写真論
「写真についての覚書-1-」
nakagawa shigeo 2010.1.6~ 2011.3.10
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<写真論の試み>2010.1.6

写真について、いろいろと、思うことがあります。
写真とは何か。
なにをもって写真とするのか。
写真をめぐる様々な論が成立すると思います。

いまさら、なんで写真論なの?
こんな単純な疑問が浮かんでは消えていきます。
そこで、ぼくのあたまのなかでぐるぐるめぐっている言葉を、紡ぎ出します。
写真とは何か、簡単で難しい、この質問を、ぼく自身に投げかけてみよう。

 <写真の定義>

写真とはなにか。
このような問いかけは、答えを導くのに、苦労します。
というのも、写真という代物、これの定義から、しなければいけない。
いま、この写真という代物が、どうゆうものなのか、を定義しないといけません。
このように書いているとき、その背景には、絵画とか、CGとか、を想定します。
なにより、写真とは、日本語、漢字で書いた言葉で、読みは、しゃしん、です。

写真は、カメラ装置で制作される平面イメージ。
そうなのですね、カメラを使って作った代物。
いちおう、このように定義しておきます。
カメラは略称で、カメラオブスキュラ、暗箱、暗い箱です。
といいながら、現在ならば、デジタルカメラ、暗い箱ではないですね。
フィルムって言ってる代物、カメラにフィルムを装填して、シャッターを切る。

このあと、いくつかのプロセスを経て、紙に定着されたイメージ、写真。
CTR、液晶画面に映しだされたイメージ、写真。
カメラを使って、作りだされたイメージが定着された代物。
これが、写真と呼んでいるもの、物体、イメージです。
最近では、画像、静止画像と呼んでいます、写真って表現しない。
でも、ここでは、やはり、写真という名称で、そのありかを探ってみたい。

<写真の定義-2->

絵画とかCGとかのイメージと、静止画像である写真は類似しています。
では、そのほかのジャンルとは、どんな関係が成り立つのでしょう。
ここで、形式または形となって現われだされた代物でいえば、文字です。
文字、文字の羅列には、意味を付加します。
もちろん、意味とは何かという定義も必要かもしれませんが。
その文字が、何を指し示しているのか、ということに着目します。

何を指し示しているのか、ということでいえば、写真は、明確です。
物が写っている代物、イメージが定着された代物、それが写真だから。
いやぁ、現代においては、抽象画って表現方法がありますから。
具体的に物を指し示すことばかりでは、ありませんけれど。
おおむね、具体的な物が、写真のなかには、イメージ定着されます。

ここで、写真の定義として、表面のイメージではなくて、何か。
求めているのは、意味、写真の中の意味、とでもいえばいいでしょうか。
文字の羅列が意味を生成させるように、写真も意味を生成させる。
写真の表面は、具体的な物の定着ですが、その奥には、意味がある。
この<意味>について、詮索していくことが、当面の作業かも、知れないですね。

<写真の定義-3->

写真とゆう代物について、ここでは写真の定義を試みています。
写真をめぐる論の、いくつかのカテゴリーを考えてみました。
写真の意味、写真の技術、写真の歴史、それに、ここ、写真の定義。
写真の歴史には、表現史と技術史があり、おたがいに絡みながら、進んできています。
写真の技術には、材料による分類、撮影技術、暗室技術、デジタル技術。

なにより、ここにおいて重要視しているのが、写真の意味。
その写真が、何を指し示し、何を意味するのか、とゆうこと。
制作者の個人的な見解、写真の撮られた社会的意味、など。
そのほかに、なぜ?という問いへの答え。
写真とは、何か。

なにより写真を撮るという、個人的な意味。
個人的な興味へ意味。
なにか迷宮入りしていきそうな、論になりそうな気配。
写真とは、いったい、何か。
写真の現代的な意味とは、どんなものなのか。

<写真の撮影技術-1->

写真を作るのには、撮影するという技術が必要です。
最近では、デジタルカメラが主流ですし、全てお任せ、全自動で撮れます。
シャッターを押すだけ、指先だけ、ぷちゅっと押せば、写真が撮れる。
技術的なことは、これだけでOK。
なにも、むつかしく考える必要は、ありません。

シャッターを押すだけで写る。
1960年代には、オートマチック、自動巻き上げなんてのがありました。
ラピッドカメラとか、専用フィルムでした、ぼくも使ってました。
でも、写真を制作する最初から、そのようにできたわけでは、当然、ありません。
フィルムも、印画紙も、もちろんカメラだって、作らなければならなかった。

1839年に、フランスにおいて写真術に特許権が与えられた。
ダゲレオタイプっていう制作方法、技術プロセスです。
でも、この技術が主流になるかといえば、そうえはなくて、カロタイプ。
イギリスのニエプスって人が、考案した技術プロセスだそうです。
19世紀の中頃に、光を転写して絵を得る<写真術>が発明されたのです。

<写真の撮影技術-2->

シャッターを押すだけである。
シャッターを押すと、カメラが全て引き受けてくれて、写真が撮れる。
ピント、露出、はオートで、カメラ内蔵のコンピューターが、決定してくれる。
構図、そうですね、撮る人が気にかけるのは、構図ってことですね。
構図は、見た目に整ってると思える、物の配置です。

ここでは、撮影技術ということで、論を立てています。
見た目の感じは、技術を使って、獲得できる。
暗いイメージは、暗く、露出を抑える。
明るいイメージは、明るく、露出を多めに。
見た目、ぐっとイメージが変わります。

最近のカメラには、レンズのズーム機能と露出の補正機能があります。
レンズでは、遠近感、露出では、明るさ、を調整します。
適正ということがあります。
カメラが示す適正と、撮影者が感じる適正とが、一致しないことがあります。
感覚、感性、自分が感じる感じ方、ここまでくると、内容論の入口ですね。

<写真の撮影技術-3->

撮影技術というのは、カメラ操作、ピント、作画、露出、これらをマスターすることで、解決します。
基本的には、JIS工業規格にのっとってると思うんですが、カメラの設計そのものを使いこなす。
特に露出をどう決めるかという問題は、JIS規格とは少し、表現意図が加味される。
まあ、撮影技術というのは、絵画における絵の具と筆、陶芸における土と釉薬みたいなものかも。
工業製品としてカメラ等、それによる写真(もしくは画像)制作の、制作道具の選択と組み合わせです。

絵画の絵の具と筆、陶芸の土と釉薬、と引きあいにだしましたが、この関係で続けると・・・・。
写真制作のプロセスを、工業製品以前の制作法に戻して、考える必要があるかと思います。
写真制作のプロセスを、手作りプロセスとすれば、撮影技術は、奥深いんじゃないか。
ここでは、撮影技術について考えているところです。
一方、表現技術という技術も別の系で、考えられると思います。

撮影技術については、物質を使うプロセスとして考えたい。
カメラ、フィルム、印画紙、それを処理する現像薬品、等々。
もうひとつの撮影技術は、デジタル画像を作るプロセスです。
カメラ、メモリー、コンピューター、プリンター、といった道具の使いこなしです。
いづれも、あらかじめ設計されたレベルを、いかに有効に導きだすか。

表現技術は、この撮影技術と密接な関係をもっていると思います。
この次には、この表現技術について、考えてみたいと思います。
撮影技術のマスターを踏まえて、表現ということの技術的側面を考えたい。
しかし、技術論の結論として、技術では解決できない問題が、あるのではないか、と予測しています。
さて、この写真論、そこまで行けるかどうか、不明な点が多いです。

<写真の意味-1->

写真とは何か、写真とはどうゆう代物なのか。
あるいは、何を、どのような方法で、どのように処置したものが写真なのか。
いくつかの、写真という言葉の定義をめぐる論が必要かと思います。
写真という言葉自体、最近では、静止画像、あるいは、単に画像と呼ぶことがあります。
それでは、写真と静止画像は、ぼくたちのレベルで、どのように一緒で、どのように違うのか。
こんな話が、じつは、くだらない話だとしても、なにがくだらないのかを話ます。
写真と静止画像は、違うといえば、紙媒体とCTRモニター媒体との違い。
紙にプルントしたものを写真、デジタル信号でモニターを通したものを静止画像。
ひとまづ、このように区分しておきたいと思います。

ここでは、カメラの種類とか、材料の種類とか、媒体の質とか、それがメインではありません。
写真の意味、前段で、写真は紙媒体を使ったもの、らしきことを書きましたが、このことではありません。
写真に撮られた<もの>の意味するもの、このことです。
<もの>とは、物質そのものを示すこともあれば、物質を含む周辺、そのイメージの全体。
その基本は、物質そのものの、意味です。
意味という文字を使っていますが、意味とは何、と問いだすと論から逸脱しそうだから。
意味とは、その物質が指し示す、そのこと、とでもしておきましょう。
写真のなかに犬がおれば、それは犬です。

写真に撮られた物質が、その物質であると示されていることが、意味です。
この意味で、意味のなかに、一次的意味と二次的意味とにわけるのがよろしい。
このような区分は、言語論の範疇に属するのでしょうか。
写真と言語という区分からして、写真を言語的に扱う。
ちょっと混乱しそうなので、どうしましょうか。
ここまで書いてしまったから、あえて消しませんけれど。
写真の意味という表題で、この文を、成立させようとしているわけです。
意味という限り、やっぱり言語の領域に置かれた写真なのでしょうか。

<写真の意味-2->

写真の意味を求める、というのは、言語的であると考えています。
写真は、イメージであって、文字言語ではない。
あるいは、写真は、文字言語とは別の体系をもつ、写真言語である。
言い方は、いくつかあると思いますが、要は、写真は文字言語ではない、ということ。
その流れでいえば、文字言語に従属しない。
文字言語から解き放たれた、独自のイメージ・言語だといえるんじゃないか。
われら、にんげんは、言語でもって自分の意志を表します。
なにも文学作業だとは言いません、日常会話のレベルです。

そうすると、写真を撮って、自分の意志とか思いを表す。
それを他者に見せる、作品として、あるいは会話の道具として。
この作品として、会話の道具として、イメージである写真を見せる。
そのとき、文字言語が介在しないで、その写真が写真として成立するか否か。
ここなんですね、ぼくが注目する、処なんです。
写真を読む、写真を語る、しかし、そこに言語はいらない。
ほんとかな、言語が紡ぎだせないだけじゃないですか。
評論、批評という枠は、イメージである写真を、言語でもって規定する。

どうなんでしょうか、言語で規定する。
つまりそのイメージ・写真の見方、考え方、捉え方を、解きほぐし理解すること。
理解するととは、このように考えるのが妥当ではないでしょうか。
そこで、そこで、そこでぼくが思うのは、これは言語に従属している。
だから、従属ではなくて、対等、もしくは言語から解き放たれること。
写真が、言語から解き放たれるとき、その写真に、何が残るか。
ここなんですね、何が残るのか。
ぼくは、この「何」の内容を、「感情」ということに置き換えたいと思っているんです。

<写真の意味-3->

なんだか、この論が、論である以前の状態へ戻ろうとしている気がします。
というのも、意味ってゆうとき、その意味とは、言葉で示される内容ではないか。
ということは、写真の意味とは、まさに、言葉に導かれる、そのもの。
ここでいま、試みているこの論、そのものが、意味を導くためのもの。
そうすると、写真(イメージ)が、言語(意味生成)と、ぶつかりあうことになります。
写真が、従属ではなくて、対等、または解放されるということは、意味を生成しないこと。

なんなんでしょう、意味を生成しないこと、とは。
ぼくが想定するところは、感情、そのものが交流しあうこと。
意味ではなくて、感情の交流、交換。
このこと、それ自体が、重要なこととなってきます。
写真は、言葉ではない、感情の交換だ。
これで、写真が意味から解き放たれて、感情のレベルで共有される。

なんか、言葉世代のぼくには、言葉で語ることからしか始まらないから。
ここに、こうして、言葉を連ねて、写真論を形成しようと試みています。
でも、このこと自体が、かなり無効になってきている気がします。
ナンセンスとは言いません、そうゆうことではなくて、感情。
提示された写真を見て、情が動く、感情に生成していく。
このことが、あたらしい写真の意味だ、といえるかもしれませんね。

<写真は静止画像-1->

写真を形として定義するとすれば、最近なら静止画と呼べばよろしいですね。
静止画像または静止画。
これに対して、動画というんがあって、これは静止画の連続で見せるもの。
むつかしくいわなくても、映画とかテレビとかの画面、その映像部分。
つまり、写真という名称は、いまや、用語としては、使われなくなった感です。

しかし、この静止画の発明は、画期的なことだったと思われます。
1839年といいますから、今から170年ほど前、フランスにおいて。
ダゲールという人物が考案の、光をとどめて絵を描く装置に、特許として与えられた。
ダゲレオタイプという静止画の制作方法です。
でも、イギリスではタルボットという人物が、カロタイプという制作方法を考案していました。

いずれも技術的な問題をクリアーして、世に出てきた写真、フォトグラフ、静止画です。
その時代、それは絵画に対抗するモノとして、存在してきたように思えます。
絵画の模倣、絵画に影響を与える、絵画、絵画。
絵画といっても、肖像画にダメージを与えます。
静止画、写真のイージーさ(失礼)において、手で描く絵画をしのぎます。

<写真は静止画像-2->

印刷されて、大量に流布される新聞、マガジンの類に、写真が載せられます。
文字と並列、文字の添え物、写真がメインで説明が付く。
オリジナルのプリント画像より、印刷物になって、使われてきた写真。
ところが、動画があらわれ、動画が多用されるメディアが出現。
映画はもとより、テレビメディアの普及です。

写真は静止画像だから、印刷物には適しています。
でも、テレビの中身には、及ばないです。
たしかに、動画として、写真をテレビに映し出す、これはあります。
でも、原則、静止画像は、オリジナルプリントか、印刷物で使われます。
写真がなかったころ、19世紀の半ばまでは、版画とか絵画。

版画や絵画のように、絵具をつかったり、手を施したりしなくても、勝手に作っちゃう。
感光材料のもと、勝手に絵ができる。
かなり、イージーな、絵画の作り方のように思えます。
発明されて半世紀は、絵画のまねごとをする時代であった、ともいえます。
写真がグラフ雑誌や新聞に使われ、いまある報道、広告宣伝分野の一角になります。
一方で、写真は芸術作品として認められようとします。