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<ぼくは18歳>
ぼくは四月生まれなので高校三年になってすぐに18歳の誕生日を迎えました。なにもかも、遠くの方へ行ってしまった感がありました。1964年のこと、昭和39年です。掲載した写真は、前年の文化祭でのステージ、吹奏楽部の初演舞台です。指揮しているのが中川で、演奏は嵯峨野高校の生徒と助っ人の蜂丘中学のブラスバンド有志です。このあと部長を後輩に譲って、ぼくはなにをしていたんだろう、17歳の後半、文学に興味を持って、文章を書きだすようになります。詩集の発行を経て、三年になって、弛緩してして、間延びしてしまった感覚を思い出します。すべてが終わったような感覚で、次につなげていけない、高校三年の夏には運転免許証を取りに四条のデルタへ行きました。この夏、書店で見た文芸春秋は芥川賞の受賞作品が載っていました。同時代の現代文学にふれる最初でした。受賞作品は柴田翔氏の「されどわれらが日々」、一気に読み、衝撃を受けます。内容はいまここで書き上げることを避けますが、自殺する学生、教授と関係する女子学生、その遺書、六全協のことは大学生になって知りますが、その夏は、けだるくかったるく時間を持て余したような記憶がよみがえります。
大学に進学しようと思っていた二年生のとき、三年生になって突然大学生にならない、受験しない、就職する、という流れになって、決断しました。いいえ、この決断は、受験勉強していなくて、大学に受かりそうもなかったからです。ぼくのあたまのなかで大学といえば、京都大学、二期校では信州大学という考えがありましたけど、それは無理なことだと悟って、就職にしたから、もたもたした時間を過ごしていたのだと思えます。東京オリンピックがあった秋です。池垣先生のおうちに入り浸る男子学生がいて、その一人がぼくでしたが、池垣先生からは、頼りにされたけど、好かれてはいなかったように思う。というのも池垣先生は男色であって、ぼくは対象外だったと思うのです。名は伏せますが池垣先生の家で、服毒自殺を図った親友がいて、呼ばれて行きました。深い深い呼吸で眠っている親友を、唯一立ち会ったのがぼくだったと思います。狼狽される池垣先生をぼくは虚ろに励ましていたと思いだされます。
夏が過ぎ、冬が過ぎ、卒業間際になって、ぼくの成績はどうしようもなく落第点で、補修を受けたら卒業の認定をするというので、ぼくは、そのときには、朝から学校へ行き、補修を受け、結果、卒業証書をもらいました。進学校で12クラスのうち11クラスが進学希望者だったようです。ぼくは就職組に入ったから、どんなお人がおられたのか、ぼくは学校へ行かない、いまでいえば登校拒否生徒、真面目だと自分は思っていたけれど、行為は不良学生の部類だったと思います。いやはや、淋しさしかなかったですよ。卒業式の日なんて、逃げて帰りたい気持ちでした。すべてがおわり、おわった、その虚しさですね。希望なんて見いだせなかったし、将来の自分なんて予想もできなかったし、目の前には、十字屋楽器店に就職する、という現実だけがありました。卒業と同時に、無償で十字屋楽器店で働くようになりました。暗い、暗い、そんなイメージしかなかったですね。レッスン室にピアノがあって、ぼくはひとりピアノを弾き始めます。あこがれのピアノに触れることができたのです。