写真への覚書
nakagawa shigeo  2005.11.24~2005.12.22
392_9283
-1-
旅をした。デジタルカメラを手にして旅をした。
イタリアを駆け足で旅をした。俗に言う<旅写真>を撮った。
デジタルカメラにはバッテリーが必要で、ボクの手元には海外で使う充電アダプタが無いもんだから、バッテリー消耗まで撮ろうと思っていった。イタリアは、ミラノに到着して、ベネチア、フェレンツエ、ナポリ、ローマという行程だった。

今日掲載した写真は、フェレンツエの街の遠望である。あたかも絵葉書のように撮った一枚である。写真を撮った現場は、朝であった。観光のパック旅行だったから、写真を撮ってベターな場所が設定されていて、ガイドがしきりに写真を撮ってください、と云っていた。ボクは、この場所からの遠望を1カット、記念に妻を立たせて1カット、計2枚を撮った。写真は、デジタルカメラからパソコンに吸い上げ、そのまま無修正のまま、掲載している。

写真は、旅する好奇心を留めておく装置だ。写真の撮られ方のひとつの方法である。1849年、マキシム・デュ・カンはフローベルと一緒に、エジプトを旅し、写真を本国(フランス)へ持ち帰った。1852年には写真集を刊行した。これが旅写真の最初であろう。その後、1世紀半を過ぎたいま、2005年11月、ボクは、同じスタイルで、イタリアを旅したと思っている。写真を撮るのが第一義の目的ではなかったにせよ、同じ行為をおこなった。

遠くのモノを近くへ、見知らぬモノを探して、写真が撮られてきた歴史がある。その延長線上に、今回のボクの写真行為がある。ボクの撮った177カット(ここでバッテリー切れ)は、旅の記録&記憶となる、のだが・・・。これらの写真は、ボクがいま、思考している写真行為とは全く逆方向なのだ。つまり、自分の生活空間の痕跡を留めていく写真行為を試みているからなのだ。

<いま、写真行為とはなにか>
ボクがここに試論するテーマである。その冒頭に、先日イタリア旅行から帰国したボクの撮った写真を掲載した。ここから見えてくる写真行為について、少しまとめていきたいと思う。

-2-
写真を誰のために撮るのか、と問うとき、現在時点では、自分のために撮る、と答えたい。では、自分の、何のために撮るのか、と問うと、それは記憶を留めておくためだ、と答えたい。
外に向かう自分と内へ向かう自分がある。この内外に向かう接点、あるいは接面が写真行為なのだろうと考えている。これは文章作業と軌を同じくする立場だと考える。いうなれば自己認識作業の手段として、カメラという道具を使うと云うことだ。

自分を確認していく記憶装置として、写真が主要な位置を占めている。だれもが持っているアルバム。中学や高校の卒業アルバム。旅行したときの記念写真。それらの写真の被写体となった自分をアルバムに仕舞い込むことで、記憶装置となっていく。
この自分が被写体となった写真から、自分が撮った写真へと、位置関係が変わる記憶装置なのだ。写真行為とは、自分の記憶装置をつくるための手段だ、と云える。

自分とは何か、自分とはいったい何者なのか?この問いは、極めて現代的な問題である。自分の内部で、自分の位置がバランスを失っていくと自覚したとき、自分の中で自分を支えるモノ、それが自分が撮った写真である。あたかも輪廻、スパイラル的に循環する自分の感覚を定置させるモノ、確かな記憶となる写真なのだ。

写真の位置を、このように置くと、旅写真は、おおむね外に向けた自分の記憶となる。では、内に向ける自分の記憶となる写真とは、何か。それは<旅>とは反対方向の位置、<日常>である。
日常とは、家族、友人、生活地場空間などによって構成される<場>である。自己のアイデンティティ、立ち位置の確保なのかも知れない。日常の細部を観察し、見ていく最中で、写真という手段を使うのだ。写真行為を、このように位置付けることができるのではないかと思う。

-3-
写真は、カメラレンズの前にあるものが写る。逆に云うと、カメラレンズの前にないものは写らない。ところで、写真を撮る人間のことを捉えてみると、目の前で見えることのほかに、記憶の像を呼び覚ますことができる。つまり目で見える物と、かって見た記憶がある光景を思い起こすことができる。
それから人間には、感情がある。カメラと人間を対比させてみると、カメラの機能を超えて、人間には<記憶の像と感情>がある。

ここで写真は、人間のカメラ操作によって画像をつくりだす。それも目の前に現存する光景を捉える。そのとき人間の中の作用としては、記憶と感情が入り混じっており、目の前の光景を見て、これをカメラに取り込む。そうして出来上がってきた写真は、記憶も感情もない光景だけが定着されることになる。写真とは、こういう代物だ。

では写真を見るとき、写真の中にある光景を見る。撮影されたとき、カメラの前にあった光景だ。この光景を見て、写真の中にある光景が何であるかを知る。もちろん見る人の見た経験に照らし合わせて、写ったものが何であるかを知るわけだ。そこに光景を記憶とダブらせ、感情を湧かせる。つまり写真を介在として、撮った人と見る人の間に、具体的な物象を介在させて、感情を共有させる。

問題は、ここから始まる。つまり撮る側は、見る側に感情を共有させることを意図しなければならない、ということだ。ボクは原則として、写真を撮り、人に見せることの第一目標は、このことに置いている。写真の被写体にまつわる意味づけの伝達は、その後のことでよいと思っている。理屈が先行することよりも感情が先行することを、第一目標に置いている、といえる。

-4-
ところで、写真を撮り作る人、作家は何を撮ろうかと考える以前に、何をテーマにしようか、と想い巡らす。この回路は、写真を撮る行為だけではなくて、文章を書く、絵を描く・・・等々と同じことだと思われる。写真以前ということが云われる。写真を撮る行為にいたる、その前段の作用のことだ。ここに記憶と想像、論理との符号といった領域がある。その上でなお、感情の交感という目的が目論まれる。

平たく云えば、自分もいる巷の関心ごとを整理していくこと。そこに自分の感情を動かす物体を配置する。たとえば、ボクの場合、グローバル化する世界、とゆう切り口がある。西欧化する世界、とゆう切り口がある。これは抽象化された概念だから、これに値する現実の光景を見定めていく。この文章に添付している写真は、西欧文化の象徴として捉えているモノだ。

さて、巷の中心となる関心ごとに対して、自分の位置を確認する。グローバル化に対してローカル化。西欧化に対して東洋化または日本化。つまりローカル化と日本化。このことが写真を撮る主たるテーマになってくる。そうして自分の感情を見つめてみると、都市の光景よりも農村の光景に惹かれていく自分を発見する。蘭やチューリップといった洋花よりも、椿や桜といった和花に惹かれる自分を発見する。ファーストフードもいいけれど、山で拾った胡桃や銀杏に興味を惹かれる。この惹かれていくときの感情。感じる心がある。

写真にするテーマは、関心ごとが様々であるように、様々だ。そうして選択していく被写体も様々だ。被写体に対して感じる感じ方もまた、様々だと思われる。他人のことは判らない。しかし少なくとも自分の感情は、判る。この自分の感情に従ってあげること。これが撮影現場での、撮影の目安となるのだ。

-5-
けっきょくは、自分に興味があり、好奇心がはたらく場所でしか、写真を撮る気にはならない。これが突き詰めていく先の結論のひとつだ。
写真を撮るという目的に、クライアントから依頼されて撮り、対価を得るというのがある。いわゆる世間ではプロカメラマンという職業だ。広告であれ報道であれ、イメージの移送者として捉える立場だ。あるいはアマチュアカメラマンと呼ばれる人たちが、コンテストに出品を目的に写真を撮る、ということもある。コンテスト応募は、本質として射幸心を駆り立てられる。写真産業という枠のなかで、前者は生産者、後者は消費者としての存在する。

ここで云う写真行為とは、そういったことが派生的に発生する要因はあるとしても、もっとプリミティブな場においてである。何のために写真を撮るのか?と問うとき、キミはなんと答えるのだろう。撮る目的を、自分の内に向ける写真行為・・・。自分形成のための写真。自己認識のための写真。自分に興味があり、好奇心がはたらく場所。つまり自分が知りたい欲望を満たしてくれる場所・・・。

写真の歴史を紐解いて、大雑把なつかみで云うと、自分の外に向けていた対象が、次第に自分に向けられてくることがわかる。社会的な視点から見る風景から個人的な視点で見る風景へ、そうして極私的な視点で見る私風景へ、である。ボクは、すでにこの立場、極視点で見る私風景、という立場にいる。そこから見える風景を捉えていきたいと思うのだ。

ところで、写真というものは、自分の外にある風景(光景)を撮る、ということを根底としている。現実に存在する光景を撮ることでしか写真は成立しない、そういう宿命を持っている。極私的な視点で見る私風景といえども、その宿命から逃れることができない。ここに、<私>という存在と、光景を構成する<モノ>の存在とが出現する。<私>と<モノ>が置かれた場。この場を軸にして、両者の具体的な関係を考えていかなければならないのだと思う。

-6-
<私>と私が遭遇する<モノ>、要はこの<モノ>を捉える、捉える視点というものだ。これを導きだすためには、知識が必要だ。知識は、<理>の論だ。ところで、写真を撮るのに必要な感性、これを直感という。直感は、<理>ではなくて、私の<情>が感じるということだ。理に裏づけされた直感、なんていい方がある。これなんぞは、かなり矛盾を孕んだ言い方だとボクは思う。理は感情を排除する。情は感情そのものだ。そして直感とは、感情が振るえることである。

<モノ>とは、実像である。鉱物、植物、動物、それから、火、水。空とか風とか実像でないものをも含めようか・・・。写真に写った中味のことだ。風は写らない。暑さや寒さが直接には写らないように、風は直接には写らない。写真は、<モノ>が組み合わされて構成されるイメージ体だ。

<私>とは何か。この設問を解くには、かなり難問・難解だ。現代科学が、<私>を生物学的に、物理学的に、工学的に、捉えようとしている。哲学や文学という領域も<私>を捉えることに費やしてきた。としても、それらは理の産物だ。人体の生物学的解明、記憶の解明・・・。パスカルさん、カントさん、老子さん、その他沢山いらっしゃる人間を捉える文化遺産がある。

写真は、おおむね、この科学成果や文化遺産のうえに立った産物であった。カメラという道具を使って、バックヤードにこういった産物を絨毯のように敷きつめて、作りなされてきたものだった。その絨毯のうえに立った<私>が、<情>のところで感じることが必要であった。作家と鑑賞者の共通基盤が、そこにあった。はたして現代写真は、このようにして成立してきたと思われる。
-この章終わり-