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 1969年10月21日は東京でべ平連のデモ隊に参加して、それを機に出版社を辞めて、京都に戻ってきました。錦を飾る、とは裏腹に、夢破れて山河あり、帰る処があった、という感覚だったと思えます。東京での生活は無理だと思えて、京都へ戻りました。彼女とは結婚するところまで話は進んでいて、まだ東京にいる時に結納を済ませ、翌年には結婚するところまで決めていました。東京残留か京都帰還かと迷ったのは、結婚生活をどこでするかということで、東京か京都か、という判断に迫られていたのでした。結婚と書きましたが、当時はまだ同棲という考えはなくて、親の反対押し切って手鍋さげても、ということか、親の承諾の元に結婚するか、という選択しかなかったものです。さだまさしの神田川の世界は、もう少し、あと数年後の感覚です。1969年当時には、実質には共同生活の中身は変わらないけれど、結婚式をあげてその日から一緒に住む、ということでした。内縁関係という言葉がありますが、ぼくの場合は、それではなくて「結婚」でした。

 東京では、本郷に近いところに、ぼくより年上で甲賀出身の清水さんと二人住まいしていたのですが、結婚を考えると別の処に住む。板橋あたりだと一畳千円の家賃でいけたから、具体的に東京住まいするにはと、板橋のどの界隈だったか、見にいったことがあります。内面を語ると、ぼくは打ちひしがれていた、という心情でした。夢も希望の消え失せていて、生活をするために働いて金をもらう、このことが東京で出来るだろうか、との思いでした。いまもってそうですが、生活のための金儲けに専念する、ということが基本的に出来ない人間なのです。ということで京都に帰ってきて職を探すことにしたのでした。京都へ帰ってきたのが1969年11月、新聞の求人欄で仕事を探します。スーパーの西友が新規オープンする三条商店街の店舗で、電気屋が人を募集との広告を見て、応募して、採用してもらって、一月ほど仕事をしました。いまでもブラック企業とかありますが、そこは実質12時間程勤務して、自動車免許を持っていたから配達要員で、けっこうふらふらになって、やめさせてもらいました。

 1969年12月になって、郵便局でアルバイトするようになります。新聞でアルバイトを募集しているとのことを知って、叔父さんが郵便局に勤めていることを知っていたので、訊いてみました。それなら、と叔父さんが勤めている伏見郵便局へ来たらいい、ということで集配課でアルバイトすることになりました。運転免許を持っていたから、スクーターに乗ることになって、速達の配達、大口の配達、ポストを開ける開箱、それらをすることになりました。年末の郵便局、集配課、年賀状の時期で、大忙しの繁忙期でした。それから24年間を勤務するようになる最初でした。伏見という処に行ったのは、この時が初めてでした。京都の南、京阪電車で丹波橋まで乗って、そこから西へ五分ほどで疎水の橋があるんですが、そのコーナーの処に郵便局がありました。集配課でアルバイトから臨時補充員という名称で採用され、それからしばらくして事務員の名称で正式採用されます。歳が明けて採用試験を受けに行って、合格通知をもらったんですが、そのまま庶務課に届けないままでした。どうしたはずみか庶務課の主事さんだったでしょうか、合格していたことを知られて、外務職から内務職にかわりました。所属は集配課から郵便課にかわりましたが、集配業務を続けておりました。そのころには叔父さんの配慮もあって、新年度には貯金の窓口へ行くことが内定しておりました。