしても、それをどのように捉えるか。
現代的なドキュメントのテーマだと思っているところです。

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中川繁夫のホームページ
自伝を書いているブログですが、なかなか思うように進められていません。
難しいんですよね、どう書いていけばいいのか、イメージを言葉にするということ。
今日は2018年12月19日、あと二週間もない、今年が終わっていきますね。
やり残しがたくさんあるんですが、どう決着をつけていったらいいのか。
昨日は、福王子から北へ、今年最後の天皇陵取材だったと思っています。
載せたこの御陵は予期していなくて出会った、円融天皇陵です。
撮った写真をブログに載せて、まとめているところです。
古墳から天皇陵、それも京都の太秦、嵯峨、宇多野と京都の西北地域です。
自分の生まれて育った環境、風土が、この界隈に色濃くあると思っているから。
その自分の拠って立つ場所を、イメージの内に捉えたいと思っている気がします。


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 大学に復学したのが1970年4月です。1969年2月に休学届を出していたから、一年少しのブランクで復学です。復学したときは結婚していたから、学生をしながら結婚生活をしていたことになります。70年をこえて、学生運動が表面的には終焉していくわけですが、それぞれの学生が抱えた問題は、何一つ解決したわけではありませんでした。甲斐君がチーフになって同人誌を発行する、そのための研究会を日曜日の午後、喫茶店で開催する。せめて、縁をつないでおこうというのか、ばらばらになってしまうから、集まって、集団でいようという目論見だったのかも知れません。同人雑誌の名称は「反鎮魂」と名付けられていて四号まで発行されたのではなかったかと思います。ぼくの手元には二号と三号があり、ぼくの小説が掲載されています。もちろん未完の小説ですが、いまも手元にあります。

 小説の題名は「凍える焔」となずけていて、なんか左翼小説みたいな感じです。プロレタリア文学の範疇にはしたくなかったのですが。舞台は、石川県の内灘、京都、東京の三か所で、内灘闘争がベースにあって、それに巻き込まれた家族、それにぼく自身ではないけれど、それのような男が出てきます。けっこう長編物語のイメージがありました。でも、展開ができなかった、というのが本音です。短編で原稿用紙30枚くらいなら書けていました。書けていたといっても文学書に入るほどの書きっぷりではなかったと思うけど、いちおう起承転結はつけられました。もう、結婚してたから24才になっていました。文章を書こうと思ったのが18才の頃で、大学生、学園紛争、その他もろもろ、時代の中にいて翻弄されたけれど、小説を書くというのは、ひとつの目的でした。でも、それも、気持ちの上で、緊張感がなくなってくるのが1972年とか73年頃です。子供が生まれていたし、家族という複数の人間がいて家庭という形を作りはじめたのでした。甘味な生活を享受しようと思いました。大学を卒業するのは1974年の春だったと思います。

 この時でした、学費がいらなくなったので、ニコンのニコマートというカメラを郵便局に出入りしていたカメラ屋さん、三条河原町下ルにあった上田カメラ店で買いました。卒業して京都に残っていた友田、ぼくを入れて三人ですが、文学研究会をしようとの話になって、漱石研究をやろうという話になって、漱石を読みはじめました。北白川の銀閣寺のところにあったアパートの管理人室で、日曜日の午後、三人が集まって、とりとめなく話をしたのだと思います。もう、終わっていました。新しい時代が始まっていて、世の中は穏やかな日々を過ごすための仕掛けがいくつもありました。ぼくは家族持ちでお金もなかったから、遊びというものをする余裕がありません。まあ、パチンコくらいのもので、仕事の帰りにちょっとだけ、丹波橋のパチンコ屋に寄って帰ったものです。空しかったですよ、気分は、とっても暗かったことを思い出します。お酒は飲めないから飲みませんでした。マージャンも仲間に入ってまではやりませんでした。釣りやヨットやゴルフ、やる機会がなかったです。カメラ、ニコマートで子供を撮っておりました。アルバムを作っておりました。




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 1970年は大阪千里で日本万国博覧会が開催された年です。前年からこの年にかけて社会が大きく変化したと思いますが、ぼくにとってもおおきな屈折点になった年でした。仕事の方では、郵便局の貯金課に配属してもらい窓口係となりました。そろばんを使って計算をするんですが、ぼくにはそろばん経験は小学生の時にそろばん教室に通った経験があるということで、そろばんができるということになりました。足し算しかしませんが、不得意ですよ。練習しましたよ、家で。一生懸命でした。些細なことですが、そろばんで計算するが慣例となっていて、のちになって電卓計算機が出てきても、そろばんでした。電卓を使うようになるのは、ぼくが主任になってから、世間では電卓が主流になっていることを鑑み、電卓を使ってもいいことにしたものです。その場所の窓口は、カウンターの前には透明のアクリル板だったと思いますが張ってあって、手元に小さな窓があり、目の前には丸い顔ほどの窓に小さな穴が開いていて、声のやりとりと、手のやりとりができる構造でした。ロビーのことを公衆室といっていて、その向こうは道路に面していました。鉄の柵がガラス窓の外に張られていて、道路の向こうは大倉酒造の酒蔵の黒い木の塀です。

 窓口に配属された最初の日、1970年4月1日だと思えますが、事務室に入ったすぐに、ぼくの気持ちは落ち込みました。陰鬱な古風な場所に入れられた感覚は、でも、もう逃れようがなかったです。灰色の上っ張りを着た事務員さん。課長さん、課長代理さん、主事さん、主任さん、ヒラの事務員、男子は若くてぼくと同年齢に近い人でしたが、年配の女性が三人、いかにも封鎖的な因習的なイメージに感じられたものです。東京にいたときは出版社に勤めていたし、夢も希望もあって東京へ行ったわけですが、大学出てないやつが出版社にいても編集なんてできない、地方の本屋まわりの営業だよ、と言われていたし、やめるきっかけも、大学は途中で休学していて、東京に来ていて、中退でもいいや、とさえ思っていたけれど、京都に帰ってきて、郵便局の窓口担当になって、ひとり、こころのなかは、穏やかではありませんでした。4月28日に結婚式を挙げます。郵政省の施設で京都岡崎の屋敷跡の保養所で式が挙げられ披露宴もできました。友達は呼びませんでした。身内と来賓は課長さんだけでした。新婚旅行は南紀白浜で、宿泊は保養所でした。新婚さんだとわかると、保養所の職員のおばさんは、とっても親切にしてもらったことがよみがえってきます。新婚ホヤホヤ、すぐに郵政研修所でほぼ一か月の初等科の訓練に入ります。新婚早々に軍隊にとられたと戦中の話で聴いたことがありましたが、一月で出てこれるとはいえ、寮生活を送りました。

 生活は安定してきたと思っていました。給与がもらえます。周りの人は給与が安い、と言っていますが、ぼくは、郵便局ってこんなにもらえるんや、とむしろ驚きでした。でも、妻子ありで生活をするには、ちまちま節約して生活をしないといけない。そういう勉強ができたと思います。もとから生活が豊かではない部類だから、貧富の差、そのことに腹立てることはありませんでしたが、自分の身を守る、そのことが経済的に出来るということに、喜ぼうとしました。万博の最中でしたが、一度だけ田舎の父ちゃんが妹を連れて万博を見に行くというのでついていった、これだけです。当時、反博というのがあって、万博反対派です。ぼくもまあこちらの方で、万博反対ですね。深い内容を考えるのでもなく、ムードに押されて、反対を唱える、そういう輩だったと思います。小学生の頃から生活の環境が、そういう地域だから、必然的に反体制派の方に傾いたのだと思っています。でも、1970年代、若い世代は、新しい生活を手に入れ、リッチな未来に向けて、希望を持ちます。こころはともあれ、団塊世代と後に言われるようになる年代の走りですから、実感として、豊かな生活のイメージが溢れた世界が、目の前に始まってきました。住むところがあり、妻と子がいて、核家族そのもので、模範家族、模範家庭です。プチブルジョアジー、プチブル、小市民的、なんて言って小ばかにしていたけれど、そのプチブル生活にはまっていきました。


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 1969年10月21日は東京でべ平連のデモ隊に参加して、それを機に出版社を辞めて、京都に戻ってきました。錦を飾る、とは裏腹に、夢破れて山河あり、帰る処があった、という感覚だったと思えます。東京での生活は無理だと思えて、京都へ戻りました。彼女とは結婚するところまで話は進んでいて、まだ東京にいる時に結納を済ませ、翌年には結婚するところまで決めていました。東京残留か京都帰還かと迷ったのは、結婚生活をどこでするかということで、東京か京都か、という判断に迫られていたのでした。結婚と書きましたが、当時はまだ同棲という考えはなくて、親の反対押し切って手鍋さげても、ということか、親の承諾の元に結婚するか、という選択しかなかったものです。さだまさしの神田川の世界は、もう少し、あと数年後の感覚です。1969年当時には、実質には共同生活の中身は変わらないけれど、結婚式をあげてその日から一緒に住む、ということでした。内縁関係という言葉がありますが、ぼくの場合は、それではなくて「結婚」でした。

 東京では、本郷に近いところに、ぼくより年上で甲賀出身の清水さんと二人住まいしていたのですが、結婚を考えると別の処に住む。板橋あたりだと一畳千円の家賃でいけたから、具体的に東京住まいするにはと、板橋のどの界隈だったか、見にいったことがあります。内面を語ると、ぼくは打ちひしがれていた、という心情でした。夢も希望の消え失せていて、生活をするために働いて金をもらう、このことが東京で出来るだろうか、との思いでした。いまもってそうですが、生活のための金儲けに専念する、ということが基本的に出来ない人間なのです。ということで京都に帰ってきて職を探すことにしたのでした。京都へ帰ってきたのが1969年11月、新聞の求人欄で仕事を探します。スーパーの西友が新規オープンする三条商店街の店舗で、電気屋が人を募集との広告を見て、応募して、採用してもらって、一月ほど仕事をしました。いまでもブラック企業とかありますが、そこは実質12時間程勤務して、自動車免許を持っていたから配達要員で、けっこうふらふらになって、やめさせてもらいました。

 1969年12月になって、郵便局でアルバイトするようになります。新聞でアルバイトを募集しているとのことを知って、叔父さんが郵便局に勤めていることを知っていたので、訊いてみました。それなら、と叔父さんが勤めている伏見郵便局へ来たらいい、ということで集配課でアルバイトすることになりました。運転免許を持っていたから、スクーターに乗ることになって、速達の配達、大口の配達、ポストを開ける開箱、それらをすることになりました。年末の郵便局、集配課、年賀状の時期で、大忙しの繁忙期でした。それから24年間を勤務するようになる最初でした。伏見という処に行ったのは、この時が初めてでした。京都の南、京阪電車で丹波橋まで乗って、そこから西へ五分ほどで疎水の橋があるんですが、そのコーナーの処に郵便局がありました。集配課でアルバイトから臨時補充員という名称で採用され、それからしばらくして事務員の名称で正式採用されます。歳が明けて採用試験を受けに行って、合格通知をもらったんですが、そのまま庶務課に届けないままでした。どうしたはずみか庶務課の主事さんだったでしょうか、合格していたことを知られて、外務職から内務職にかわりました。所属は集配課から郵便課にかわりましたが、集配業務を続けておりました。そのころには叔父さんの配慮もあって、新年度には貯金の窓口へ行くことが内定しておりました。



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