写真日々

中川繁夫の写真日々。釜ヶ崎、白虎社、京都、の写真を収録しています。

2017年11月

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フォトハウス表現塾のHP

メイン講座第3回目は2017年12月16日(土)午後2時~午後5時
開塾場所は、兵庫県尼崎市の「アルナイル」 alnair
 
定員5名です。
参加費1000円(フォトハウス表現研究所会員は500円)
研究テーマは「プロヴォーグの時代1970年代から、そして今」です。

フォトハウス表現塾メイン講座のご案内です。
毎月一回第三土曜日の予定で開塾しています。

ただいまメイン講座の塾生を募集しています。
問い合わせは、中川繁夫(facebook)へしてください。

https://www.facebook.com/sense.nakagawa


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フォトハウス表現塾のHP
 フォトハウス表現塾という名称が、ぼくの最近の表題になっています。この表題に導かれてきた経緯について、メモしておこうと思います。

 フォトハウスという名称は1984年に発出した文書に示されたのが最初でした。バウハウスをもじってフォトハウス、というのがあるんですが、最初は「写真舎」という名称で、フォトハウスになったというところです。東松照明さんと何度も何度も会話する機会があり、その会話は写真についての様々な側面を、語り合っていた、というより教示願っていたというのが本当のところかと思います。もちろん、そのなかみをどうするかというのが必要であって、名前はむしろどうでもいいことだと思っています。認知度といえばいいかと思いますが、その名前がどれだけ人に知ってもらえるか、ということです。

 表現という表し方は、かなりイージーに使われているように思えます。表現大学、表現講座、そういった名称が巷にありますが、それに類似で「表現塾」です。ここで塾としたのは小規模、マンツーマン、寺子屋形式、そのようなイメージを出せないかと思うところです。「塾」という枠も、けっこうたくさんありますから、どうしようかと迷ったところですが、フォトハウス表現塾、と命名したところです。塾といえば「学びの場」をイメージしていて、学びの場ではない枠組みをも包括する意味で、研究所、フォトハウス表現研究所、という名前をいただきました。

 研究所ということでいえばインスティチュートの言葉があてはめられるのでしょうか。1996年にはじまるインターメディウムインスティチュート(略称IMI)に使われていて、ぼくはこの研究所の事務局長という役職でした。言葉には、ひとつひとつに思い入れがあって、それを組み合わせて使うのが、自分にとって相性がいいのです。フォトハウス、表現、塾。フォトハウス、表現、研究所。まあ、実態が伴わないとどうしようもないんですが、いまのところそれほど実態が伴ってきていません。
(続く)
※写真は、大江山にある元伊勢神宮の天の岩戸社です。

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<高校卒業までを総じて>
 最近、同窓会が頻繁に行われるようになりました。高校の同窓会は四年に一度開催されていたのが、古希を迎えて二年ごとに行うということになりました。中学の同窓会が三年ごとに行うということになり、小学校の同窓会が来年6月に行われることが決まりました。ぼくは還暦を過ぎた時から、同窓会に出席するようにしました。いい思い出も気にくわない思い出も、それらすべて含めて、昔の学友と交われるということに楽しみを抱くようになったのです。生きていることの証し、出席できることの健康、半数以上が消息わからず、わかっていても同窓会には出席してこない。さまざまな理由があるとは思うが、出席できる境遇にいるということを、自分に認めてあげて、ラッキーな人生だと思いたい、と思うのです。外歴と内歴が並行して、生まれてから高校卒業までの19年間、4月生まれだから、卒業するとまもなく19歳になったのでした。

 まあね、当時のことだから、佐賀のがばいばあちゃん、じゃないけれど、よく似た環境だったと思います。貧乏といえば相対的に貧乏だったけれど、地域の、もっと限定すれば小学校区のなかでの相対的貧乏度はといえば、給食費が払えなかったから、給食があたらなかった、とうことはなくて、給食費を払ってもらっていたし、学習の本とかも買ってもらっていたから、子供には不自由させないように、親が配慮してくれていたのかも知れません。徹底的に貧乏ではなかったけれど、それなりに貧乏だったと思います。父は建具職人で、個人営業の工場へ建具を作りに行っていました。母は、理容師の免許を持っていたから、散髪屋で仕事をしていました。立命館大学の理髪部で仕事をしていて、夏休みなどには、よく広小路の研心館の地下へ遊びに行った記憶があります。1950年代半ば、昭和30年ごろでしょうか。母の事でいえば、年末には、別の散髪屋さんへ助っ人に行っていました。土日とかにも助っ人に行っていたのか、母の仕事している処へ行って、小学校の五年生位だったか、お金をせびった記憶があります。いくつかの助っ人に行っていた散髪屋さんのひとつに金さんの店があります。これはぼくの思想にも影響してくると思うので、別途、検証してみたいと思うところです。

 いつごろからか、母は、テキヤ、露天商をやりだしたのです。ぼくが小学校の中ほどから中学生のころ、まだやっていたかもしれません。いくつかの場所を覚えています。扱っていた品物も覚えています。三か所、北野天神さん、祇園八坂神社、今宮神社の御旅所。扱う品物、食べ物が主でしたが、何種類かやっていた記憶があります。節分のときですね、金太郎飴お多福飴、花見時には揚げた菓子、当てもんやってたましたね。父が作ったぐるぐるまわりの棒に糸で吊るした針。まわして針が当たった場所に、もらえる品物が書いてある、といった当てもん、です。自転車の荷台に箱を乗せ、そのうえで当てもんをする。当時、紙芝居があったけど、それの亜流みたいな自転車でした。屋台はテントを張る屋台で、天神さんでは電灯がつく場所、覚えているのは二の鳥居の傍でした。なにを売ていたんでしょうか、お正月には子供が煙硝ならして遊ぶ鉄砲とか、売っていたようにも思います。
(続く)




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 いま書こうとしていることは、写真について書いたり語ったりするときの、その内容の事です。話題の中身のことですが、写真というモノの本質に迫っていくような話になるかといえば、決してそうではなくて、その周辺ばっかり、ぐるぐると堂々巡りしているように思えて仕方がない。まずカメラのことが話題になります。カメラの使い方についてあれこれ、露出がどうこう、アングルがどうこう、作画についての話があります。それから、何を撮るか、ということは大事なことで、何を撮るかが問題だ、とまではいうけれど、何を撮ればいいのかということには、なかなか及ばない。どうも何を撮ればいいのかということに言及しようとして、撮る根拠を示すとなると、それが示せないから、あたまっからその話題には触れないでいこうとする感じがしてならない。

 何を撮るかという相手先への認識は、カメラ扱いと写真を作る、プリントする、本にする、ネットにアップする、それらのテクニックの話はできるけれど、撮られる相手への認識となると、そのことを認識するには、写真の範疇を超えていて、政治の問題や、文学の問題や、というように他分野、他ジャンルのことについて知らないといけなくなる。写真を、カメラを持つ以前のところで、そのテーマは発露してくるようなので、他ジャンルの専門知識がないと対処しきれなくなる。こういうことを言い出すと、写真が撮れなくなる、という話になってきて、つまり自分の中でぐるぐる回りの迷路に入ってしまうようです。まあ、自分の体験していることを、文章化してるところがありますが、写真は文章ではなくてイメージそのものだから、言葉は不要です、と。

 ぼくは思いますが、論理が必要な「知」の世界をあらわす写真と、論理が必要ない「情」の世界をあらわす写真があるのです。俗っぽくいえば、知の写真は高尚で、情の写真は下品だ、と感じられているようにも思えます。ここでいう情とは、どちらかといえばセクシュアルな側面を持った写真のことで、エロスに向かう、あるいは究極のエロスから閲覧許されるレベルにまで腑抜けにされたレベルで感じる「情」のこと、わかりずらいですね。まあ、写真の話しといえば、技術論、それにメーカーから供給される道具論、手作りってカメラがあるからそれについても語りますが、技術論ですね。でも、写真は、そういう技術に支えられるけれど、そうではない処のモノをイメージとして世に出す、ということではないのでしょうか。「そうではない」そのものの中身を話題にしていくのが本筋ではないのか、とぼくは思うわけですが。



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 この写真の図は二条城の門の上部、装飾が施されたキンキラキンに光っている光景です。デジタルカメラ、キャノンのG5Xというコンパクトデジカメで2千万画素で撮れるというカメラです。フィルムで撮っていた時から見たら、もう想像を絶するほどに、進化したカメラ装置、その周辺も含めて、カメラという道具がフィルムのときとは違う。ついつい、昔の話をしたくなる、そんなこんなで、関西の写真史を文字、文章と少しのイメージで描いていこうと思っている矢先の、この話です。フィルムを使って作った写真を展覧会に出展する。デジタルを使って作った写真を展覧会に出展する。出展された場では、フィルム制作もデジタル制作も、変わらない、紙に定着させるという最終出力の形は変わりません。ぼくが思うのは、あいかわらず写真展で紙に定着させたイメージを展示するということ、出版物として紙に定着させて保存するということ、このことへの想いです。デジタルだから、紙になんて定着させないのが、最前線なんだと思っていたけど、そうではないということ、これが現在地点ですね、結局。

 ぼくが一眼レフカメラを手にしたのが1975年頃です。当時、露出計内蔵カメラが主流になりつつあった時期だったと思います。自動露出ではなくて、ファインダーの横に針がついていて、それをもう一つの針に合わせる、だったと思うんですが、そうして露出を決定しましたね。でも、ぼくはその後ニコンF2のアイレベルを使いだして、露出計はセコニックのものを使いました。まあ、それから、露出については自動露出があたりまえになってきて、すごいことになっていて、でも若干の露出補正でまかなえる、という便利さで、ぼくは写真を撮っています。写真家さんを名乗る大半の人は、それはイージーすぎて、自動露出は使わない、マニュアルで撮る、らしいですが、本当でしょうか。カメラに内蔵の露出計ではなくて、単体の露出計を使うのでしょうか、こんな話はしたことないから、今度、プロカメラマンをしている人に会ったら訊いてみようかと、思います。

 もう写真という代物に関わりだして40年近くになります。いやはや子供のころからいえば60年近くになります。フィルムはモノクロでしたけど、1960年代半ばにはネガカラーが出てきて、それで撮るようになった。でも、カメラクラブに関わるようになってからはモノクロフィルムを使うようになります。ネガカラーでは作品にならない、という風潮で、カラーならリバーサル、ポジで撮るということでした。ポジで撮って紙に定着させるには、インターネガといってネガカラーフィルムに撮って、それで紙に定着させるということでした。ぼくの経験では、ポジで撮ってインターネガに起こすということはしませんでした。1980年ころでしたか、ダイレクトプリントなる方法が考案されて、リバーサルフィルムから、直接、紙にプリントできるようになった。モノクロフィルムで撮って、フィルム現像処理をして、プリントするって、いまのデジカメ、パソコンの流れからみたら、とんでもなく時間とお金がかかるものでした。

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※掲載写真は1985年のフォトハウスWS風景から。
<フォトハウスの歴史>-10-

フォトハウスの「写真データーベース」づくりについて。

 フォトハウスの事業のひとつとして、写真家、美術家、写真などに関するデーターベースを作成し、研究に寄与しなければならない。
写真家リスト、美術家リスト、技術情報、出版情報、技法、保存、など。
1、写真家らの作品特性、得意技術などの個人情報。
2、写真諸団体の組織情報。
3、部門別伝統技法などの技術情報。
4、博物館、美術館などのミュージアム情報。

 データ整理、データ蓄積の手法の確立。
 積極的な情報提供。
 データーベース整備で、狭い世界に閉じこもりがちな写真家、美術家たちの他のジャンル、他地域のメンバーなどとの交流が活発になる。また、交流を通じて写真、美術の新たな発展の方向が探れると考えられる。
 また、永年の伝統に培われた各種技法の保存が容易にできること、写真や美術を学びたいという人に適切な情報提供が可能になる。


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フォトハウス表現塾のHP

2017年10月開塾しました「フォトハウス表現塾/メイン講座」です。
開塾場所は
alnair alternative space
<アルナイル>
〒660-0892 兵庫県尼崎市東難波町3-18-8 です。
連絡は中川繁夫(facebook)
https://www.facebook.com/sense.nakagawa

ただいまメイン講座の塾生を募集しています。
問い合わせは、中川繁夫(facebook)へコメントしてください。

https://www.facebook.com/sense.nakagawa

メイン講座第2回目は 2017年11月18日(土)午後2時~午後5時
開塾場所は,
兵庫県尼崎市の「アルナイル」 alnair
 
定員5名です。
参加費1000円(フォトハウス表現研究所会員は500円)
研究テーマは「コンポラ展の時代1960年から そして今」です。
以下、毎月一回第三土曜日の予定で研究会を開塾します。
アルナイルは、ギャラリー176のディレクター杉あつよさんのスペースです。


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