中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の自伝を書いていきます。すでに収録済みの寫眞帖ブログ、撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

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<ぼくは18歳>
 ぼくは四月生まれなので高校三年になってすぐに18歳の誕生日を迎えました。なにもかも、遠くの方へ行ってしまった感がありました。1964年のこと、昭和39年です。掲載した写真は、前年の文化祭でのステージ、吹奏楽部の初演舞台です。指揮しているのが中川で、演奏は嵯峨野高校の生徒と助っ人の蜂丘中学のブラスバンド有志です。このあと部長を後輩に譲って、ぼくはなにをしていたんだろう、17歳の後半、文学に興味を持って、文章を書きだすようになります。詩集の発行を経て、三年になって、弛緩してして、間延びしてしまった感覚を思い出します。すべてが終わったような感覚で、次につなげていけない、高校三年の夏には運転免許証を取りに四条のデルタへ行きました。この夏、書店で見た文芸春秋は芥川賞の受賞作品が載っていました。同時代の現代文学にふれる最初でした。受賞作品は柴田翔氏の「されどわれらが日々」、一気に読み、衝撃を受けます。内容はいまここで書き上げることを避けますが、自殺する学生、教授と関係する女子学生、その遺書、六全協のことは大学生になって知りますが、その夏は、けだるくかったるく時間を持て余したような記憶がよみがえります。

 大学に進学しようと思っていた二年生のとき、三年生になって突然大学生にならない、受験しない、就職する、という流れになって、決断しました。いいえ、この決断は、受験勉強していなくて、大学に受かりそうもなかったからです。ぼくのあたまのなかで大学といえば、京都大学、二期校では信州大学という考えがありましたけど、それは無理なことだと悟って、就職にしたから、もたもたした時間を過ごしていたのだと思えます。東京オリンピックがあった秋です。池垣先生のおうちに入り浸る男子学生がいて、その一人がぼくでしたが、池垣先生からは、頼りにされたけど、好かれてはいなかったように思う。というのも池垣先生は男色であって、ぼくは対象外だったと思うのです。名は伏せますが池垣先生の家で、服毒自殺を図った親友がいて、呼ばれて行きました。深い深い呼吸で眠っている親友を、唯一立ち会ったのがぼくだったと思います。狼狽される池垣先生をぼくは虚ろに励ましていたと思いだされます。

 夏が過ぎ、冬が過ぎ、卒業間際になって、ぼくの成績はどうしようもなく落第点で、補修を受けたら卒業の認定をするというので、ぼくは、そのときには、朝から学校へ行き、補修を受け、結果、卒業証書をもらいました。進学校で12クラスのうち11クラスが進学希望者だったようです。ぼくは就職組に入ったから、どんなお人がおられたのか、ぼくは学校へ行かない、いまでいえば登校拒否生徒、真面目だと自分は思っていたけれど、行為は不良学生の部類だったと思います。いやはや、淋しさしかなかったですよ。卒業式の日なんて、逃げて帰りたい気持ちでした。すべてがおわり、おわった、その虚しさですね。希望なんて見いだせなかったし、将来の自分なんて予想もできなかったし、目の前には、十字屋楽器店に就職する、という現実だけがありました。卒業と同時に、無償で十字屋楽器店で働くようになりました。暗い、暗い、そんなイメージしかなかったですね。レッスン室にピアノがあって、ぼくはひとりピアノを弾き始めます。あこがれのピアノに触れることができたのです。






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<ぼくは17歳>
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 手元に撮られた写真のデジタルサイズがこの小さいのしかないので、このイメージを掲載します。学生服にコートを羽織った写真は九州へ修学旅行の行きしで関西汽船の別府行きの船のデッキで撮ってもらったもの。かろうじて「そなちね」と読めるガリ刷りの紙は個人詩集の一号と二号、三号の部分、というところですね。ともかくも、高校二年生になって、なにかから逃れるようにして受験勉強に入った春の終わりごろ、吹奏楽部をつくるのでやってくれませんかと言われたのです。音楽部にいた梶谷君だったか(かなり若くして亡くなられたと聞きます)です。その気になって、吹奏楽部創部のために、奔走する。創ってメンバーを集めて練習をして文化祭に間に合わせる。そんな切迫した日々のスケジュールで、勉強はそっちのけで、没頭します。

 高校時代の数年間は、いま思いだしても暗いイメージでしか思いだされません。時代が暗かった、なんて思いもあるけれど、精神的に、今なら心的に、冷めて荒涼とする原野に放り出されたような気分だったと思えて仕方がないところです。何事かに取りつかれると、夢中になる性質のようで、それは恋においてもそのような傾向があって、夢中になるというより心冷たくさせられてしまって、街の中を彷徨していたように思います。片思い、深く、深く、片思い、だったのだろうか、ほんとうに、深い初恋を体験するとき、その子と逢引したじゃない。手を握るとかそういうことは考えられなかったけれど、男子の16歳、17歳なんて心は子供です。いや、女子の方が大人びているといえばいいのかも知れない。暗い裸電球に傘がかぶせられた街灯に照らされた嵐電の駅。夕刻に電話があって会えるというのでバイクでいくと、その子は向こうから来る電車に乗っていて、ホームに降りてきて、暗い夜道を10分間、歩くだけの逢引でした。

 そのことは誰にもいえなくて、人生、ここまできてようやく、その日々の概略を、書き記すことができるようになったところです。詩集を編集するのは吹奏楽部の立ち上げが終わり、文化祭で初演が終わったのちの出来事で、期末試験の前日に、生徒会室の謄写版で鉄筆原紙にローラーをかけて、摺りあげ、ホチキスで止め、そういえば一部五円でクラスの女子に売りつけました。買ってくれましたよ、ぼくの詩集、きゃあきゃあ言ってたみたいな記憶がよみがえってきますが、内心は冷え冷えのこころを少しだけ暖めてもらえたのかも知れません。吹奏楽部は、ほぼ一人で立ち振る舞い、生徒会の臨時総会を開いてもらって、生徒一人当たり月額10円、年額120円を楽器購入のために集める案を、強引に通してしまった記憶がよみがえります。何もないところからプロジェクトを立ち上げ成功させた最初の体験が、ここにあります。心の想いとは裏腹に、でしか事が起こせなくて、必死になって頑張れないようです。その心の想いとは、いつも成熟しない恋心ですね。




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<ぼくは16歳>
 この写真って、高校入試のときに必要だというので写真館で撮ってもらった肖像写真だと思います。千本今出川の南西角にあった写真館で熊田写真館、いまは廃業されているけれど、まだ店構えは残っています。中学三年生ということですね。この熊田写真館の隣に寿司虎があって、ぼくは高校一年の秋ごろからこの寿司屋さんでアルバイトします。アルバイトといえば、中学三年生の夏休みには、衣笠市場の八百屋さんで一か月間アルバイトしました。日当300円で一か月9000円ほどもらったことを覚えています。そのアルバイト料をもって、そのときにはもう奥の三畳間で臥せっていた祖母セイさんに見せにいきました。アルバイトは、この八百屋が最初で、近くに大誠パン工場へ一週間ほど行きました。パン工場では、気持ちが耐えられなくって辞めてしまいます。

 感情多感な頃といえばそのような年頃、1962年か63年ごろですね。女子が気になる年頃でもあるわけですが、純情なもんですね。ほのかな、淡い恋心、言い寄られたり、こちらから言っていったり。でも、ぼくは片思いばかりですね。向こうから近づいてきた女子に、タエ子という名の女子がいて、この子はそういうことでいえば積極的だったのかも知れません。一緒にいることも多々あって、タエ子の家へ遊びにいきました。夏の八百屋でアルバイトしていた間、夜になると家へ遊びに行っていました。なんでだろう、女子ばかり三人姉妹の、タエ子は真ん中の子で、ぷっくら胸がふくらんでいるのが見えてしまって、見てしまったけれど、べつにそれだけです。そういえば手を握った最初の子であり妻以外には最後の子がこのタエ子、一回切り、どうしたはずみか握っていたモノを奪い返そうとして、握ってしまったのです。このタエ子は、その後、中卒で就職して、まもなく琵琶湖で溺れて死にました。

 高校生になると、白梅町から嵐電に乗って常盤まで、嵯峨野高等学校です。京都の公立高校は学区制で、ぼくは山城高等学校へ入学の予定が、嵯峨野高校になってしまったのです。でも、住めば都という諺があるように、そこへ入学したからこそ、たぶん、吹奏楽部を創部して、個人的には詩集を発行して、強い恋をして、冷え冷えとする青春のイメージです。大学進学を思っていたけれど、三年生の秋になっていたと思う、就職する、と進路部の就職係の先生に申し出ました。音楽が好きだからということで、十字屋楽器店の技術部を紹介してもらって、ピアノの調律をする目的で就職先が決まりました。大阪は心斎橋にあったヤマハの大阪支店に研修名目で三か月間所属することになるのでした。大学へ進学しなかった分、おおいに楽しめたかといえば、まったくそうではなくて、淋しさのなかに日々を過ごしておりました。唯一の希望は彼女がいたことでした。


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<フォトハウスの歴史>-2-
 前回ではフォトハウスの企画を文書にして関係各人へ郵送したところから記しましたが、そこへ至る前史としていることを記しておこうと思います。><写真舎「PHOTO HOUSE]からの御案内>(1984.11.15)の郵送した文の中に、その経緯を書いており、企画内容にもふれているので、それを転載します。
 
<かねてから、世界にはばたいていけるイメージ都市<京都>において、現代写真の質を定着させるべく、また現代写真の質を具現化する人材の輩出に向けて、そのバックグラウンド創りとして幾多の方法を考えてまいりました。
 たとえば「図書館に写真集を!」運動(1982.6)や、「フォトシンポジウム・京都」の開催(1981.11~)、また写真批評誌「映像情報」の発刊(1980.8~)等々。そして現在1984.11、なによりもそれら写真をめぐる潮流の意をくみとり、今後も引き続き、より発展的にそれらを総括し、新たなる写真をめざして、実践していける母体創出の必要を痛感してきたところです。
 そこで私たちは、写真という表現形態を持って、個々が一層主体的にかかわって、よりすぐれた写真活動のできる土壌を創っていく母体として、機能していけるシステムの創出を基本とした、写真舎「PHOTO HOUSE」の設立をもくろみ、ここにその準備会が発足しました。
 具体的には、次のような企画と形態を考えています。
1、フォトワークショップの開講
2、フォトシンポジウムの開催
3、写真展などの開催
4、写真批評誌の発行
5、写真集など単行本の刊行
6、その他、営業に関する企画
(中略)
皆様のより豊かな創造で、積極的な参加を期待しています。>


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<フォトハウスの歴史>-1-
 1984年11月、<写真舎「PHOTO HOUSE」設立のご案内>という文書を発出して、関係各方面へ郵送したことから公になったフォトハウスです。京都新聞に記事で紹介されたのが翌年1985年1月17日付でした。
 「現代写真のレベルアップと写真家育成をめざした新しい組織づくりが、京都のアマチュアカメラマンらの手で進められている。名付けて「フォトハウス(写真舎)」。写真塾の開講や批評誌の発行、シンポジウムの企画から写真作品の販売まで手がける計画で、カメラマンはもちろん、ジャンルを超えた人たちも加えて活動する考えだ。19日夕には、幅広い人たちに参加を呼びかけ、事務局づくりがスタートする。」
 こうして京都新聞に記事を掲載していただけて、新聞記事を読まれた人たち、その時の光景を思い出すと十数名の方がおられたと思えますが、会場となった「まつもと設計事務所」に集まりました。会場としてお借りした場所の経営者、松本健氏の支援と協力で、開催にいたったところでした。
 このフォトハウス構想は、それに先立つ季刊雑誌「映像情報」を発行していくなかで、イメージとして明確になったことで、東松照明さんとのセッションで、しだいに明確化されてきて、組織図と文章になったものです。松本健さんを知るのは、野口賢一郎さんを通じででした。結局、新聞記事を見てお集まりになった方々が、事務局メンバーになられることはなく、もう寒くなっていた時の集まりは、そこかの喫茶店がミーティング場でしたが、出席者ゼロという惨たる結果となってしまいました。
 「フォトハウス構想」を図式化し、文章化して、最初に見て読んでもらったのは東松照明さんでした。時期尚早、というのが東松さんの見識でした。実現するとしても資本のあるところに真似られる、とも分析されたのでした。今、思うと、最初、数か月で惨たる結果となったことを思いだすと、話がかみ合わなかったことが、わかります。理解されない、それではいけないのだけれど、現状に存在しないから、理解してもらえない。そういうことだったのだ、と思えます。
(続く)



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