中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の寫眞と文章。撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

カテゴリ: 自伝

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 大学へ行くようになるのは1968年、入学後すぐに22才になっておりました。三年遅れで、入学できたのは京都の立命館大学、二部文学部でした。この大学には、高校の後輩になる人達が何人かいました。後輩が先輩になるというなかで、ぼくは学友会といったか学生自治会へ連れていってもらって、紹介してもらって、活動家になっていく枠組みが与えられたように感じます。ところが、当時、そこは民主青年同盟員が多数派の自治会で、なぜかぼくは違和感を抱いてしまいます。当時の学生運動のことを説明しないといけないのかも知れませんが、三派全学連とか、反共産党系の学生組織が、目立つところでマスコミに取り上げられていました。高校の同級生で大学生になっていた友達は、同志社大学の学生で、同志社の学生運動組織は反日共で、ぼくが加わっていた議論の場も、だから、。必然的に反日共派ということになっていたのです。この思想を持ったぼくが、そのまま立命館の自治会で話をしたものだから、反目され、放り出されることになります。知りませんでした、党派が対立して、反目して、運動を潰しあいするということを、意識していませんでした。時系列的には、京都での一連の出来事を経験して、それから東京へ行くことになって、翌年1969年10月21日を経験して、ぼくは京都へ戻ります。

 結局、中途半端なまま、主流の共産党系自治会からすると、反対派ということで脅しをうけたり、囲まれたり、暴行は受けませんでしたが、嫌がらせをされる立場になります。秋の頃、法律書が専門の出版社に就職が決まって、京都で起こった一連の学生デモを見ることになります。東大の安田講堂が封鎖されていたころの話です。東京勤務することにしてもらって、大学は退学ではなくて、休学することになりました。東京の社屋は、本郷にありました。東大の正門と赤門の間くらいの、東大とは向い合せの小さなビルでした。東京に住居を置くおおきな目的は、小説家になる夢を実現するためのことが、第一の理由です。憧れの東京、そのイメージです。神田に取次店があって、配本のための本をライトバンに積んで納品待ちの時間、そこからニコライ堂が見えました。神田神保町は書店街ですが、小さな取次店もありました。営業にいたぼくは、それらの取次店へは何度もいきます。気分は、まさに中心にいる、という感覚でした。労働組合をつくる話が持ち上がり、議論に参加することになりました。会社単位の連合ではなくて、出版労連でしたか、個人でも入れる組合で、会社には秘密で加入して、紅(くれない)分会と名乗ったように記憶しています。

 1969年は、各大学で学生運動が盛り上がり、秋には大きな統一デモも呼びかけられたりしておりました。国際反戦デーを名目に10月21日、セクト各組織は、大規模な決起を呼びかけていました。当日は勤務していて午前中には神田の書籍取次店へ納品にいきました。白っぽいライトバンの車で、館だ界隈、機動隊の検問があって、身分証明書と積まれた新刊本を検分され、そのまま何事も起こらず、仕事を終えます。ラジオは、パニックに陥る首都東京の交通機関の状況や道路状況を生々しく放送しています。まだ勤務中だったぼくには、切羽詰まった気持ちになってきたのを覚えています。暗くなって、ぼくが赴いたのは明治公園で、ここはべ平連のデモの出発地でした。逮捕されたときの心得、メモ書きが配られ、ヘルメットは被っていない一般学生、ノンセクトの学生、三千人が集まったと記録されていると思います。目的地は水道橋、明治公園から水道橋までのデモです。新宿の方では、ヘルメット集団が国鉄を動かさないようにしていたとか、デモで機動隊と衝突したとか、いまもって話題豊富です。水道橋の方は、さいごに渦巻きデモがなされ、機動隊に排除されるとき、逮捕者が何人も出た現場を、目撃しています。
(掲載の写真は、1974年ごろ、読書会してた漱石研究会のメンバーとの記念写真です)


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 高校を卒業するのが1965年3月で、卒業と同時に就職先の十字屋楽器店へいきます。仕事の内容は技術部でピアノの調律を学ぼうと思っていたところでしたが、当時、ヤマハエレクトーンが発売されていて、修理調整係がいないということで、エレクトーン技術者になることになったのです。三か月の研修は、ヤマハの大阪支店でした。1965年当時は、心斎橋の商店街のなかにヤマハの店があり、その二階がヤマハの大阪支店、オフィスです。京都の自宅から、京阪電車で淀屋橋、そこから地下鉄で心斎橋へ、大丸の横から心斎橋筋のアーケードに上がって、戎橋の方へ行ったところがヤマハでした。スーツを着て、ネクタイをしめたサラリーマ集団のなかへ、制服のスーツを着た女子の方たちがいらした。ぼくのサラリーマン経験といえば、この研修期間三か月です。もちろん、その後も出版社や郵政省の公務員として働きますが、大手企業のサラリーマンは、ちょっと違うように思えます。

 船乗りで通信をやっていて、転職で陸へあがりヤマハに来たという方、佐藤さん、当時27歳だといっていましたが、この方と同行することが多くて、エレクトーンの原理を、いろいろと教わりました。ぼくは中学生のころ、アマチュア無線に興味があって、その後断念したけれど、船舶無線の世界の話には興味をもちました。また、真空管からトランジスタの時代になって、その構造と原理の話を教えてもらいます。コンデンサーとバリコン周波数変調の組み合わせで、音色と周波数が変えられる、などの話、ラジオ技術の基本ですかね、それを教わりました。集積回路という話も、いろいろ聞かせてもらって、実際にエレクトーンの修理は、当時はハンダゴテ、でハンダを溶かして、接着する、そんな技術だったと記憶していますが、集積回路は、もっと小さくなって、回路ごと交換するようになる、とか電気・電子技術の基本を教えてもらったと思います。ぼくのなかで、いちんん明るい経験だったかも知れません。

 ヤマハでの研修が終わって、京都の楽器店の地下の技術部で、ひとりエレクトーン技術者、けっこう自由気儘にやらせてもらっていたと思います。でも、それは、19歳の男子、かって大学進学を考えてきた高校時代、なにがあったにせよ、進学を断念したけれど、友達が大学生、むくむくと大学生になりたいとの願望が出てきて、二年で辞めることにしました。すでに二十歳になっていましたから、浪人三年目くらいの感じで、楽器店を辞め、予備校に通う浪人生になったのです。その後結婚することになる彼女がいましたし、入学するためのお金も用意できたところでした。目指すは、早稲田の文学部。今から思うと、無謀極まりないわけですが、京大は無理だろうから早稲田、なんて、高校時代には不良してたし、受験勉強してないのに、受かるわけないのに、そう思っていました。

 心理はとっても複雑だった気がします。具体的な相談相手はいません。親や親戚の人には、本音は言えなかったし、やりたい放題にやりたいことをした、とはいっても興味が移っていくし、仕事もすぐに辞めてしまう浮気者、と思われていたようです。19歳から二十歳になる前、寒かったのを覚えているから、秋から冬、金閣寺の北にあった三畳一間のアパートに住みました。友達に北村君という奴がいて、彼が紹介してくれて、住むようになったのです。北村君のことは、別途、話をしないといけない、といま気がつきます。寒い夜、アパートへ帰る途中で千本北大路にあった食堂で、ご飯を食べる。自炊はしていなくて、外食でした。でも、体調壊して、翌年の夏前には、実家に戻ったように思います。実家とはいっても別棟になっていて、バラック小屋でしたが、そこに弟と住むようになります。

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 半年ほど前に、ここに自伝を連載していて、大学生になって、文学のはなしをしているところで、止まってしまいました。今年にはいって、それからの半年、気持ちをフォトハウス表現塾の立ち上げに向けていたので、自伝に手が回らなかったと思うのです。自伝もそうですが、関西の写真史、全体の写真史、それらも途中になっているところです。ということで、自伝を、小説家になりたい、というところから書いておこうと思います。

 高校の時の友だち数人と、文学のサークルを作っていました。ぼくは浪人生で、岡崎にあった京都予備校へ通っているときでしたから、もう十字屋は辞めていて、受験勉強をしていた。長澤、大田、小田、塚本、喫茶店で集まって、文学論議して、それなりに小説家になっていく卵みたいな、そんな感覚、そんな気分でした。年号でいえば1967年です、昭和42年です。専用の原稿用紙を作ろう、ということになって、縦25字横20行の原稿用紙を五千枚刷ってもらって、各人千枚ずつ、持ちました。ぼくの万年筆はパーカーで、かなり太字でした。関西文学っていう同人誌があって、そこの会員になっていたけど、例会には参加したことはありませんでした。

 かっこだけでも小説家。田端、日暮里、なんて地名のところには、小説家が沢山いらしたようで、私小説作家でしたか、文章を読んでいて、東京のそのあたりへの興味が、湧いていました。浪人時代に何度か東京へ行きました。国電のお茶の水駅界隈へ行きました。学生の数が、京都とは比較にならないほど、沢山いました。国電駅の改札前は狭い道路で、喫茶店が並んでいた記憶があります。そこへ入って、東京の味、東京で学生になったら、こんなことできるんや、そんなことを思った記憶が、よみがえってきます。実際に、ぼくが東京の出版社に勤めるようになるのは、それから一年ほど後になります。東京へ行って生活する、いわゆる上京して小説の勉強をする、ということが始まります。

 1967年から1968年、ぼくは大学受験を控えた浪人でした。お金は、失業保険をしばらくもらっていたし、二年間で貯めたお金がありました。お金といえば、お金を貸してあげて、返してもらえなかった話をします。仲の良かった友達に、五万円程はいった通帳を預けて、ヤマハの研修に入って、帰ってきて通帳を返してもらったら、残高がほとんどなかった、というのがひとつ。友達のお父さんが、家業で染色の仕事をされていて、ぼくが大学へのために貯めていたお金の話をしていたのです。そのうち、そのお金を新規事業に使うので、貸て欲しいと言われて、貸しました。もちろん借用書も、担保も、何もなく、現金で、ハイと渡したのが20万円。いまでいえば200万円相当の金額です。これは、全額返してもらえなかったけれど、大学入学が決まってたしか五万円返してもらいました。

フォトハウス表現研究所のHP
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<工学と音楽と文学>
 当時、ヤマハのエレクトーンが発売され、それの修理や調整が行える技術屋がいないということで、十字屋楽器店技術部のエレクトーン担当ということになりました。電子楽器ではハモンドオルガンが先駆者で、これは真空管を使っていて、エレクトーンはトランジスタを使って作り上げられた楽器でした。電子のことは興味がありました。高校進学のときに工業高校の電子科を受けたいと担任に申し出たときには、高校は普通科にして、大学で履修しなさいと指導されて普通科へ進学したところでした。高校一年から二年のころの進学気分では工業系の大学学部を狙おうと思って、国立系の大学をリサーチしていたと記憶しています。そういうこともあったから、エレクトーン技術者をいわれたときには、ピアノ調律師よりも乗り気になっていました。心斎橋にヤマハの大阪支店があって、そこへ三か月技術見習いにいくことになります。高校新卒すぐの職場はヤマハ大阪支店のエレクトーンのメンテナンスを行う技術部でした。そこにいらした先輩で船乗りをして無線をやっていたという方から、電子回路のことを教えてもらっていました。1965年のことですから、集積回路という話がとっても新鮮でした。そうして浜松のヤマハの工場で研修があるというので二週間の合宿。技術者証をいただきました。ナンバーは3、東京の楽器店、大阪の楽器店、そうして京都の楽器店は三番でした。十字屋へ帰ってきてデスクをもらいましたが、なにか別格扱いしてもらっていたと思います。向かいのリプトンで接待として食事したらサインでOKという扱いでした。週に一遍ぐらい大阪へ行っていたように思います。

 どうしたわけかエレクトーンと音楽の方へ進む手筈が、文学にめざめることになります。数年の事なのに工学系大学なんてもう蚊帳の外、音楽大学で学ぶというのも夢の夢と消えていて、文系の大学学部へ進学という流れになっていました。大学で学ぶということが憧れとなってきたのです。どうしても大学に進学したいと思ったのです。高校時代の友だちは、ほぼ大学生になっていて、その後妻となる彼女も大学生で大阪にいた関係からも、進学の方へと向いていたのだと思います。十字屋には二年いて、辞めました。それから一年の浪人生活が始まります。1967年のことで、世間とはいっても学生運動レベルでいえば早稲田が学費値上げでもめていたときでした。その早稲田へいきたいと思っていました。予備校は岡崎にあった京都予備校で勉強することで席を置きましたが余り通ってなかったように記憶しています。早稲田の演劇、同志社の美学、立命館の文学、志望の学校学部はこういうところでしたが、一年後には立命館の二部文学部にだけ合格させていただいた。受験勉強なんてほぼしていなくて、成り行きで受験して、受かるはずもなく、このあたりから考えが甘い自分がありました。浪人しているときには、受験参考書を紐解くというより小説を読み漁っていたようです。文学歴は別途書き残しておきたいと思うところですが、、とくに太宰治の小説には惹かれていきました。もう半世紀以上もまえの話なので、その当時の文学といえば大江健三郎さん、柴田翔さん、高橋和巳さん、とかとか現代文学を読み、外国文学ではカミュとかサルトルとか、でした。
(続く)


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<19才から20才>
 高校を卒業して、十字屋楽器店に就職します。なんか暗いイメージしか思い出されてこないんですが、自分が暗かったのかも知れません。就職するなんて、高校三年の秋まで、思っていなかった。漠然と大学へ行きたいと思う気持ちと、勉強してないから行けるはずないやろ、との思いが交錯していて、入学金やら学費のことも工面つかない現状もあって、就職する、と決断して就職部の先生(名前忘れた)に告げたら、即座に、十字屋がいいと推薦してくれてピアノの調律がいい、といってくれて、技術部を紹介してもらえることになって、面談にいって、森部長、受け入れてもらえて、就職が決まったというところでした。ピアノの調律を希望していたけれど、ぼく自身はそんなに熱心な気持ちではなく、職人芸みたいな技術屋になることには、むしろ嫌悪感がありました。

 別の話ですが、西陣にいることから、染物や織物が身近にあって、織屋になることなんかは毛頭考えられなくて、でも手に職、ということでロウケツ染めのロウを入れる工房みたいなところに行ったけれど、数日しか続きませんでしたし、染の型紙をつくる人のところへ入門とのことも、まったく背筋がぞ~っとした記憶があります。何を思っていたんだろうか、いま記憶を辿っているけど、音楽の場合だと指揮者になりたい、そう思ったように思えます。ブラスバンドを作って、指揮をして、いやいや、中学生の時の市中パレードには、先頭の指揮棒を振る指揮官やってた、ですね。そんなこんなで、音楽が目の前にある芸術分野でした。

 音大へ行きたいという思い、十字屋楽器店で仕事をするようになったことから、憧れるようになります。どうしたら音大の学生になれるのか。ピアノが必須、ソナタが弾ける必要がある、そういうことでピアノを習いだします。ええ、バイエルからはじめました。十字屋の三条本店の二階が個室になっていてレッスンできました。勤務が終わってから内緒で入り込んで、練習していました。週に一回、茨木の店でピアノ教室が開かれていて、そこで受けるようになりました。中学のブラスバンドの先輩小林さんが店長をしておられて、お世話になったのです。先生は京都女子大のピアノの先生で男の先生、小学生のレッスンが終わったあとの最後の生徒でした。(続く)


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<高校卒業までを総じて>
 最近、同窓会が頻繁に行われるようになりました。高校の同窓会は四年に一度開催されていたのが、古希を迎えて二年ごとに行うということになりました。中学の同窓会が三年ごとに行うということになり、小学校の同窓会が来年6月に行われることが決まりました。ぼくは還暦を過ぎた時から、同窓会に出席するようにしました。いい思い出も気にくわない思い出も、それらすべて含めて、昔の学友と交われるということに楽しみを抱くようになったのです。生きていることの証し、出席できることの健康、半数以上が消息わからず、わかっていても同窓会には出席してこない。さまざまな理由があるとは思うが、出席できる境遇にいるということを、自分に認めてあげて、ラッキーな人生だと思いたい、と思うのです。外歴と内歴が並行して、生まれてから高校卒業までの19年間、4月生まれだから、卒業するとまもなく19歳になったのでした。

 まあね、当時のことだから、佐賀のがばいばあちゃん、じゃないけれど、よく似た環境だったと思います。貧乏といえば相対的に貧乏だったけれど、地域の、もっと限定すれば小学校区のなかでの相対的貧乏度はといえば、給食費が払えなかったから、給食があたらなかった、とうことはなくて、給食費を払ってもらっていたし、学習の本とかも買ってもらっていたから、子供には不自由させないように、親が配慮してくれていたのかも知れません。徹底的に貧乏ではなかったけれど、それなりに貧乏だったと思います。父は建具職人で、個人営業の工場へ建具を作りに行っていました。母は、理容師の免許を持っていたから、散髪屋で仕事をしていました。立命館大学の理髪部で仕事をしていて、夏休みなどには、よく広小路の研心館の地下へ遊びに行った記憶があります。1950年代半ば、昭和30年ごろでしょうか。母の事でいえば、年末には、別の散髪屋さんへ助っ人に行っていました。土日とかにも助っ人に行っていたのか、母の仕事している処へ行って、小学校の五年生位だったか、お金をせびった記憶があります。いくつかの助っ人に行っていた散髪屋さんのひとつに金さんの店があります。これはぼくの思想にも影響してくると思うので、別途、検証してみたいと思うところです。

 いつごろからか、母は、テキヤ、露天商をやりだしたのです。ぼくが小学校の中ほどから中学生のころ、まだやっていたかもしれません。いくつかの場所を覚えています。扱っていた品物も覚えています。三か所、北野天神さん、祇園八坂神社、今宮神社の御旅所。扱う品物、食べ物が主でしたが、何種類かやっていた記憶があります。節分のときですね、金太郎飴お多福飴、花見時には揚げた菓子、当てもんやってたましたね。父が作ったぐるぐるまわりの棒に糸で吊るした針。まわして針が当たった場所に、もらえる品物が書いてある、といった当てもん、です。自転車の荷台に箱を乗せ、そのうえで当てもんをする。当時、紙芝居があったけど、それの亜流みたいな自転車でした。屋台はテントを張る屋台で、天神さんでは電灯がつく場所、覚えているのは二の鳥居の傍でした。なにを売ていたんでしょうか、お正月には子供が煙硝ならして遊ぶ鉄砲とか、売っていたようにも思います。
(続く)




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