写真への覚書-写真の被写体論-
2007.5.29~2007.6.18 nakagawa shigeo
_20181010_080129
写真の被写体論-1-

ぼくたちはめったやたらに写真を見る機会があって、日常のなかに溢れているわけです。そのなかでもイメージキャラクターとして女性を被写体とした写真が溢れています。世の女性にははなはだ失礼な話しではあると思うけれど、女性が被写体となる写真の類は、おおむね男性の視線を意識した写真です。

写真史的にいえば、1970年代に入って、篠山紀信は若いアイドル写真を発表し、1973年には大丸デパートで「スター106人展」を開催します。それ以前のプレーボーイ誌以降、ピンナップ写真が商業レベルで続々と提供されます。ここではおおむね男は見る、女は見せるという関係が成立しています。一方で荒木経惟は、無名の女の子を被写体に写真を撮ります。

アマチュアカメラマンを集めてのモデル撮影会が盛隆するのも、この時期で、若い女の子が被写体になり、男性カメラマンが写真を撮るという構図が確固たるものになりました。こうした背景には、カメラ関連産業や出版産業界が、商業イズムを軸にしてバックアップしているわけです。そうして現在のデジタル環境に至ってきた女性被写体です。

写真の被写体論-2-

目に見えるものは何でも写ります。光のあるところ、目に見えるところ、ところで最近では、人間の肉眼では見えないようなモノが、写真の被写体になります。電子顕微鏡レベルで、天体望遠鏡、電波をとらえて画像に構成する。宇宙の写真とか、人体ミクロの写真とかですね。

とはいえ、ここではぼくが持っているデジタルカメラにおいて、被写体となるモノについての論にしようと思っているのです。カメラはキャノンのデジカメです。水中に入れることができないし、身体に入れ込むこともできないカメラです。焦点距離は35ミリフィルムカメラ換算で、35ミリから100ミリまでのズームです。

目の前に現われたる事物は、その範囲で、何でも撮ることができます。何でも撮ることができるとは言っても、興味あるモノしか撮らないわけで、興味あるモノが全て撮れるかといえば、撮りたくても撮れない被写体もあります。カメラには鉄則があって、現物、目に見える事物しか撮ることができないのです。

写真の被写体論-3-

大きな話しだけど、宇宙を構成する物質を思うことがあります。もちろん現代文化のなかで培ったぼくの知識のレベルで思うわけです。無機質な塵が集まって物質が造られてきた。その一つに太陽系地球があります。地球には無機物と有機物があります。太陽の光があり、水があり、空気があり、鉱物があり、そうして生命体があります。生命体は植物と動物にわけられ、多種多様な形態です。

それら全てが、目に見える範囲で、ぼくは写真にすることができるわけです。それらのなかで何を撮るかは、様々な制約のなかで選択するわけです。空があり、地面があり、空と地のあいだに空気があり、雲があり、海があります。地面には、植物があり動物がいます。多種多様な植物があり、多種多様な動物がいるのです。これらはいずれも、写真の被写体としてとらえることができますね。

写真の被写体論-4-

写真の歴史って170年ほど(1839年発明特許)ですが、誰でもがおいそれと行けないような遠い処へおもむいて、写真にしてきた歴史があります。まただれもがおいそれと見ることができない希な現象を写真にしてきた歴史があります。そのうち特別イベントを写真にしてきます。報道領域なんかはその最たるものです。商業広告宣伝の領域においてはファッションであったり、写真をピンナップ目的とするアイドル写真などがあります。

こうしてかなり極端に外観してみると、写真の被写体にされてきた事物は、遠くの事物、希な現象、特異な現場、購買欲をそそるイメージ、所有したい欲望を満たす代弁。このようにまとめることができそうです。ぼくも含め、世の写真愛好家たちは、この外観に則して、被写体を求めているのだと思います。さてさて、これでいいのかな、天邪鬼なぼくは、この流れ、外観にたいして、それでいいのかな、なんて疑問符をつけてしまうわけです。

写真の被写体論-5-

これも特段に新しい考え方ではありませんが、おおむね写真の主流となる歴史に反抗していけば、どのような被写体選びができるのかです。遠くのものを近くに、というなら、近くのものを近くで、との論です。そうですね、日常生活空間とでもいえばよろしいでしょうか。ちょっと買い物に行ったり、散歩したり、なになに家の中があるじゃないですか。つまり写真の被写体を、勝手知ったる生活空間にあるものとしていく論が成立します。

日常の生活空間で希なる現象に出会うこと、これはあります。朝に射しこむ光の群れ、夕暮れに窓の外が夕焼け、日常生活のなかでの希なる光景です。これは採用しよう、日常生活における希なる光景。でも大半は、ごくごくありふれたことの繰り返しが日常生活というものだから、日常生活空間のなかで、遠くのものを近くへ引き寄せることが必要です。意識しなかったことを意識すること。この作業が、意識しなかった遠くのものが、意識することで近くに寄ってくるということです。

写真の被写体論-6-

写真を撮ることの目的として、人に見せるために、ということがあります。自己顕示、このようにとらえることができます。もちろん写真を撮って売ることをプロフェッショナルだとすれば、このプロフェッショナルは、買われることを意識しなければなりません。いやいや、写真をお金にすることは、クライアントがいてユーザーがいて、その求めにしたがって写真を撮ることが大半です。ある種、これは写真の制作技術力が備われば、撮る被写体は他から要求されるので、その要求に従えばよろしいのです。

写真作家というレベルは、そのクライアントとユーザーに優先されるレベルでなくて、俗っぽくいえばクライアントとユーザーがあとからついてくる。そういえばカメラマンをしている多くのプロフェッショナルが、自分の意思のおもむくままに写真を作りたいというのを耳にしてきました。つまり、自らの意思によって被写体を選びたいと思っているわけです。自らの意思というレベルは、俗に言えば好きな被写体を好きなように撮りたいという欲求です。

写真の被写体論-7-

人間の欲求、優先順位は、食欲、性欲、自己顕示欲、こんな順位かと思うところです。写真を撮る行為が、この欲求に根ざしているものとして論をすすめると、被写体としては、食べ物の類、性欲対象の類、自分を良く見せたい類、としてとらえることができそうです。カメラは実在するものしか捉えることしかできないし、写真はカメラが立ち会ったその時にしか作ることができない代物です。

食欲を満たすためには食べるわけですが、食べるモノと食べる場所はバリエーションがあります。写真において欲求が満たされるものではありませんが、これをカメラにおいて捉え、写真にしていく。性欲においても写真が欲求を満たしてくれるのではありませんが、写真が代用物となることはままあると思います。それに自己顕示、ほれほれ見てご覧、こんなの撮っちゃったよ、いいだろ!、なんていえる相手がいて、相手がうんうんすっごいねぇ、なんて感心してくれることを望むわけです。  

写真の被写体論-8-

カメラを持った自分が、被写体とどのような関係を結ぶのか、という問題があります。クライアントの求めに応じてカメラを持つ時には、あらかじめ設定された枠組みで被写体を撮ることになりますが、クライアントがいない場合、つまり、自分が選択していく被写体との関係です。写真を撮るということは、その場所に立ち入っているわけで、被写体と<何か>を共有することになります。遠い関係、近い関係。この遠近関係でいくと、なるべく近い関係を被写体に求めたいとの気持ちがあります。

ソーシャルランドスケープからプライベートランドスケープへと移行してくる写真の視点で、人物写真の場合、なるべく近場で、家族とか恋人とか、そういう現場で被写体を求めてきたわけですが、その関係の証が目線だと考えています。目線とは、被写体の見ているモノが何処にあるか、です。その目線がカメラを見ている、つまり自分を見ているという関係です。一人称と二人称の関係が成り立つ関係です。このことが最終レベルであるというには、異論がありますが、日常の関係を写真に求めるとき、自分に向けられた目線というのは、重要なポイントだと考えます。

写真の被写体論-9-

スナップ手法による写真は、ある一過性現象の外皮を写真像として定着させます。それだけでは意味とか価値とか、その現場に付随するものは表示しないものです。意味とか価値の概念は、言葉による概念です。写真が提示されたあとの後づけです。もちろん、この後づけの意味や価値を事前に用意しておいて現場と向き合うわけですが、写真像として定着されるのは、現場にあったモノ、それがあったことを表すだけなのです。

意味と価値、つまり言葉にべったりへばりついた写真のあり方に対して、プロヴォーグの同人は、異議申し立てをおこなったわけだけれど、その是非にむけて、ここでは再検討を試みようとしているのです。画像の解体、画像にまつわる意味の解体、無意味あるいは無価値なものにすることが、けっきょく新たな意味を生成しだすジレンマに陥ってしまうのです。ただし、ドキュメント概念の「場所・日付」を取り外したところに生じる新たなる意味であった。このように括ってみて、そこから何を今に引き寄せられるのか、ということが問題となるのです。

写真の被写体論-10-

この論を組み立てるために掲載している写真被写体の中心は、大半が人間、それも女性、あえて若い年代の女性が主体です。カメラとの距離、カメラに対する目線、それらの構図によって、遠近を感じさせます。遠くにあるモノが小さく、近くにあるモノが大きく見えるという遠近感にとどまらず、撮影者と被写体の位置関係における遠近が感じられるのではないかと思います。若い女性が選択されている理由は、撮影者が男であり、それなりの高齢者であることに拠っています。つまり撮影者の興味による選択です。

カメラのこちら側にある視線は、見る側の視線です。カメラのむこう側、つまり撮られる被写体は、見られる視線です。見る側と見られる側、セルフポではない写真の撮り方として、見る、見られる、という関係によって構成されます。写真は、見る位置において写真を見ます。現場の擬似物として、現場が凝縮されたものとして、写真があるとすれば、被写体の立ち振る舞いそのものが、見る側と見られる側の遠近を示すことになります。それによって喚起される心の問題、情のありかは、それ以後の問題となります。

写真の被写体論-11-

被写体としたモノには物語がある、なんてことを考えて、撮られたモノがおのずと語りかけてくる、なんて思って、写真を撮るわけだけれど、自分が見たい、熟視したい、と思うモノを被写体としていくわけです。そう考えると写真を撮るってゆうのは、かなり自分の欲望に則しているんですね。見たいと思うモノ、とはいえ熟視することなんてできないことが多いじゃないですか。なんだかんだと言ったって、食欲と性欲に満たされたぼくのからだですから、カメラがその代弁してくれて、あとでゆっくり見てあげる。

写真は視覚です。匂いも味も肌触りもない無味無臭。かってなら紙切れだったけれど、今様、モニターに映し出される画像です。カメラは、目に見えるモノしか写さないから、見えたモノをとらえてシャッターを切ります。合意のうえで撮るばあい、これは安定した気持ちで被写体と向きあえます。でも、見たいものは、つまり覗き見たいものは、おおむね相手の合意など得られないから、とくにおヒトにカメラを向けるときには、社会通念としての後ろめたさ気分に満たされますね。

写真の被写体論-12-

社会正義のために、なんて大義名分と目的が持てた時代には、撮ることじたいがそれなりに正義なんですけど、そんな目的を棄てたあとに照射されてくる内面は、自分の欲望、自分の興味、自分の所有欲、まあ自分にまつわる個人的なことでしかないわけです。なんだかんだと綺麗ごとを言ったって、そんなのは嘘っぱちであって、本音は撮ったモノを眺めて見入るために撮る。それがいったいなんぼのモノか、なんてことは考えないでおこうと思います。

写真は文化を形成する手段です。美的感覚、社会憧憬、それに所有する欲望の喚起・・・。いまや映像の時代だとしても、商品として写真が利用されるとき、様々に欲望を喚起させ、満たせてくれる代物です。すべてはヒトが使用にまつわる商品です。無害であるか有害であるかの基準は明確ではないけれど、無害商品、無印商品、有害商品、有印商品、そうしてここは無害な場だからこれ以上は言わないけれど、ゆうのにはばかられる写真商品があるわけです。制作者でもあり鑑賞者でもあるぼくは、無害有害のはざまを浮遊するのです。

写真の被写体論-13-

人間が初めて残した痕跡は手形、ネガティブ・ハンドだといわれていますが、それは洞窟のなかでした。鉱物の石に何かが宿り、それを神と名づけたようですが、宿っているか宿っていないかを区別するためには、しるしをつけます。注連縄(しめなわ)であったり、ヒトの顔であったり、そのしるしはいくつかあると思います。ただのものがただではなくなる。ぼくは、ただの石もただではない石も、もしかりに神なるものがいらしゃるなら、すべてに宿っていらっしゃる式の論法で、写真を撮りすすんでいるのだけれど、これなんぞは表記された代物です。

写真とするには被写体を選びます。被写体は何かを語らせる背景を持っているもの。うんうん、語らせると言ってしまえば言葉に従属してしまうので、何かを感じさせるモノでなければならない、と考えています。ヒトのからだと共にある<情>が醸され、滲み出る。情にも種別とレベルがあって、ナマリアルを超える情の誘発なんてことを思ったりするのですけど、究極の写真被写体とゆうのは、まさにナマリアルとは別のナマリアル。五感プラス一感で感じるナマリアルと同様、あるいはそれを超える<情>を誘発できるかどうかなのではないでしょうか。 

終わり