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大学へ行くようになるのは1968年、入学後すぐに22才になっておりました。三年遅れで、入学できたのは京都の立命館大学、二部文学部でした。この大学には、高校の後輩になる人達が何人かいました。後輩が先輩になるというなかで、ぼくは学友会といったか学生自治会へ連れていってもらって、紹介してもらって、活動家になっていく枠組みが与えられたように感じます。ところが、当時、そこは民主青年同盟員が多数派の自治会で、なぜかぼくは違和感を抱いてしまいます。当時の学生運動のことを説明しないといけないのかも知れませんが、三派全学連とか、反共産党系の学生組織が、目立つところでマスコミに取り上げられていました。高校の同級生で大学生になっていた友達は、同志社大学の学生で、同志社の学生運動組織は反日共で、ぼくが加わっていた議論の場も、だから、。必然的に反日共派ということになっていたのです。この思想を持ったぼくが、そのまま立命館の自治会で話をしたものだから、反目され、放り出されることになります。知りませんでした、党派が対立して、反目して、運動を潰しあいするということを、意識していませんでした。時系列的には、京都での一連の出来事を経験して、それから東京へ行くことになって、翌年1969年10月21日を経験して、ぼくは京都へ戻ります。
結局、中途半端なまま、主流の共産党系自治会からすると、反対派ということで脅しをうけたり、囲まれたり、暴行は受けませんでしたが、嫌がらせをされる立場になります。秋の頃、法律書が専門の出版社に就職が決まって、京都で起こった一連の学生デモを見ることになります。東大の安田講堂が封鎖されていたころの話です。東京勤務することにしてもらって、大学は退学ではなくて、休学することになりました。東京の社屋は、本郷にありました。東大の正門と赤門の間くらいの、東大とは向い合せの小さなビルでした。東京に住居を置くおおきな目的は、小説家になる夢を実現するためのことが、第一の理由です。憧れの東京、そのイメージです。神田に取次店があって、配本のための本をライトバンに積んで納品待ちの時間、そこからニコライ堂が見えました。神田神保町は書店街ですが、小さな取次店もありました。営業にいたぼくは、それらの取次店へは何度もいきます。気分は、まさに中心にいる、という感覚でした。労働組合をつくる話が持ち上がり、議論に参加することになりました。会社単位の連合ではなくて、出版労連でしたか、個人でも入れる組合で、会社には秘密で加入して、紅(くれない)分会と名乗ったように記憶しています。
1969年は、各大学で学生運動が盛り上がり、秋には大きな統一デモも呼びかけられたりしておりました。国際反戦デーを名目に10月21日、セクト各組織は、大規模な決起を呼びかけていました。当日は勤務していて午前中には神田の書籍取次店へ納品にいきました。白っぽいライトバンの車で、館だ界隈、機動隊の検問があって、身分証明書と積まれた新刊本を検分され、そのまま何事も起こらず、仕事を終えます。ラジオは、パニックに陥る首都東京の交通機関の状況や道路状況を生々しく放送しています。まだ勤務中だったぼくには、切羽詰まった気持ちになってきたのを覚えています。暗くなって、ぼくが赴いたのは明治公園で、ここはべ平連のデモの出発地でした。逮捕されたときの心得、メモ書きが配られ、ヘルメットは被っていない一般学生、ノンセクトの学生、三千人が集まったと記録されていると思います。目的地は水道橋、明治公園から水道橋までのデモです。新宿の方では、ヘルメット集団が国鉄を動かさないようにしていたとか、デモで機動隊と衝突したとか、いまもって話題豊富です。水道橋の方は、さいごに渦巻きデモがなされ、機動隊に排除されるとき、逮捕者が何人も出た現場を、目撃しています。
(掲載の写真は、1974年ごろ、読書会してた漱石研究会のメンバーとの記念写真です)