写真への覚書-2-
2006.2.7~2006.7.18 nakagawa shigeo
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写真は、視覚イメージです。目で見て内容を確認します。この類には、絵画や版画などがあります。最近なら静止画と呼ぶ代物です。この写真と対置できるのが文章です。文字で記された文書、小説や詩・・・といった類です。ボクはこの写真と文章という基本的二項を軸に、論をすすめようとしています。静止画は、写真だけにこだわらない視覚イメージですが、近代以降の道具としてカメラが出現してきますので、ここではカメラでつくる写真を置きます。

ヒトの表現ツールに音表現があります。音楽です。写真と文章という二項は、表現ツールとしての基礎的形式です。これに音の項として音楽を加えて三項にしてもいいのですが、ひとまづ写真と文章とします。

写真は、その後、映画を生み出し、最近ではメディアアートの素材として、映像が使われます。写真が絵画の発展形だとすれば、映画は演劇舞台の発展形、メディアアートはヴァーチャル空間へと発展した形です。イメージの原形が写真にあるといえます。文章は、文字表現です。一貫して文字表現です。文字は、言語を形式化してきたものですから、音声を原形としています。音声は、音、音楽につながります。

こうしてこの世に、写真と文章という二項が、存在しているのです。文化を創るとか、記録を残すとか、さまざまな側面で、写真と文章が絡み合い、入り子状になって、現代文化の底流にあるように考えています。

ここは、写真学校のフレームだから、写真を軸として、このような項との関係性、反関係性を捉えてみたいと思うのです。

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写真を鑑賞する立場でいうと、写真を観て、内容を読むということをします。読むという表現は、文章を読むごとく、写真に表されたモノが何であるかを認知し、その背後の意味を理解していくプロセスです。このような写真の解読方法を、写真批評というレベルで行うわけです。

先に、写真と文章という二項があると記しましたが、この「写真を読む」というプロセスは、あたかも「文章を読む」という行為に類似しているわけです。写真はイメージそのものだから、むしろ、文章に先行して写真がある、ともいえます。

写真が、言葉や文章に従属している、という見解は、写真を読む、というプロセス上で起こる見解です。写真を見て、言葉で内容を理解していくからです。現代写真は、おおむね、この枠組みのなかで撮られ、発表され、鑑賞されてきたプロセスです。

ところで、写真の情緒喚起力は、感情に訴えてくるものでもあります。言葉ではない直接的なインパクトを、写真は持っています。見た人の情緒を揺さぶる写真です。 写真が言葉や文章を離れて、独り立ちするとしたら、この情緒を揺さぶる、ということに着目することで、本来的写真のあり方が見えてくる可能性があります。

かって情を排除し、理知をベースに写真を作ることが要求されてきた感があります。いや情が無いのではなく、情プラス理知であったといえます。写真の現在的課題は、この情の処理だと思っています。理知に先行して情緒をとらえる。むしろ理知を排除して、情緒を全面とする。そのような写真が、ありうるのかも知れないと思うのです。

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写真を情でとらえるとき、そこには理屈がいらない、とさえ思えるのです。情に根ざした領域で感情に訴える作風というのは、ボクは、世代的に受け入れないヒトだった。もちろん、繊細な日本の美、なんてゆうイメージの、感情領域をさして、いっているんですけれど、侘びとか寂びとか、花鳥風月を愛でる心とか、この領域に心傾けることを拒んできたわけです。

写真が写真として成立する基盤はなにか?、なんて、このような問題を突きつけていたボクがいた。それは論理で賄える領域に、写真を掬い上げようとする作業だったと思います。でも、しかし、感情、情、心情といった心の問題が話題になってきて、理性と対置する格好で、情の重要感が浮上してきている現代です。そのように想って、ぐるりと見回してみると、これまで情は経済社会活動の中心から軽視され、いやむしろそぎ落とされてきたことに気づいたわけです。

いいえ、情を軸とした領域は、エロスの問題でありセクスの問題であり、これらはおおむねその外側に置かれながらも、何時のときも、世に存在し続けてきた領域だったのです。エロ写真家は、重宝されながらも、低い評価しか与えられない時代だったし、エロ小説家は、重宝されながらもアウトローのように扱われてきたのです。

ボクにとっての、つまり情の問題は、直接、間接に、エロス感情の問題にいきついてきたのです。このように思いだすと、戯作といわれている文学や写真が、エロスをテーマにして、その情欲を掻きたてる作用を持っていて、この作用を封じる力が、中心となる社会では働いていたことに気づくわけです。

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写真の中味を、情のレベルでとらえてきましたが、ここでは写真の外見について触れてみたいと思います。写真はカメラという光学機器によって制作されます。現在はデジタルカメラに移行している真っ最中で、ほぼフィニッシュ段階にまで来ています。近年のデジタル環境が引き起こすメディアの変化を捉えるなかで、写真の位置を確認します。デジタル環境のパーソナル化現象です。

写真は静止画です。時間を有しないわけではなく、過去となったある時間帯をシャッタースピードの時間で区切ったものです。それの発展形として動画があります。この動画は、静止画を連続させて、一定の時間帯を保証していくものです。見る側としては、一枚の静止画が見ている時間帯を保証しているのに対して、その時間帯を静止画を連続して見て、動画とするわけです。

メディアは、紙におおむね銀粒子で定着させたプリントから、電子信号によるCTR画面表示へと変わっています。それと通信回路の変容があります。紙メディアから、CTRメディアへの変容です。それにネットワークが加わります。ネットワークの形体は、インターネット・ネットワークです。近年、特にインターネット・ネットワークは、個人利用の傾向を強めてきています。

つまりどうゆう現象が起こっているかといえば、それまで一方的に流されてきたマスメディアが、パーソナルメディアとして、個人が情報を発信できるようになったことです。静止画(写真)から動画(ビデオ)への拡大と同時に、パーソナルメディアとしての情報発信が可能になったというわけです。ここに現在の写真をめぐる外見があります。

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写真について、中味を情、外見をネットワーク環境として見てきて、この関係のなかでどのように成立させていくのか、というのが次の問題です。写真を、コードのないメッセージだと、R・バルトは構造分析していますが、写真は即物的だといいます。写真に撮られた<それ>を読み取るには、読み取るためのコードが必要だというのです。写真の第一義的な意味は、そこに撮られた<それ>そのものです。

ここから派生して言語・言葉の介在が必要となってきます。<それ>が意味するものを位置づける言語・言葉です。これを含めて、写真は意味をなしてきたのです。その写真の意味するものは何か、と問われれば、そこに答えとして用意されるものは、言語・言葉による説明なのです。

写真を<情>のレベルでとらえることは、じつは、つまりこの言語・言葉以前に、写真そのものが放つインパクトをとらえることであるといえます。視覚によってインパクトを受け、情を動かすこと、このこと自体です。ボクは、このことを写真の原点に置こうとしているわけです。

ここで動画を取り上げてみます。動画は静止画を連続させたものであるとしましたが、それを使用するレベルで、音を付属させます。言葉、音楽、自然の音など、聴覚です。視覚と聴覚の喚起により成立させます。この逆用で、スライドショーを組み立てることがありますが、これは静止画・写真を、連続させて動画のごとく展開するバリエーションです。

次に写真の使われ方は、コミュニケーションツールとして存在する、ということです。写真を介して<情>を交換する装置だということです。この交換場として、現代のツールであるインターネット環境を使うというのが、最新のコミュニケーション方法だと考えているわけです。

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ここでは「写真をめぐる外観」と「写真が意味する中味」を、とらえる作業をおこなっているわけです。外観といい、中味といい、時代変遷のなかで、写真の撮られ方や写真家が向き合うテーマなどが、変遷してきています。この時代における変化は、写真の歴史を研究することで解析できます。ここでは、その歴史研究の成果をふまえ、現在写真の置かれた位置・場所を確定させるための作業を行う必要がある、と考えているわけです。

外観でいえば、従前のフィルムによる写真制作とデジタルによる写真制作の方法があります。時の流れは、新しいツールの方向へと進みますから、デジタル写真が主流になります。内容的外観でいえば、ドキュメント手法とアート手法があります。ファッションを含む商業写真・コマーシャルフォトは、ドキュメントとアートの混在手法です。

中味でいえば、写真家の社会と自分への向き合い方です。報道を含む商業写真家は、産業社会のニーズにより、またクライアントの要望により、おのずとテーマや手法が拘束されてしまいます。また社会構造、経済構造の中に置かれている<写真>であるかぎり、社会機能としての<写真>があります。ここでは、社会機能としての写真以前の、自己へ還元する機能としての<写真>について考えていきたいと思うのです。

自己へ還元する機能とは、お金に還元するために写真を使うという目的の方向ではなくて、自己省察のための手段として写真を使うという方向です。あるいは自分が生きることの満足を得るための手段として写真を使うともいえる方向です。情にスポットが当てられ、デジタルが新しい潮流だとすれば、自己へ還元する機能として使う写真は、デジタル環境のなかでの情の表出とゆうのが、近未来に主流的な、外観と中味の組み合わせとなると推定されることです。

-7-補
何のために写真を撮るのか。この「写真への覚書」は、この問題についてアプローチしていこうと思います。まま、写真学校なんぞを運営していると、この「何のために・・・」という疑問を抱く生徒さんがおられるからです。そこで、写真の有用性を整理してみて、その有用性に添って写真制作をすることを、お勧めするわけです。

第一の有用性は、写真を撮ることで、日々の生活を経済的に支えることを目的とすることです。つまり、写真を撮ることでお金を稼ぐ。俗にいうプロ・カメラマンになるという目的です。ああ、このセクションは、すでにこれを実現している人は、対象外です(笑)。写真には、経済活動において需要供給のバランスがあります。だから一定の技術を身につけて、その供給者となるように実現させることです。

第二の有用性は、写真を撮ることで、アーティストの仲間入りを目的とすることです。ええ、アーティストとして、日々の生活が経済的に支えられれば申し分ないんですが・・・。写真を撮ることで、アーティストであるということは、現代アートの枠組みを理解しなければなりません。その上で独自の表現物を作らなければならないわけです。もう、こうなると、写真家という肩書きじゃなくて、アーティスト。アーティストとは何ぞや、とか、アートとは何ぞや、とかの定義は別にして、かっこいいアーティストです。でも、これで生計を立てるというのは、至難の技ですから、学校の先生稼業で生計を立てながら・・・、っていうのが無難かも知れないですね。

第三の有用性は、自分のために撮るということです。でも、芸術行為とか、アートプロジェクトとかいうもの、また写真を撮る行為というのは、人に見せるということが、実は前提にあるわけで、基本的に自分のために撮る、なんていうことは現代社会の構成員としては言い逃れに過ぎないのです。そこで、自分の好きな人に見せて自分を認めてもらうために、写真を撮る。これを基本において、見ず知らずの人に見てもらえて、自分の存在を認めてもらう満足を得ていくということ・・・。

まあ、何のために写真を撮るのか、という質問に対して、有用性、つまり役に立つという視点から、その目的を三つに分けてみたのが、この項です。写真学校は、この三つの有用性を自分のものにするための器です。でも、普通、そこで学べるのは、社会の枠組みや歴史を理解することも含んだ技術習得です。でも、これですっきり、何のために写真を撮るのかということが解決する、というわけではありませんね。だから、ここでは、これから、このすっきり解決しないところを、ああでもないこうでもない、と書き進めていこうとしているのです。

-この章終わり-