写真日々

中川繁夫の写真日々。釜ヶ崎、白虎社、京都、の写真を収録しています。

2018年07月

120scan1511090157
-17-
 大学へ行くようになるのは1968年、入学後すぐに22才になっておりました。三年遅れで、入学できたのは京都の立命館大学、二部文学部でした。この大学には、高校の後輩になる人達が何人かいました。後輩が先輩になるというなかで、ぼくは学友会といったか学生自治会へ連れていってもらって、紹介してもらって、活動家になっていく枠組みが与えられたように感じます。ところが、当時、そこは民主青年同盟員が多数派の自治会で、なぜかぼくは違和感を抱いてしまいます。当時の学生運動のことを説明しないといけないのかも知れませんが、三派全学連とか、反共産党系の学生組織が、目立つところでマスコミに取り上げられていました。高校の同級生で大学生になっていた友達は、同志社大学の学生で、同志社の学生運動組織は反日共で、ぼくが加わっていた議論の場も、だから、。必然的に反日共派ということになっていたのです。この思想を持ったぼくが、そのまま立命館の自治会で話をしたものだから、反目され、放り出されることになります。知りませんでした、党派が対立して、反目して、運動を潰しあいするということを、意識していませんでした。時系列的には、京都での一連の出来事を経験して、それから東京へ行くことになって、翌年1969年10月21日を経験して、ぼくは京都へ戻ります。

 結局、中途半端なまま、主流の共産党系自治会からすると、反対派ということで脅しをうけたり、囲まれたり、暴行は受けませんでしたが、嫌がらせをされる立場になります。秋の頃、法律書が専門の出版社に就職が決まって、京都で起こった一連の学生デモを見ることになります。東大の安田講堂が封鎖されていたころの話です。東京勤務することにしてもらって、大学は退学ではなくて、休学することになりました。東京の社屋は、本郷にありました。東大の正門と赤門の間くらいの、東大とは向い合せの小さなビルでした。東京に住居を置くおおきな目的は、小説家になる夢を実現するためのことが、第一の理由です。憧れの東京、そのイメージです。神田に取次店があって、配本のための本をライトバンに積んで納品待ちの時間、そこからニコライ堂が見えました。神田神保町は書店街ですが、小さな取次店もありました。営業にいたぼくは、それらの取次店へは何度もいきます。気分は、まさに中心にいる、という感覚でした。労働組合をつくる話が持ち上がり、議論に参加することになりました。会社単位の連合ではなくて、出版労連でしたか、個人でも入れる組合で、会社には秘密で加入して、紅(くれない)分会と名乗ったように記憶しています。

 1969年は、各大学で学生運動が盛り上がり、秋には大きな統一デモも呼びかけられたりしておりました。国際反戦デーを名目に10月21日、セクト各組織は、大規模な決起を呼びかけていました。当日は勤務していて午前中には神田の書籍取次店へ納品にいきました。白っぽいライトバンの車で、館だ界隈、機動隊の検問があって、身分証明書と積まれた新刊本を検分され、そのまま何事も起こらず、仕事を終えます。ラジオは、パニックに陥る首都東京の交通機関の状況や道路状況を生々しく放送しています。まだ勤務中だったぼくには、切羽詰まった気持ちになってきたのを覚えています。暗くなって、ぼくが赴いたのは明治公園で、ここはべ平連のデモの出発地でした。逮捕されたときの心得、メモ書きが配られ、ヘルメットは被っていない一般学生、ノンセクトの学生、三千人が集まったと記録されていると思います。目的地は水道橋、明治公園から水道橋までのデモです。新宿の方では、ヘルメット集団が国鉄を動かさないようにしていたとか、デモで機動隊と衝突したとか、いまもって話題豊富です。水道橋の方は、さいごに渦巻きデモがなされ、機動隊に排除されるとき、逮捕者が何人も出た現場を、目撃しています。
(掲載の写真は、1974年ごろ、読書会してた漱石研究会のメンバーとの記念写真です)


    mixiチェック

120umi201203020002
-16-
 高校を卒業するのが1965年3月で、卒業と同時に就職先の十字屋楽器店へいきます。仕事の内容は技術部でピアノの調律を学ぼうと思っていたところでしたが、当時、ヤマハエレクトーンが発売されていて、修理調整係がいないということで、エレクトーン技術者になることになったのです。三か月の研修は、ヤマハの大阪支店でした。1965年当時は、心斎橋の商店街のなかにヤマハの店があり、その二階がヤマハの大阪支店、オフィスです。京都の自宅から、京阪電車で淀屋橋、そこから地下鉄で心斎橋へ、大丸の横から心斎橋筋のアーケードに上がって、戎橋の方へ行ったところがヤマハでした。スーツを着て、ネクタイをしめたサラリーマ集団のなかへ、制服のスーツを着た女子の方たちがいらした。ぼくのサラリーマン経験といえば、この研修期間三か月です。もちろん、その後も出版社や郵政省の公務員として働きますが、大手企業のサラリーマンは、ちょっと違うように思えます。

 船乗りで通信をやっていて、転職で陸へあがりヤマハに来たという方、佐藤さん、当時27歳だといっていましたが、この方と同行することが多くて、エレクトーンの原理を、いろいろと教わりました。ぼくは中学生のころ、アマチュア無線に興味があって、その後断念したけれど、船舶無線の世界の話には興味をもちました。また、真空管からトランジスタの時代になって、その構造と原理の話を教えてもらいます。コンデンサーとバリコン周波数変調の組み合わせで、音色と周波数が変えられる、などの話、ラジオ技術の基本ですかね、それを教わりました。集積回路という話も、いろいろ聞かせてもらって、実際にエレクトーンの修理は、当時はハンダゴテ、でハンダを溶かして、接着する、そんな技術だったと記憶していますが、集積回路は、もっと小さくなって、回路ごと交換するようになる、とか電気・電子技術の基本を教えてもらったと思います。ぼくのなかで、いちんん明るい経験だったかも知れません。

 ヤマハでの研修が終わって、京都の楽器店の地下の技術部で、ひとりエレクトーン技術者、けっこう自由気儘にやらせてもらっていたと思います。でも、それは、19歳の男子、かって大学進学を考えてきた高校時代、なにがあったにせよ、進学を断念したけれど、友達が大学生、むくむくと大学生になりたいとの願望が出てきて、二年で辞めることにしました。すでに二十歳になっていましたから、浪人三年目くらいの感じで、楽器店を辞め、予備校に通う浪人生になったのです。その後結婚することになる彼女がいましたし、入学するためのお金も用意できたところでした。目指すは、早稲田の文学部。今から思うと、無謀極まりないわけですが、京大は無理だろうから早稲田、なんて、高校時代には不良してたし、受験勉強してないのに、受かるわけないのに、そう思っていました。

 心理はとっても複雑だった気がします。具体的な相談相手はいません。親や親戚の人には、本音は言えなかったし、やりたい放題にやりたいことをした、とはいっても興味が移っていくし、仕事もすぐに辞めてしまう浮気者、と思われていたようです。19歳から二十歳になる前、寒かったのを覚えているから、秋から冬、金閣寺の北にあった三畳一間のアパートに住みました。友達に北村君という奴がいて、彼が紹介してくれて、住むようになったのです。北村君のことは、別途、話をしないといけない、といま気がつきます。寒い夜、アパートへ帰る途中で千本北大路にあった食堂で、ご飯を食べる。自炊はしていなくて、外食でした。でも、体調壊して、翌年の夏前には、実家に戻ったように思います。実家とはいっても別棟になっていて、バラック小屋でしたが、そこに弟と住むようになります。

    mixiチェック

120yama1807030011
 半年ほど前に、ここに自伝を連載していて、大学生になって、文学のはなしをしているところで、止まってしまいました。今年にはいって、それからの半年、気持ちをフォトハウス表現塾の立ち上げに向けていたので、自伝に手が回らなかったと思うのです。自伝もそうですが、関西の写真史、全体の写真史、それらも途中になっているところです。ということで、自伝を、小説家になりたい、というところから書いておこうと思います。

 高校の時の友だち数人と、文学のサークルを作っていました。ぼくは浪人生で、岡崎にあった京都予備校へ通っているときでしたから、もう十字屋は辞めていて、受験勉強をしていた。長澤、大田、小田、塚本、喫茶店で集まって、文学論議して、それなりに小説家になっていく卵みたいな、そんな感覚、そんな気分でした。年号でいえば1967年です、昭和42年です。専用の原稿用紙を作ろう、ということになって、縦25字横20行の原稿用紙を五千枚刷ってもらって、各人千枚ずつ、持ちました。ぼくの万年筆はパーカーで、かなり太字でした。関西文学っていう同人誌があって、そこの会員になっていたけど、例会には参加したことはありませんでした。

 かっこだけでも小説家。田端、日暮里、なんて地名のところには、小説家が沢山いらしたようで、私小説作家でしたか、文章を読んでいて、東京のそのあたりへの興味が、湧いていました。浪人時代に何度か東京へ行きました。国電のお茶の水駅界隈へ行きました。学生の数が、京都とは比較にならないほど、沢山いました。国電駅の改札前は狭い道路で、喫茶店が並んでいた記憶があります。そこへ入って、東京の味、東京で学生になったら、こんなことできるんや、そんなことを思った記憶が、よみがえってきます。実際に、ぼくが東京の出版社に勤めるようになるのは、それから一年ほど後になります。東京へ行って生活する、いわゆる上京して小説の勉強をする、ということが始まります。

 1967年から1968年、ぼくは大学受験を控えた浪人でした。お金は、失業保険をしばらくもらっていたし、二年間で貯めたお金がありました。お金といえば、お金を貸してあげて、返してもらえなかった話をします。仲の良かった友達に、五万円程はいった通帳を預けて、ヤマハの研修に入って、帰ってきて通帳を返してもらったら、残高がほとんどなかった、というのがひとつ。友達のお父さんが、家業で染色の仕事をされていて、ぼくが大学へのために貯めていたお金の話をしていたのです。そのうち、そのお金を新規事業に使うので、貸て欲しいと言われて、貸しました。もちろん借用書も、担保も、何もなく、現金で、ハイと渡したのが20万円。いまでいえば200万円相当の金額です。これは、全額返してもらえなかったけれど、大学入学が決まってたしか五万円返してもらいました。

    mixiチェック

京都写真帳1980-34- 鞍馬の火祭-3-
120kyoto1311190220
120kyoto1311190221
120kyoto1311190222
120kyoto1311190223
120kyoto1311190224
120kyoto1311190226
120kyoto1311190225
120kyoto1311190227
120kyoto1311190228
120kyoto1311190229
120kyoto1311190230
120kyoto1311190231


    mixiチェック

京都写真帳1980-33- 鞍馬の火祭-2-
120kyoto1311190208
120kyoto1311190209
120kyoto1311190210
120kyoto1311190211
120kyoto1311190212
120kyoto1311190213
120kyoto1311190214
120kyoto1311190215
120kyoto1311190216
120kyoto1311190217
120kyoto1311190218
120kyoto1311190219


    mixiチェック

京都写真帳1980-32- 鞍馬の火祭-1-
120kyoto1311190196
120kyoto1311190197
120kyoto1311190198
120kyoto1311190199
120kyoto1311190200
120kyoto1311190201
120kyoto1311190202
120kyoto1311190203
120kyoto1311190204
120kyoto1311190205
120kyoto1311190206
120kyoto1311190207

    mixiチェック

京都写真帳1980-31- 瑞饋祭-4-
120kyoto1311190184
120kyoto1311190185
120kyoto1311190186
120kyoto1311190187
120kyoto1311190188
120kyoto1311190189
120kyoto1311190190
120kyoto1311190191
120kyoto1311190192
120kyoto1311190193
120kyoto1311190194
120kyoto1311190195


    mixiチェック

京都写真帳1980-30- 瑞饋祭-3-
120kyoto1311190174
120kyoto1311190175
120kyoto1311190176
120kyoto1311190177
120kyoto1311190178
120kyoto1311190179
120kyoto1311190180
120kyoto1311190181
120kyoto1311190182
120kyoto1311190183


    mixiチェック

京都写真帳1980-29- 瑞饋祭-2-
120kyoto1311190162
120kyoto1311190163
120kyoto1311190164
120kyoto1311190165
120kyoto1311190167
120kyoto1311190168
120kyoto1311190169
120kyoto1311190166120kyoto1311190171
120kyoto1311190170
120kyoto1311190172
120kyoto1311190173


    mixiチェック

京都写真帳1980-28- 瑞饋祭-1-
120kyoto1311190150
120kyoto1311190151
120kyoto1311190152
120kyoto1311190153
120kyoto1311190154
120kyoto1311190155
120kyoto1311190156
120kyoto1311190157
120kyoto1311190158
120kyoto1311190159
120kyoto1311190160
120kyoto1311190161



    mixiチェック

このページのトップヘ