中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の寫眞と文章。撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

2018年01月

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フォトハウス表現研究所のHP
<フォトハウス設立のころ1984年>
1984年にフォトハウスを設立したときの趣意書を見ると「現在日本の写真状況における当面の課題」と称して、文書を作成しています。その文書はワープロで作られ、各人には封書にして郵便で送りました。思い起こせばワープロが個人でも手に入る価格になっていて、ぼくはそれを購入して、文書を作成しました。価格的には数十万円しておりました。今からみればバカみたいな話ですが、通信手段は電話か郵便。ようやくコピー機とファックスが事務機器として普及しだしたところでした。1981年に東松照明さんの京都取材が始まり、1984年に京都取材が終えられますが、その間、およそ三年数か月にわたって、主に京都で、月に一回から三回、お会いできる機会があって、食事を共にし、北白川にあったウイークリーホテルに滞在されているときには、そこのお部屋へ伺って、写真についての話を、多角的に話が展開されていきました。もう35年も前の話になりますが、ぼくには、それらの日々の光景と、おおむね話をしたまとめが手元に残っていて、記憶がよみがえってきます。

その会話というか議論させていただいた内容を、図表としてまとめたのが「フォトハウスの組織図」でした。
<あくまでこれらは「理想とする姿」であって、決して今すぐに実現するシステムだとは申しませんが、このように理想を描くことによって、その第一歩が踏みだせるものだと思っております>
どこか別のところでその内容については公表しているので、参照していただいたらいいかと思いますが、その企画内容について、東松照明さんからは時期尚早だから公表は避ける方がよいとのアドバイスでした。それは大きな資本によって持って行かれる内容だ、ということでした。そのアドバイスを受けながら、公表したところで、多くは理解されることなく、惨たる幕開けでした。

いま2018年ですが、昨年秋にフォトハウス表現研究所をバーチャルですが設立しました。流れからいうと、1984年にフォトハウス、2001年に総合文化研究所構想、2017年にフォトハウス表現研究所構想、ということで、その基本は1984年のフォトハウス構想に拠っていると思っています。写真の枠から、農業の枠を取り込み、アート全体を捉えるフレームへと移行してきました。フォトハウス表現研究所の領域は、具体的にはインターネット回線を使い、アートの分野、絵画、写真、映像、音楽、文学、を縦軸・横軸・奥行に捉える枠組みを想定するところです。それぞれの分野を統合的に組み合わせ、食のこと、生体のこと、近年の潮流を引き受けて現在形の思考回路を身につけることを模索しようと思っています。
(続く)

フォトハウス表現研究所のHP
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<工学と音楽と文学>
 当時、ヤマハのエレクトーンが発売され、それの修理や調整が行える技術屋がいないということで、十字屋楽器店技術部のエレクトーン担当ということになりました。電子楽器ではハモンドオルガンが先駆者で、これは真空管を使っていて、エレクトーンはトランジスタを使って作り上げられた楽器でした。電子のことは興味がありました。高校進学のときに工業高校の電子科を受けたいと担任に申し出たときには、高校は普通科にして、大学で履修しなさいと指導されて普通科へ進学したところでした。高校一年から二年のころの進学気分では工業系の大学学部を狙おうと思って、国立系の大学をリサーチしていたと記憶しています。そういうこともあったから、エレクトーン技術者をいわれたときには、ピアノ調律師よりも乗り気になっていました。心斎橋にヤマハの大阪支店があって、そこへ三か月技術見習いにいくことになります。高校新卒すぐの職場はヤマハ大阪支店のエレクトーンのメンテナンスを行う技術部でした。そこにいらした先輩で船乗りをして無線をやっていたという方から、電子回路のことを教えてもらっていました。1965年のことですから、集積回路という話がとっても新鮮でした。そうして浜松のヤマハの工場で研修があるというので二週間の合宿。技術者証をいただきました。ナンバーは3、東京の楽器店、大阪の楽器店、そうして京都の楽器店は三番でした。十字屋へ帰ってきてデスクをもらいましたが、なにか別格扱いしてもらっていたと思います。向かいのリプトンで接待として食事したらサインでOKという扱いでした。週に一遍ぐらい大阪へ行っていたように思います。

 どうしたわけかエレクトーンと音楽の方へ進む手筈が、文学にめざめることになります。数年の事なのに工学系大学なんてもう蚊帳の外、音楽大学で学ぶというのも夢の夢と消えていて、文系の大学学部へ進学という流れになっていました。大学で学ぶということが憧れとなってきたのです。どうしても大学に進学したいと思ったのです。高校時代の友だちは、ほぼ大学生になっていて、その後妻となる彼女も大学生で大阪にいた関係からも、進学の方へと向いていたのだと思います。十字屋には二年いて、辞めました。それから一年の浪人生活が始まります。1967年のことで、世間とはいっても学生運動レベルでいえば早稲田が学費値上げでもめていたときでした。その早稲田へいきたいと思っていました。予備校は岡崎にあった京都予備校で勉強することで席を置きましたが余り通ってなかったように記憶しています。早稲田の演劇、同志社の美学、立命館の文学、志望の学校学部はこういうところでしたが、一年後には立命館の二部文学部にだけ合格させていただいた。受験勉強なんてほぼしていなくて、成り行きで受験して、受かるはずもなく、このあたりから考えが甘い自分がありました。浪人しているときには、受験参考書を紐解くというより小説を読み漁っていたようです。文学歴は別途書き残しておきたいと思うところですが、、とくに太宰治の小説には惹かれていきました。もう半世紀以上もまえの話なので、その当時の文学といえば大江健三郎さん、柴田翔さん、高橋和巳さん、とかとか現代文学を読み、外国文学ではカミュとかサルトルとか、でした。
(続く)


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フォトハウス表現研究所のHP
只今、フォトハウス表現研究所のコアメンバーを募集しています。
フォトハウス表現塾を企画・運営するスタッフです。

また表現塾/メイン講座、2018.3までは、プレ開塾期間です。
表現塾/メイン講座は2018年3月まで、毎月、第三土曜日に開塾です。
正式開塾は別カリキュラムで2018年4月ですが、場所は未定です。

フォトハウス表現塾/メインの1月期開塾案内です。
2018年1月20日(土)
午後2時~午後5時
開塾場所は、兵庫県尼崎市の「アルナイル」 alnair
参加費1000円、会員500円(フォトハウス表現研究所会員)
研究テーマは「柄谷行人著「日本近代文学の起源」を読む」です。

主宰は中川繁夫
https://www.facebook.com/sense.nakagawa
フェースブックに連動させているので応募は☝ここからお願いします。

全6回フォトハウス表現塾/メインの研究テーマです。
「現代アートと写真の現在、その動向」 2017.10.21
「コンポラ展の時代1960年代から、そして今」 2017.11.18
「プロヴォーグの時代1970年代から、そして今」 2017.12.16
「柄谷行人著「日本近代文学の起源」を読む」 2018.1.20
「東松照明の軌跡とその周辺」 2018.2.17
「関西の写真史、1950年代以降、そして今」 2018.3.17
フォトハウス表現塾のHP

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<ステーグリッツとオキーフ>
 20世紀がはじまったころのニューヨークに、ステーグリッツが291ギャラリーを創設します。まだ女学生だったオキーフがこのギャラリーにやってきて、そののちにはステーグリッツと一緒に住むようになります。ステーグリッツ45才、オキーフ20才、といったところですでに名をはせていたステーグリッツにオキーフが学ぶといった関係から始まったと思います。そこで、ステーグリッツは、オキーフのポートレートを撮ります。資料が手元にないのであてずっぽ、記憶の中で書いていきますが、1930年半ばごろまで撮っているのではなかったかと思います。1970年代になって、それらの写真がニューヨークの近代美術館にて公開、展覧会が開かれ、写真集が作られ、世にしれることになります。

 彼女のポートレートを撮るということは、写真する者にとってよくあることです。絵画において自分の彼女や子供を描くということも多々あります。この写真行為について、プライベートな領域からパブリックな領域に引きだされてきた時代の流れがあります。いま2018年を迎えましたが、現在的な意味からいって、彼女のあるいは彼の、つまり関係する二人の間に撮られる写真が、作品となって表出してくるという構図が、公認されています。近代小説のなかで日本には私小説が自然主義のなかから出てきて、今もなお作品としてある形式ですが、写真においても、これは1970年代ごろにおいてでしょうか、作品化されるようになったと思います。

 ぼくは現代写真の基軸となる写真家にステーグリッツをあげています。スナップショットの技法や、オキーフのポートレートを、現代につながる写真の方法と行為だったと考えるのです。291ギャラリーを主宰すること、ヨーロッパに留学していて分離派運動に参加したとされるステーグリッツが、アメリカはニューヨークに戻ってきて、それこそ近代主義、モダニズムそのものの真っただ中で、ヨーロッパとアメリカの架け橋をつくっていくというのです。ステーグリッツの内面にオキーフという女性がいて、たぶん恋愛感情でもって、彼女を見ていたと思えます。その第一人称と第二人称の関係の中で、写真という行為があること、これが非常に「現在的」だと思うのです。カメラ機材の問題ではなくて、作品をつくる人間としての感情の問題としてです。




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