中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の自伝を書いていきます。すでに収録済みの寫眞帖ブログ、撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

カテゴリ: 自伝

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<工学と音楽と文学>
 当時、ヤマハのエレクトーンが発売され、それの修理や調整が行える技術屋がいないということで、十字屋楽器店技術部のエレクトーン担当ということになりました。電子楽器ではハモンドオルガンが先駆者で、これは真空管を使っていて、エレクトーンはトランジスタを使って作り上げられた楽器でした。電子のことは興味がありました。高校進学のときに工業高校の電子科を受けたいと担任に申し出たときには、高校は普通科にして、大学で履修しなさいと指導されて普通科へ進学したところでした。高校一年から二年のころの進学気分では工業系の大学学部を狙おうと思って、国立系の大学をリサーチしていたと記憶しています。そういうこともあったから、エレクトーン技術者をいわれたときには、ピアノ調律師よりも乗り気になっていました。心斎橋にヤマハの大阪支店があって、そこへ三か月技術見習いにいくことになります。高校新卒すぐの職場はヤマハ大阪支店のエレクトーンのメンテナンスを行う技術部でした。そこにいらした先輩で船乗りをして無線をやっていたという方から、電子回路のことを教えてもらっていました。1965年のことですから、集積回路という話がとっても新鮮でした。そうして浜松のヤマハの工場で研修があるというので二週間の合宿。技術者証をいただきました。ナンバーは3、東京の楽器店、大阪の楽器店、そうして京都の楽器店は三番でした。十字屋へ帰ってきてデスクをもらいましたが、なにか別格扱いしてもらっていたと思います。向かいのリプトンで接待として食事したらサインでOKという扱いでした。週に一遍ぐらい大阪へ行っていたように思います。

 どうしたわけかエレクトーンと音楽の方へ進む手筈が、文学にめざめることになります。数年の事なのに工学系大学なんてもう蚊帳の外、音楽大学で学ぶというのも夢の夢と消えていて、文系の大学学部へ進学という流れになっていました。大学で学ぶということが憧れとなってきたのです。どうしても大学に進学したいと思ったのです。高校時代の友だちは、ほぼ大学生になっていて、その後妻となる彼女も大学生で大阪にいた関係からも、進学の方へと向いていたのだと思います。十字屋には二年いて、辞めました。それから一年の浪人生活が始まります。1967年のことで、世間とはいっても学生運動レベルでいえば早稲田が学費値上げでもめていたときでした。その早稲田へいきたいと思っていました。予備校は岡崎にあった京都予備校で勉強することで席を置きましたが余り通ってなかったように記憶しています。早稲田の演劇、同志社の美学、立命館の文学、志望の学校学部はこういうところでしたが、一年後には立命館の二部文学部にだけ合格させていただいた。受験勉強なんてほぼしていなくて、成り行きで受験して、受かるはずもなく、このあたりから考えが甘い自分がありました。浪人しているときには、受験参考書を紐解くというより小説を読み漁っていたようです。文学歴は別途書き残しておきたいと思うところですが、、とくに太宰治の小説には惹かれていきました。もう半世紀以上もまえの話なので、その当時の文学といえば大江健三郎さん、柴田翔さん、高橋和巳さん、とかとか現代文学を読み、外国文学ではカミュとかサルトルとか、でした。
(続く)


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<19才から20才>
 高校を卒業して、十字屋楽器店に就職します。なんか暗いイメージしか思い出されてこないんですが、自分が暗かったのかも知れません。就職するなんて、高校三年の秋まで、思っていなかった。漠然と大学へ行きたいと思う気持ちと、勉強してないから行けるはずないやろ、との思いが交錯していて、入学金やら学費のことも工面つかない現状もあって、就職する、と決断して就職部の先生(名前忘れた)に告げたら、即座に、十字屋がいいと推薦してくれてピアノの調律がいい、といってくれて、技術部を紹介してもらえることになって、面談にいって、森部長、受け入れてもらえて、就職が決まったというところでした。ピアノの調律を希望していたけれど、ぼく自身はそんなに熱心な気持ちではなく、職人芸みたいな技術屋になることには、むしろ嫌悪感がありました。

 別の話ですが、西陣にいることから、染物や織物が身近にあって、織屋になることなんかは毛頭考えられなくて、でも手に職、ということでロウケツ染めのロウを入れる工房みたいなところに行ったけれど、数日しか続きませんでしたし、染の型紙をつくる人のところへ入門とのことも、まったく背筋がぞ~っとした記憶があります。何を思っていたんだろうか、いま記憶を辿っているけど、音楽の場合だと指揮者になりたい、そう思ったように思えます。ブラスバンドを作って、指揮をして、いやいや、中学生の時の市中パレードには、先頭の指揮棒を振る指揮官やってた、ですね。そんなこんなで、音楽が目の前にある芸術分野でした。

 音大へ行きたいという思い、十字屋楽器店で仕事をするようになったことから、憧れるようになります。どうしたら音大の学生になれるのか。ピアノが必須、ソナタが弾ける必要がある、そういうことでピアノを習いだします。ええ、バイエルからはじめました。十字屋の三条本店の二階が個室になっていてレッスンできました。勤務が終わってから内緒で入り込んで、練習していました。週に一回、茨木の店でピアノ教室が開かれていて、そこで受けるようになりました。中学のブラスバンドの先輩小林さんが店長をしておられて、お世話になったのです。先生は京都女子大のピアノの先生で男の先生、小学生のレッスンが終わったあとの最後の生徒でした。(続く)


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<高校卒業までを総じて>
 最近、同窓会が頻繁に行われるようになりました。高校の同窓会は四年に一度開催されていたのが、古希を迎えて二年ごとに行うということになりました。中学の同窓会が三年ごとに行うということになり、小学校の同窓会が来年6月に行われることが決まりました。ぼくは還暦を過ぎた時から、同窓会に出席するようにしました。いい思い出も気にくわない思い出も、それらすべて含めて、昔の学友と交われるということに楽しみを抱くようになったのです。生きていることの証し、出席できることの健康、半数以上が消息わからず、わかっていても同窓会には出席してこない。さまざまな理由があるとは思うが、出席できる境遇にいるということを、自分に認めてあげて、ラッキーな人生だと思いたい、と思うのです。外歴と内歴が並行して、生まれてから高校卒業までの19年間、4月生まれだから、卒業するとまもなく19歳になったのでした。

 まあね、当時のことだから、佐賀のがばいばあちゃん、じゃないけれど、よく似た環境だったと思います。貧乏といえば相対的に貧乏だったけれど、地域の、もっと限定すれば小学校区のなかでの相対的貧乏度はといえば、給食費が払えなかったから、給食があたらなかった、とうことはなくて、給食費を払ってもらっていたし、学習の本とかも買ってもらっていたから、子供には不自由させないように、親が配慮してくれていたのかも知れません。徹底的に貧乏ではなかったけれど、それなりに貧乏だったと思います。父は建具職人で、個人営業の工場へ建具を作りに行っていました。母は、理容師の免許を持っていたから、散髪屋で仕事をしていました。立命館大学の理髪部で仕事をしていて、夏休みなどには、よく広小路の研心館の地下へ遊びに行った記憶があります。1950年代半ば、昭和30年ごろでしょうか。母の事でいえば、年末には、別の散髪屋さんへ助っ人に行っていました。土日とかにも助っ人に行っていたのか、母の仕事している処へ行って、小学校の五年生位だったか、お金をせびった記憶があります。いくつかの助っ人に行っていた散髪屋さんのひとつに金さんの店があります。これはぼくの思想にも影響してくると思うので、別途、検証してみたいと思うところです。

 いつごろからか、母は、テキヤ、露天商をやりだしたのです。ぼくが小学校の中ほどから中学生のころ、まだやっていたかもしれません。いくつかの場所を覚えています。扱っていた品物も覚えています。三か所、北野天神さん、祇園八坂神社、今宮神社の御旅所。扱う品物、食べ物が主でしたが、何種類かやっていた記憶があります。節分のときですね、金太郎飴お多福飴、花見時には揚げた菓子、当てもんやってたましたね。父が作ったぐるぐるまわりの棒に糸で吊るした針。まわして針が当たった場所に、もらえる品物が書いてある、といった当てもん、です。自転車の荷台に箱を乗せ、そのうえで当てもんをする。当時、紙芝居があったけど、それの亜流みたいな自転車でした。屋台はテントを張る屋台で、天神さんでは電灯がつく場所、覚えているのは二の鳥居の傍でした。なにを売ていたんでしょうか、お正月には子供が煙硝ならして遊ぶ鉄砲とか、売っていたようにも思います。
(続く)




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<ぼくは18歳>
 ぼくは四月生まれなので高校三年になってすぐに18歳の誕生日を迎えました。なにもかも、遠くの方へ行ってしまった感がありました。1964年のこと、昭和39年です。掲載した写真は、前年の文化祭でのステージ、吹奏楽部の初演舞台です。指揮しているのが中川で、演奏は嵯峨野高校の生徒と助っ人の蜂丘中学のブラスバンド有志です。このあと部長を後輩に譲って、ぼくはなにをしていたんだろう、17歳の後半、文学に興味を持って、文章を書きだすようになります。詩集の発行を経て、三年になって、弛緩してして、間延びしてしまった感覚を思い出します。すべてが終わったような感覚で、次につなげていけない、高校三年の夏には運転免許証を取りに四条のデルタへ行きました。この夏、書店で見た文芸春秋は芥川賞の受賞作品が載っていました。同時代の現代文学にふれる最初でした。受賞作品は柴田翔氏の「されどわれらが日々」、一気に読み、衝撃を受けます。内容はいまここで書き上げることを避けますが、自殺する学生、教授と関係する女子学生、その遺書、六全協のことは大学生になって知りますが、その夏は、けだるくかったるく時間を持て余したような記憶がよみがえります。

 大学に進学しようと思っていた二年生のとき、三年生になって突然大学生にならない、受験しない、就職する、という流れになって、決断しました。いいえ、この決断は、受験勉強していなくて、大学に受かりそうもなかったからです。ぼくのあたまのなかで大学といえば、京都大学、二期校では信州大学という考えがありましたけど、それは無理なことだと悟って、就職にしたから、もたもたした時間を過ごしていたのだと思えます。東京オリンピックがあった秋です。池垣先生のおうちに入り浸る男子学生がいて、その一人がぼくでしたが、池垣先生からは、頼りにされたけど、好かれてはいなかったように思う。というのも池垣先生は男色であって、ぼくは対象外だったと思うのです。名は伏せますが池垣先生の家で、服毒自殺を図った親友がいて、呼ばれて行きました。深い深い呼吸で眠っている親友を、唯一立ち会ったのがぼくだったと思います。狼狽される池垣先生をぼくは虚ろに励ましていたと思いだされます。

 夏が過ぎ、冬が過ぎ、卒業間際になって、ぼくの成績はどうしようもなく落第点で、補修を受けたら卒業の認定をするというので、ぼくは、そのときには、朝から学校へ行き、補修を受け、結果、卒業証書をもらいました。進学校で12クラスのうち11クラスが進学希望者だったようです。ぼくは就職組に入ったから、どんなお人がおられたのか、ぼくは学校へ行かない、いまでいえば登校拒否生徒、真面目だと自分は思っていたけれど、行為は不良学生の部類だったと思います。いやはや、淋しさしかなかったですよ。卒業式の日なんて、逃げて帰りたい気持ちでした。すべてがおわり、おわった、その虚しさですね。希望なんて見いだせなかったし、将来の自分なんて予想もできなかったし、目の前には、十字屋楽器店に就職する、という現実だけがありました。卒業と同時に、無償で十字屋楽器店で働くようになりました。暗い、暗い、そんなイメージしかなかったですね。レッスン室にピアノがあって、ぼくはひとりピアノを弾き始めます。あこがれのピアノに触れることができたのです。






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<ぼくは17歳>
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 手元に撮られた写真のデジタルサイズがこの小さいのしかないので、このイメージを掲載します。学生服にコートを羽織った写真は九州へ修学旅行の行きしで関西汽船の別府行きの船のデッキで撮ってもらったもの。かろうじて「そなちね」と読めるガリ刷りの紙は個人詩集の一号と二号、三号の部分、というところですね。ともかくも、高校二年生になって、なにかから逃れるようにして受験勉強に入った春の終わりごろ、吹奏楽部をつくるのでやってくれませんかと言われたのです。音楽部にいた梶谷君だったか(かなり若くして亡くなられたと聞きます)です。その気になって、吹奏楽部創部のために、奔走する。創ってメンバーを集めて練習をして文化祭に間に合わせる。そんな切迫した日々のスケジュールで、勉強はそっちのけで、没頭します。

 高校時代の数年間は、いま思いだしても暗いイメージでしか思いだされません。時代が暗かった、なんて思いもあるけれど、精神的に、今なら心的に、冷めて荒涼とする原野に放り出されたような気分だったと思えて仕方がないところです。何事かに取りつかれると、夢中になる性質のようで、それは恋においてもそのような傾向があって、夢中になるというより心冷たくさせられてしまって、街の中を彷徨していたように思います。片思い、深く、深く、片思い、だったのだろうか、ほんとうに、深い初恋を体験するとき、その子と逢引したじゃない。手を握るとかそういうことは考えられなかったけれど、男子の16歳、17歳なんて心は子供です。いや、女子の方が大人びているといえばいいのかも知れない。暗い裸電球に傘がかぶせられた街灯に照らされた嵐電の駅。夕刻に電話があって会えるというのでバイクでいくと、その子は向こうから来る電車に乗っていて、ホームに降りてきて、暗い夜道を10分間、歩くだけの逢引でした。

 そのことは誰にもいえなくて、人生、ここまできてようやく、その日々の概略を、書き記すことができるようになったところです。詩集を編集するのは吹奏楽部の立ち上げが終わり、文化祭で初演が終わったのちの出来事で、期末試験の前日に、生徒会室の謄写版で鉄筆原紙にローラーをかけて、摺りあげ、ホチキスで止め、そういえば一部五円でクラスの女子に売りつけました。買ってくれましたよ、ぼくの詩集、きゃあきゃあ言ってたみたいな記憶がよみがえってきますが、内心は冷え冷えのこころを少しだけ暖めてもらえたのかも知れません。吹奏楽部は、ほぼ一人で立ち振る舞い、生徒会の臨時総会を開いてもらって、生徒一人当たり月額10円、年額120円を楽器購入のために集める案を、強引に通してしまった記憶がよみがえります。何もないところからプロジェクトを立ち上げ成功させた最初の体験が、ここにあります。心の想いとは裏腹に、でしか事が起こせなくて、必死になって頑張れないようです。その心の想いとは、いつも成熟しない恋心ですね。




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