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 大学に復学したのが1970年4月です。1969年2月に休学届を出していたから、一年少しのブランクで復学です。復学したときは結婚していたから、学生をしながら結婚生活をしていたことになります。70年をこえて、学生運動が表面的には終焉していくわけですが、それぞれの学生が抱えた問題は、何一つ解決したわけではありませんでした。甲斐君がチーフになって同人誌を発行する、そのための研究会を日曜日の午後、喫茶店で開催する。せめて、縁をつないでおこうというのか、ばらばらになってしまうから、集まって、集団でいようという目論見だったのかも知れません。同人雑誌の名称は「反鎮魂」と名付けられていて四号まで発行されたのではなかったかと思います。ぼくの手元には二号と三号があり、ぼくの小説が掲載されています。もちろん未完の小説ですが、いまも手元にあります。

 小説の題名は「凍える焔」となずけていて、なんか左翼小説みたいな感じです。プロレタリア文学の範疇にはしたくなかったのですが。舞台は、石川県の内灘、京都、東京の三か所で、内灘闘争がベースにあって、それに巻き込まれた家族、それにぼく自身ではないけれど、それのような男が出てきます。けっこう長編物語のイメージがありました。でも、展開ができなかった、というのが本音です。短編で原稿用紙30枚くらいなら書けていました。書けていたといっても文学書に入るほどの書きっぷりではなかったと思うけど、いちおう起承転結はつけられました。もう、結婚してたから24才になっていました。文章を書こうと思ったのが18才の頃で、大学生、学園紛争、その他もろもろ、時代の中にいて翻弄されたけれど、小説を書くというのは、ひとつの目的でした。でも、それも、気持ちの上で、緊張感がなくなってくるのが1972年とか73年頃です。子供が生まれていたし、家族という複数の人間がいて家庭という形を作りはじめたのでした。甘味な生活を享受しようと思いました。大学を卒業するのは1974年の春だったと思います。

 この時でした、学費がいらなくなったので、ニコンのニコマートというカメラを郵便局に出入りしていたカメラ屋さん、三条河原町下ルにあった上田カメラ店で買いました。卒業して京都に残っていた友田、ぼくを入れて三人ですが、文学研究会をしようとの話になって、漱石研究をやろうという話になって、漱石を読みはじめました。北白川の銀閣寺のところにあったアパートの管理人室で、日曜日の午後、三人が集まって、とりとめなく話をしたのだと思います。もう、終わっていました。新しい時代が始まっていて、世の中は穏やかな日々を過ごすための仕掛けがいくつもありました。ぼくは家族持ちでお金もなかったから、遊びというものをする余裕がありません。まあ、パチンコくらいのもので、仕事の帰りにちょっとだけ、丹波橋のパチンコ屋に寄って帰ったものです。空しかったですよ、気分は、とっても暗かったことを思い出します。お酒は飲めないから飲みませんでした。マージャンも仲間に入ってまではやりませんでした。釣りやヨットやゴルフ、やる機会がなかったです。カメラ、ニコマートで子供を撮っておりました。アルバムを作っておりました。