写真への覚書-写真表現論-
2007.3.17~2007.6.19 nakagawa shigeo
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<はじめに>
自分表現のツールとしてカメラをつかって画像をつくる行為。つまりカメラをつかって作られた静止画像が、写真という表現媒体だと考えて、この写真という代物と自分表現との関係を探っていくのが、この論の目的です。ここでは写真を、経済システムのなかに投入する、ということは別にしておいて、自分の表現、つまりコミュニケーション手段として写真をつくる枠組みを、自分に引き寄せて考えてみようと思うのです。

写真は、原則としてカメラの前にある光景を複写します。写真を撮る人は、原則としてカメラの前にある光景を見ています。人間の眼球は、カメラ装置と同様の働きをしています。ただ違うところは、人間の眼球を通して認知した光景は、記憶として内在化されるのに対して、カメラ装置はフィルムであれメモリーであれ、他者にも見える形に仕上げることができる。つまり、自分が見た光景を、写真として再現することができる。

写真表現とは、自分が見た光景を、写真という静止画像として再現することです。この論では、自分が見た光景を写真に再現するという、自己内部におけるプロセスを、自己の側にひきつけて捉えていこうと思うのです。つまり、カメラ装置があって、この装置を操作する自分そのもの、そして自分と他者との関係、その軸となる意味と価値、そこらへんを論に仕立てられたらいいな、と思うところです。

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<カメラは見たいものへ向かう>
なんてったってカメラを向ける先には、自分が見たいと思うものがあります。覗き見たい欲望を実現する道具としてカメラ装置があるんだ、といっても過言ではないと思っています。自分が興味あるモノ。興味あるモノに惹かれる。この興味あるモノ自体は、ひとにより様々だとおもいますが、商売でつかうわけではない写真を撮ることは、興味あるモノへとむかえばいいのだと思います。風景であれ、人であれ、イベントであれ、おおむねカメラを持つ以前の自分の興味に、忠実になればいいのだと思います。

カメラを向ける被写体というのは、まづ、自分が興味を持って惹かれる被写体が前提です。そうして興味ある被写体がみつかれば、次のステップが、技術的処理です。興味ある被写体を包み込んでいる意味を、テーマといえばいいかと思いますが、テーマは興味に優先するものではなく、後発的なものです。つまり、興味ある被写体を、社会的意味と価値によって形成することが、テーマの生成につながるのです。

自分の興味は、おうおうにして時代の風潮や流行に重なります。理屈上は、このように重なるといえますが、実際の撮影にあたってそこまでを論理化するのは、難しいと感じています。ですから時代の風潮や流行を感受する自分の直感を優先して、興味ある被写体へ向かえばいいのだと思います。直感とは、何もないところから興味そそられて感じるものではなく、時代の風潮や流行が反映するとの想いがあるからです。

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<見えるものと見えないもの>
見たいものへ向かうといっても、見たいもののなかには、目に見えるものと見えないものがあります。たとえば記憶の像は目に見えないし、神や仏も目に見えないものです。つまり写真にすることができるのは、リアルに存在する物質をしか写真にできない宿命があります。写真表現なんてゆうのは、ある意味、見えないものを見せようとする行為なのだと思います。このような言い方をすれば、人間の心なんてのも見えないものです。

表現するということは、目に見えない尽くしの世界を、見えるもの尽くしの世界をもって、見させようとする行為、一言でいってみれば、見えないものを見せることだと思います。表現の方法には様々な手法がありますが、ここでは文章表現と写真表現を隣接する表現手段としてとらえていきたいと思います。つまり、写真に現わされたリアルに存在する物質を、言語によって補足する、あるいは補足されることで、全体の意味を指し示すことなのです。

見えないものを見せようとすることの得意分野が、言葉であり文章であるとすれば、写真は言葉および文章の補完物としてあることになります。この逆もまた成り立って、言葉および文章は写真を補完するともいえます。最初に言葉ありき、とされる理の世界にあって、写真を単独で、つまり言葉や文章の介在なしに、独立した領域として在りえさせるためには、どうすればよいのか。これが写真表現の今日的あり方を模索する目的です。といいながら、これは文章に拠っている論です。

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<聖なるものと俗なるもの>
自意識の構造を思うとき、世の中にはいくつものグレードがあって、聖なるもの、俗なるものという区分にしたがって、自意識がなりたっていることに気づきます。聖なるもの、聖なる心とゆうのは、人様にお見せしてもよい領域であり、俗なるもの、俗なる心というのは、人様にお見せすることがはばかれる領域です。つまりモラルという線引きにおいて区分される<聖・俗>二つの領域が、写真表現の向かう領域だと考えています。

聖なるものとは晴れの場、俗なるものとは穢れの場。このようにイメージしてもいいかと思いますが、聖なるものは公然、俗なるものは非公然。見せたいものと見せたくないもの。写真表現の被写体軸は、この聖なるものと俗なるものの二軸です。写真表現のプロセスが、見えないものを見えるようにする、あるいは未分化で意識レベルに浮上しないものを整理統合して意識化させる浮上行為だといえるかも知れません。

見せたくないものを見たいと思う心があります。聖なるもの、俗なるもの。この俗なるものを見たいと思う心があります。おおむね近年の写真は、この俗なるものを表現しようとしてきたようにもとらえています。聖でもあり俗でもある性表現領域において、これは顕在化されてきていると認識しています。残された未知の領域、人間の心の領域を解き明かす表現領域として、それはあるように思います。

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<アーバンとルーラル>
写真に撮る被写体を、目の前にひろがる風景のなかに求めるとき、ぼくは、立っている位置から二つの軸先をみようとしています。見えるようで見えない日々のあり方を整理して、アーバン・ライフ軸とルーラル・ライフ軸に分けてみようと思ったのです。アーバンとは都市、ルーラルとは田舎、アーバン・ライフとは都市生活、ルーラル・ライフとは田舎生活。自分の日々生活と意識のなかに、この二つのライフ軸が、雑多に混在していることに気づきます。

ぼくが成そうとしている写真制作の一つの方法には、プライベートドキュメントという領域に則していこうと思っているわけで、その背後になんらかの意味を嗅ぎとってもらおうとの魂胆があります。写真に意味を語らせる、意味を語らせない。<意味>優先と<情>優先とでもいえばいいかと思うのですが、いずれも他者との交感作用をとらえようとの魂胆でもあるのです。意味を語らせるとすれば、世のありようを整理して、ひとつの方向へと向かわせる必要があります。

写真は世の中に生起する現象の表皮です。アーバン軸は都市の光景<町風景>、ルーラル軸は田舎の光景<里山風景>、とまあ便宜的に区分しておこうと思います。なによりも入り口を整理しておきたいと思うからです。しかしテーマにとって、この区分、分類は便宜的であり、本質を語るものではありません。というのも、プライベートドキュメント(まだ確かな定義がなされていない写真のあり方)を指向するけれど、その表皮ではなく、そこに営む生活者の心のあり方を表したいとも思うからです。

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<都市軸と自然軸>
写真表現するための被写体を考えてみると、目に見えるモノとして、大きくは宇宙・地球を構成している物質世界があります。人間の手が入っていないナマのままという領域から、人間の手によって作られた人工の領域があります。写真表現というとき、カメラで定着させる素材としては、この全てが素材とすることができます。写真表現の中心点は自分です。表現するということは、自分の意図を伝えることが目的です。この表現意図が明確であるかどうかは、自分の認識を具体化させられたかどうかということに尽きると思います。

写真表現の歴史を紐解いてみると、見えないものを見させようとしてきた歴史だと理解します。見させるということは、目に見える背後に、二次的な意味を形成させる要素が必要になります。つまりその写真の中に込められた意味です。意味とは、説明できる内容です。他とは区別して、それが特異であることを、あるいは一般・典型であることを理解させる内容です。これを手がかりにして、現在的素材として整理してみると、自分の居る場所から、一つの方向軸が都市、つまり人工物によって形成された風景といえばいいですね。そうして反対軸が自然、つまり人間の手が加わらないままに形成された風景といえばいいですね。

カメラ装置を使って制作する写真でもって、何を表現するのか、何を意味させるのかの問題を解く鍵として、都市と自然という対置法が選択する素材を明確にさせてくれると考えています。問題の中味は、現在、巷で問題化されている問題、おおきな背景としての環境問題、現代人の心の問題、これらに言及していく手段として、写真を使うということです。ぼくは、この方法というのは、オーソドックスなドキュメント手法、現実素材から見つけるドキュメント手法だと考えています。

<この項おわり>