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<少年の頃>
昔懐かしい人にはわかると思いますが、これは昭和30年頃、1955年頃だと思います。父が撮ってくれた写真です。覚えています。撮影したときのこと、おぼろげというかかなりはっきりと思いだします。というのもこの写真を折りに触れて見ているからでしょうね。少年画報という少年向け月刊雑誌を抱いているのがぼくで、ぼくらの雑誌を持っているのが弟、後ろに少年が立てかけてあります。贅沢といえば贅沢な、兄弟で三冊も月刊雑誌を買ってもらったんですね。四畳半一間に、親子四人が生活していました。食べる場所であり、寝る場所であり、憩いの場所であり、いまなら学生の四畳半一間、そこに親子四人が生活している。おおむね、ぼくがいたこの界隈は、そんな生活空間だったと思います。
ぼくが育ったこの地域を毛嫌いしてきた理由は、たぶん、近所の年上の男連中からいじめられていたからです。この地域、いまでこそ、京都のスポットとして観光客が来たりするようになっていますが、その当時なんて逃げ場のない袋小路の奥の奥といったイメージで、どうみたって下層生活者のイメージですよ。たぶん、貧乏だったから、親は無理して、子供にこんな雑誌を買ってくれたんだと思います。ほかの年上の奴らは、買ってもらえなかったから、ぼくが見る前に、ぼくの本を取り上げて、むさぼり読んでいたのです。それから祖母が駄菓子屋を営んでいて、目の前、お菓子に囲まれているぼくが羨ましかったのではないか、そのことを理由にねちねちと苛めるのでした。まだ小学生の子供で、菓子を持ってこいと脅されたことはありませんでしたから、のちのち不良になっていく手前だったと思います。最近はもう思わないが、よくも自分が不良の真似事はしたけれど、本当の不良にはならなかった、と思ったものでした。
いや、なにが言いたいのかといえば、のちになって学生運動を経て、釜ヶ崎へ行くようになり、今に至っても人間救済のイメージを抱いていて、宗教家ではなくて芸術家の領域で、ことを仕掛けていく原動力になっているのだと思います。負けてたまるか、やられたらやりかえせ、なんか、そんな詩句が口ずさみたくなる感じで、やらないといられないんですね。自分研究の道筋で、自分の生い立ちを世間の枠組みの中で語っているところです。でも、こういう言い方はなんだけど、心は腐っていないぜ、心は清らかだぜ、正義の味方だぜ、なんてうそぶいていて、だました奴らにまけてたまるか、それが本音です。