中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の自伝を書いていきます。すでに収録済みの寫眞帖ブログ、撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

2017年08月

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<少年の頃>
 昔懐かしい人にはわかると思いますが、これは昭和30年頃、1955年頃だと思います。父が撮ってくれた写真です。覚えています。撮影したときのこと、おぼろげというかかなりはっきりと思いだします。というのもこの写真を折りに触れて見ているからでしょうね。少年画報という少年向け月刊雑誌を抱いているのがぼくで、ぼくらの雑誌を持っているのが弟、後ろに少年が立てかけてあります。贅沢といえば贅沢な、兄弟で三冊も月刊雑誌を買ってもらったんですね。四畳半一間に、親子四人が生活していました。食べる場所であり、寝る場所であり、憩いの場所であり、いまなら学生の四畳半一間、そこに親子四人が生活している。おおむね、ぼくがいたこの界隈は、そんな生活空間だったと思います。

 ぼくが育ったこの地域を毛嫌いしてきた理由は、たぶん、近所の年上の男連中からいじめられていたからです。この地域、いまでこそ、京都のスポットとして観光客が来たりするようになっていますが、その当時なんて逃げ場のない袋小路の奥の奥といったイメージで、どうみたって下層生活者のイメージですよ。たぶん、貧乏だったから、親は無理して、子供にこんな雑誌を買ってくれたんだと思います。ほかの年上の奴らは、買ってもらえなかったから、ぼくが見る前に、ぼくの本を取り上げて、むさぼり読んでいたのです。それから祖母が駄菓子屋を営んでいて、目の前、お菓子に囲まれているぼくが羨ましかったのではないか、そのことを理由にねちねちと苛めるのでした。まだ小学生の子供で、菓子を持ってこいと脅されたことはありませんでしたから、のちのち不良になっていく手前だったと思います。最近はもう思わないが、よくも自分が不良の真似事はしたけれど、本当の不良にはならなかった、と思ったものでした。

 いや、なにが言いたいのかといえば、のちになって学生運動を経て、釜ヶ崎へ行くようになり、今に至っても人間救済のイメージを抱いていて、宗教家ではなくて芸術家の領域で、ことを仕掛けていく原動力になっているのだと思います。負けてたまるか、やられたらやりかえせ、なんか、そんな詩句が口ずさみたくなる感じで、やらないといられないんですね。自分研究の道筋で、自分の生い立ちを世間の枠組みの中で語っているところです。でも、こういう言い方はなんだけど、心は腐っていないぜ、心は清らかだぜ、正義の味方だぜ、なんてうそぶいていて、だました奴らにまけてたまるか、それが本音です。



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 いま、ぼくのなかで恩師と呼ぶ人があれば、達栄作さん、のちに智原栄作と名前が変わる方だろうな、と思います。カメラをもって、写真を撮りだして、年上の方と出会って懇意になった最初の人です。その当時、二科会の会友、光影会の会長、全日本写真連盟京都支部の役員、深草にあった自宅へ、かなり頻繁に訪問させていただきました。1976年から1978年まで、写真の基礎概念を考え、自分で作りだしていくための基礎を学んだように思います。教えられるというより、議論のような会話で、彼の撮影の方法が変わっていく過程そのもので、ぼくの写真に対する基本姿勢ができたように思います。最近になって、関西の写真史を概観するようになって、あの人もこの人もいらしたけれど、そこそこ深い交流があった先輩は、達栄作さんでした。もっぱらドキュメンタリーの方法とか、写真の在り方とか、写真のことがわからないまま、文学を学んだ概念を軸に、話をしていたように思います。このときの経験は、写真論とは、写真の外にある概念の組み立てである、といったようなことが直感として理解したように思えます。入門三年目で二科会関西支部に名を連ねさせてもらったところから、それらの関係を断ち切って釜ヶ崎へ向かったときまで、達さんには感謝します。縁というものはまわりまわって自分にかえってきます。その後においても様々な方と知り合って、深い議論や会話を交えた方には、感謝です。おおむね、深く関わった方というのは、この達栄作さんと1981年から三年間お世話になった東松照明さんでした。




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