中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の自伝を書いていきます。すでに収録済みの寫眞帖ブログ、撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

カテゴリ: 自伝

800siryo1302200024
-12-
<高校卒業までを総じて>
 最近、同窓会が頻繁に行われるようになりました。高校の同窓会は四年に一度開催されていたのが、古希を迎えて二年ごとに行うということになりました。中学の同窓会が三年ごとに行うということになり、小学校の同窓会が来年6月に行われることが決まりました。ぼくは還暦を過ぎた時から、同窓会に出席するようにしました。いい思い出も気にくわない思い出も、それらすべて含めて、昔の学友と交われるということに楽しみを抱くようになったのです。生きていることの証し、出席できることの健康、半数以上が消息わからず、わかっていても同窓会には出席してこない。さまざまな理由があるとは思うが、出席できる境遇にいるということを、自分に認めてあげて、ラッキーな人生だと思いたい、と思うのです。外歴と内歴が並行して、生まれてから高校卒業までの19年間、4月生まれだから、卒業するとまもなく19歳になったのでした。

 まあね、当時のことだから、佐賀のがばいばあちゃん、じゃないけれど、よく似た環境だったと思います。貧乏といえば相対的に貧乏だったけれど、地域の、もっと限定すれば小学校区のなかでの相対的貧乏度はといえば、給食費が払えなかったから、給食があたらなかった、とうことはなくて、給食費を払ってもらっていたし、学習の本とかも買ってもらっていたから、子供には不自由させないように、親が配慮してくれていたのかも知れません。徹底的に貧乏ではなかったけれど、それなりに貧乏だったと思います。父は建具職人で、個人営業の工場へ建具を作りに行っていました。母は、理容師の免許を持っていたから、散髪屋で仕事をしていました。立命館大学の理髪部で仕事をしていて、夏休みなどには、よく広小路の研心館の地下へ遊びに行った記憶があります。1950年代半ば、昭和30年ごろでしょうか。母の事でいえば、年末には、別の散髪屋さんへ助っ人に行っていました。土日とかにも助っ人に行っていたのか、母の仕事している処へ行って、小学校の五年生位だったか、お金をせびった記憶があります。いくつかの助っ人に行っていた散髪屋さんのひとつに金さんの店があります。これはぼくの思想にも影響してくると思うので、別途、検証してみたいと思うところです。

 いつごろからか、母は、テキヤ、露天商をやりだしたのです。ぼくが小学校の中ほどから中学生のころ、まだやっていたかもしれません。いくつかの場所を覚えています。扱っていた品物も覚えています。三か所、北野天神さん、祇園八坂神社、今宮神社の御旅所。扱う品物、食べ物が主でしたが、何種類かやっていた記憶があります。節分のときですね、金太郎飴お多福飴、花見時には揚げた菓子、当てもんやってたましたね。父が作ったぐるぐるまわりの棒に糸で吊るした針。まわして針が当たった場所に、もらえる品物が書いてある、といった当てもん、です。自転車の荷台に箱を乗せ、そのうえで当てもんをする。当時、紙芝居があったけど、それの亜流みたいな自転車でした。屋台はテントを張る屋台で、天神さんでは電灯がつく場所、覚えているのは二の鳥居の傍でした。なにを売ていたんでしょうか、お正月には子供が煙硝ならして遊ぶ鉄砲とか、売っていたようにも思います。
(続く)




800kyoto0711220031
-11-
<ぼくは18歳>
 ぼくは四月生まれなので高校三年になってすぐに18歳の誕生日を迎えました。なにもかも、遠くの方へ行ってしまった感がありました。1964年のこと、昭和39年です。掲載した写真は、前年の文化祭でのステージ、吹奏楽部の初演舞台です。指揮しているのが中川で、演奏は嵯峨野高校の生徒と助っ人の蜂丘中学のブラスバンド有志です。このあと部長を後輩に譲って、ぼくはなにをしていたんだろう、17歳の後半、文学に興味を持って、文章を書きだすようになります。詩集の発行を経て、三年になって、弛緩してして、間延びしてしまった感覚を思い出します。すべてが終わったような感覚で、次につなげていけない、高校三年の夏には運転免許証を取りに四条のデルタへ行きました。この夏、書店で見た文芸春秋は芥川賞の受賞作品が載っていました。同時代の現代文学にふれる最初でした。受賞作品は柴田翔氏の「されどわれらが日々」、一気に読み、衝撃を受けます。内容はいまここで書き上げることを避けますが、自殺する学生、教授と関係する女子学生、その遺書、六全協のことは大学生になって知りますが、その夏は、けだるくかったるく時間を持て余したような記憶がよみがえります。

 大学に進学しようと思っていた二年生のとき、三年生になって突然大学生にならない、受験しない、就職する、という流れになって、決断しました。いいえ、この決断は、受験勉強していなくて、大学に受かりそうもなかったからです。ぼくのあたまのなかで大学といえば、京都大学、二期校では信州大学という考えがありましたけど、それは無理なことだと悟って、就職にしたから、もたもたした時間を過ごしていたのだと思えます。東京オリンピックがあった秋です。池垣先生のおうちに入り浸る男子学生がいて、その一人がぼくでしたが、池垣先生からは、頼りにされたけど、好かれてはいなかったように思う。というのも池垣先生は男色であって、ぼくは対象外だったと思うのです。名は伏せますが池垣先生の家で、服毒自殺を図った親友がいて、呼ばれて行きました。深い深い呼吸で眠っている親友を、唯一立ち会ったのがぼくだったと思います。狼狽される池垣先生をぼくは虚ろに励ましていたと思いだされます。

 夏が過ぎ、冬が過ぎ、卒業間際になって、ぼくの成績はどうしようもなく落第点で、補修を受けたら卒業の認定をするというので、ぼくは、そのときには、朝から学校へ行き、補修を受け、結果、卒業証書をもらいました。進学校で12クラスのうち11クラスが進学希望者だったようです。ぼくは就職組に入ったから、どんなお人がおられたのか、ぼくは学校へ行かない、いまでいえば登校拒否生徒、真面目だと自分は思っていたけれど、行為は不良学生の部類だったと思います。いやはや、淋しさしかなかったですよ。卒業式の日なんて、逃げて帰りたい気持ちでした。すべてがおわり、おわった、その虚しさですね。希望なんて見いだせなかったし、将来の自分なんて予想もできなかったし、目の前には、十字屋楽器店に就職する、という現実だけがありました。卒業と同時に、無償で十字屋楽器店で働くようになりました。暗い、暗い、そんなイメージしかなかったですね。レッスン室にピアノがあって、ぼくはひとりピアノを弾き始めます。あこがれのピアノに触れることができたのです。






800siryo1302200026
-10-
<ぼくは17歳>
I3000008
 手元に撮られた写真のデジタルサイズがこの小さいのしかないので、このイメージを掲載します。学生服にコートを羽織った写真は九州へ修学旅行の行きしで関西汽船の別府行きの船のデッキで撮ってもらったもの。かろうじて「そなちね」と読めるガリ刷りの紙は個人詩集の一号と二号、三号の部分、というところですね。ともかくも、高校二年生になって、なにかから逃れるようにして受験勉強に入った春の終わりごろ、吹奏楽部をつくるのでやってくれませんかと言われたのです。音楽部にいた梶谷君だったか(かなり若くして亡くなられたと聞きます)です。その気になって、吹奏楽部創部のために、奔走する。創ってメンバーを集めて練習をして文化祭に間に合わせる。そんな切迫した日々のスケジュールで、勉強はそっちのけで、没頭します。

 高校時代の数年間は、いま思いだしても暗いイメージでしか思いだされません。時代が暗かった、なんて思いもあるけれど、精神的に、今なら心的に、冷めて荒涼とする原野に放り出されたような気分だったと思えて仕方がないところです。何事かに取りつかれると、夢中になる性質のようで、それは恋においてもそのような傾向があって、夢中になるというより心冷たくさせられてしまって、街の中を彷徨していたように思います。片思い、深く、深く、片思い、だったのだろうか、ほんとうに、深い初恋を体験するとき、その子と逢引したじゃない。手を握るとかそういうことは考えられなかったけれど、男子の16歳、17歳なんて心は子供です。いや、女子の方が大人びているといえばいいのかも知れない。暗い裸電球に傘がかぶせられた街灯に照らされた嵐電の駅。夕刻に電話があって会えるというのでバイクでいくと、その子は向こうから来る電車に乗っていて、ホームに降りてきて、暗い夜道を10分間、歩くだけの逢引でした。

 そのことは誰にもいえなくて、人生、ここまできてようやく、その日々の概略を、書き記すことができるようになったところです。詩集を編集するのは吹奏楽部の立ち上げが終わり、文化祭で初演が終わったのちの出来事で、期末試験の前日に、生徒会室の謄写版で鉄筆原紙にローラーをかけて、摺りあげ、ホチキスで止め、そういえば一部五円でクラスの女子に売りつけました。買ってくれましたよ、ぼくの詩集、きゃあきゃあ言ってたみたいな記憶がよみがえってきますが、内心は冷え冷えのこころを少しだけ暖めてもらえたのかも知れません。吹奏楽部は、ほぼ一人で立ち振る舞い、生徒会の臨時総会を開いてもらって、生徒一人当たり月額10円、年額120円を楽器購入のために集める案を、強引に通してしまった記憶がよみがえります。何もないところからプロジェクトを立ち上げ成功させた最初の体験が、ここにあります。心の想いとは裏腹に、でしか事が起こせなくて、必死になって頑張れないようです。その心の想いとは、いつも成熟しない恋心ですね。




800siryo1302200029
-9-
<ぼくは16歳>
 この写真って、高校入試のときに必要だというので写真館で撮ってもらった肖像写真だと思います。千本今出川の南西角にあった写真館で熊田写真館、いまは廃業されているけれど、まだ店構えは残っています。中学三年生ということですね。この熊田写真館の隣に寿司虎があって、ぼくは高校一年の秋ごろからこの寿司屋さんでアルバイトします。アルバイトといえば、中学三年生の夏休みには、衣笠市場の八百屋さんで一か月間アルバイトしました。日当300円で一か月9000円ほどもらったことを覚えています。そのアルバイト料をもって、そのときにはもう奥の三畳間で臥せっていた祖母セイさんに見せにいきました。アルバイトは、この八百屋が最初で、近くに大誠パン工場へ一週間ほど行きました。パン工場では、気持ちが耐えられなくって辞めてしまいます。

 感情多感な頃といえばそのような年頃、1962年か63年ごろですね。女子が気になる年頃でもあるわけですが、純情なもんですね。ほのかな、淡い恋心、言い寄られたり、こちらから言っていったり。でも、ぼくは片思いばかりですね。向こうから近づいてきた女子に、タエ子という名の女子がいて、この子はそういうことでいえば積極的だったのかも知れません。一緒にいることも多々あって、タエ子の家へ遊びにいきました。夏の八百屋でアルバイトしていた間、夜になると家へ遊びに行っていました。なんでだろう、女子ばかり三人姉妹の、タエ子は真ん中の子で、ぷっくら胸がふくらんでいるのが見えてしまって、見てしまったけれど、べつにそれだけです。そういえば手を握った最初の子であり妻以外には最後の子がこのタエ子、一回切り、どうしたはずみか握っていたモノを奪い返そうとして、握ってしまったのです。このタエ子は、その後、中卒で就職して、まもなく琵琶湖で溺れて死にました。

 高校生になると、白梅町から嵐電に乗って常盤まで、嵯峨野高等学校です。京都の公立高校は学区制で、ぼくは山城高等学校へ入学の予定が、嵯峨野高校になってしまったのです。でも、住めば都という諺があるように、そこへ入学したからこそ、たぶん、吹奏楽部を創部して、個人的には詩集を発行して、強い恋をして、冷え冷えとする青春のイメージです。大学進学を思っていたけれど、三年生の秋になっていたと思う、就職する、と進路部の就職係の先生に申し出ました。音楽が好きだからということで、十字屋楽器店の技術部を紹介してもらって、ピアノの調律をする目的で就職先が決まりました。大阪は心斎橋にあったヤマハの大阪支店に研修名目で三か月間所属することになるのでした。大学へ進学しなかった分、おおいに楽しめたかといえば、まったくそうではなくて、淋しさのなかに日々を過ごしておりました。唯一の希望は彼女がいたことでした。


120siryo0502040053
-8-
<少年の頃>
 昔懐かしい人にはわかると思いますが、これは昭和30年頃、1955年頃だと思います。父が撮ってくれた写真です。覚えています。撮影したときのこと、おぼろげというかかなりはっきりと思いだします。というのもこの写真を折りに触れて見ているからでしょうね。少年画報という少年向け月刊雑誌を抱いているのがぼくで、ぼくらの雑誌を持っているのが弟、後ろに少年が立てかけてあります。贅沢といえば贅沢な、兄弟で三冊も月刊雑誌を買ってもらったんですね。四畳半一間に、親子四人が生活していました。食べる場所であり、寝る場所であり、憩いの場所であり、いまなら学生の四畳半一間、そこに親子四人が生活している。おおむね、ぼくがいたこの界隈は、そんな生活空間だったと思います。

 ぼくが育ったこの地域を毛嫌いしてきた理由は、たぶん、近所の年上の男連中からいじめられていたからです。この地域、いまでこそ、京都のスポットとして観光客が来たりするようになっていますが、その当時なんて逃げ場のない袋小路の奥の奥といったイメージで、どうみたって下層生活者のイメージですよ。たぶん、貧乏だったから、親は無理して、子供にこんな雑誌を買ってくれたんだと思います。ほかの年上の奴らは、買ってもらえなかったから、ぼくが見る前に、ぼくの本を取り上げて、むさぼり読んでいたのです。それから祖母が駄菓子屋を営んでいて、目の前、お菓子に囲まれているぼくが羨ましかったのではないか、そのことを理由にねちねちと苛めるのでした。まだ小学生の子供で、菓子を持ってこいと脅されたことはありませんでしたから、のちのち不良になっていく手前だったと思います。最近はもう思わないが、よくも自分が不良の真似事はしたけれど、本当の不良にはならなかった、と思ったものでした。

 いや、なにが言いたいのかといえば、のちになって学生運動を経て、釜ヶ崎へ行くようになり、今に至っても人間救済のイメージを抱いていて、宗教家ではなくて芸術家の領域で、ことを仕掛けていく原動力になっているのだと思います。負けてたまるか、やられたらやりかえせ、なんか、そんな詩句が口ずさみたくなる感じで、やらないといられないんですね。自分研究の道筋で、自分の生い立ちを世間の枠組みの中で語っているところです。でも、こういう言い方はなんだけど、心は腐っていないぜ、心は清らかだぜ、正義の味方だぜ、なんてうそぶいていて、だました奴らにまけてたまるか、それが本音です。



このページのトップヘ