写真日々

中川繁夫の写真日々。釜ヶ崎、白虎社、京都、の写真を収録しています。

カテゴリ: 自伝

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 1979年12月に京都の聖家族という飲み屋で「ドキュメント釜ヶ崎」のタイトルで、個展を開きました。たぶん、この個展開催がターニングポイントになったように思います。というのも、このとき稲垣浩釜日労委員長を呼んで座談会を開催したのです。当時は、プレイガイドジャーナル誌が関西の情報誌として若い世代に読まれていて、ここにイベント情報として掲載されたのです。事前申込制でしたが、当日、テレビモアというビデオグループの取材を受けるということになりました。岡崎純さんと瀬川恵美さん、この二人に知り合ったのは、このとき、テレビモアを結成していて、座談会を取材してくれたからでした。
「わたし、釜ヶ崎で、ビデオ作品を作っています、ぜひ、見てほしいです」
取材のあと瀬川さんの申し出で、年が明け、1980年の初めに、テレビモアの事務所兼住居を訪れます。

 ところで、個展を開催した聖家族という飲み屋のことを、少し記しておこうと思います。というのも、ぼくにとっては貴重な場であり、のちに「カフェ&プレス」のイメージ原点としてあるからです。京都河原町、丸善ビルの裏にあたる路地に、その「聖家族」がありました。聖家族とはバイブルに出てくる名称で、堀辰雄の小説にもあったから、名前に親しみをおぼえます。当時の文化の潮流でヒッピー文化という枠で語られることがありますが、この飲み屋「聖家族」は、その文化を体現するかのような場所でした。釜ヶ崎つながりから、聖家族を知り、主宰者の石山さんと懇意になり、ここで写真展を開くことになり、続けて「リトルギャラリー聖家族」として、昼間の空き時間にギャラリー機能を持たせました。写真の世界で、東京では1976年ころから自主ギャラリー運動が起こっていて、それの関西版とでもいうような枠組みを試みたのです。実際には半年ほど運営できました。1980年2月から8月まで。いくつかの写真展とビデオ上映などのイベントが組まれました。月刊の聖家族通信を、ぼくの手元で発行しました。(続く)


 

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 写真は聖家族で個展中の中川繁夫(右)と石山昭(左)、1979年12月、中川のカメラでだれかに撮影してもらった一枚です。石山さんは、この聖家族の主宰者で、夫婦と子供といっしょに山科のお寺に住まっていると言っていたのを思い出します。ぼくがこの店を最初に来たのは、釜ヶ崎で知り合った若い人が紹介してくれたと記憶しています。この石山さんからかなり強い信頼を受け、意気投合して、ここで壁面いっぱいの写真展を開き、リトルギャラリーとして機能させていきたいとの話になりました。
 
 フリースペース「聖家族」通信をペーパーで発行することにして、その形式は月刊、毎月20日発行、100円、発行所は聖家族。1980年2月20日発行で創刊号には、<フリースペース「聖家族」開設のご案内>を載せていて、開設の趣旨を書いています。・・・・ジャンルにこだわらず、各分野の自主的な発表の場として、利用していきたい・・・・旨が書かれてあります。この年の3月は、中川繁夫/釜ヶ崎写真展パート2、劇、フィルム、の三つ。会員を募集して、会費は月200円としましたが、数人が会員になられたと記憶しています。4月には写真展「南大阪1979・冬」自主管理の現場から-と題した写真展、ビデオ・コミュニケーション「ビデオ・イン」、森伸朗写真展「ガイコツ人」セルフポートレート-この三つが展示イベントとして企画されました。こうして聖家族通信は7月まで、5号を発行して、飲み屋の聖家族が閉店するにいたって、終わりました。



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 数年前から。フィルムで撮った写真をデジタルデーターにするために、スキャンしているところです。写真人生なんて言葉があるとすれば、自分の人生をそのように言い当てることも可能かと思っています。でも、実際に、自分の過去を振り返ってみて、十代のころから文章を書くことに意味を見出していたことを思うと、むしろ文学人生という方がいいかもしれない、と自分では思っているところです。でも、そういう〇〇人生なんていう言い方は妥当ではないと考えます。揺れ動きます。心の関心事とか、心の在り方とか、揺れ動きながら時の中で行ったり来たり、立ち往生したり前へ進んだり、後退したり、そういうことを繰り返しながら、年月を経過させてしまうのです。もはや古希という年代に入ってしまって、けっこううろたえてしまって、年甲斐もなく若さぶって、ことをなそうとしている。この自伝だって、自己顕示欲の一環で、自画像、読む自画像、だといえます。

 スキャンしているフィルムの中で、ここに載せた一枚の写真があります。特別に、ぼくと関係があった人かというと、そうではなくて、この物語は達栄作さんの関連で、達さんといっしょに撮影した高校生のふたり。場所は、余呉湖の湖畔、1977年の夏、だったかと思われます。女子の名前は伸子、男子の名前はわからない。この伸子さんの男友だちで、モデルになって撮影した男女です。ぼくは達さんの助手として、余呉湖撮影に同伴したものでした。写真に撮るテーマとか、いやはやテーマを決めて写真を撮る、というそのことが、わからなかった頃です。小説を書こうとしていた。でも、そのことが気持ち的にできなくなってきて、日常生活のなかに家族の写真を撮る、ということから関わりだした写真との関係です。年齢としては20代の終わりごろです。見よう見まねで、撮影に連れて行ってもらって、そこで撮る。撮ったものを例会の場で並べて、意見を聞く。そのうち、その写真に順位がつけられ、ほかの人が撮った写真と比べられる。



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 1980年になってからの話しですが、聖家族で釜ヶ崎の個展をおこなったときに来てくれたビデオグループ、岡崎純くんと瀬川恵美さん、この二人にはたいへん世話になります。とくに瀬川さんは、釜ヶ崎でビデオカメラで労働者の人たちを記録しているということから、懇意になっていきます。岡崎純くんは、すでに白虎社をビデオ作品として撮っていたと記憶しています。ぼくが、釜ヶ崎取材から白虎社取材にいく橋渡しは、この二人から誘われたといえると思います。白虎社の写真は、聖家族の壁面に張られていました。ぼくが最初におとずれたときには、張られていたと記憶しています。その時まで、東寺、暗黒舞踏と呼んでいたジャンルのパフォーマンスがあるなんて、知りませんでした。ぼくの白虎社への興味は、釜ヶ崎への興味と同じ地平になりました。イメージとして、釜ヶ崎は社会のヘッジで、アウトサイドになるところです。そのことでいえば、ぼくのなかで、白虎社、暗黒舞踏の領域は、アウトサイドに位置するように感じられたのでした。取材に入ります。岡崎くんと瀬川さん、この二人と共に夏の合宿に同伴することになります。

 彼らは天王寺区の高層アパートの一室を事務所にしていて、ビデオカメラを使い、シンセサイザーを使い、レザー光を飛ばす技術を使って、新しい舞台をつくることができるグループでした。そのオフィスになっている事務所へ、釜ヶ崎取材の帰りに、立ち寄って、いろいろと歓談しました。京都では、聖家族を自主ギャラリーとして運営しだしたところで、彼らも賛同してくれました。ちょっと言いにくいことですが、写真を撮っていた連中は、その自主ギャラリーのムーブメントには、なにかと難色を示して、参加してきませんでした。ともあれ、自分たちの作品を発表する場所としての自主ギャラリー運営は、関西にいたメンバーにとっては魅力ある話ではあったはずなのに、です。岡崎くんらのグループが、新しい時代の潮流だとして、作家の小松左京さんの信望をもらい、ジョーシンの売り場管理するという名目で月額50万円の契約が成立しました。そこでビデオグループの入居先を、長堀橋のマンションの一角を借りることになり、念願だった自主ギャラリーの開設にいたるのでした。名称は「ザ・フォーラム」写真展示とビデオや映画の自主上映場所として、機能し始めることになります。

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 1980年には、聖家族を拠点にしたフリースペース運動を行いますが、その広報誌として発行したのが「フリースペース聖家族通信」でした。この年、8月に聖家族の存続が立ちいかなくなり、フリースペースも休むことになりました。手元では、このフリースペース聖家族通信を「映像情報」にあらため創刊しました。「映像情報」の創刊は1980年8月1日付で発行していて、新しい映像の評論理論誌と標榜しています。まあ、大袈裟なといえば大袈裟な意思表示ですが、その頃は、一方で「季刊釜ヶ崎」の編集にも携わっていましたから、そのことの必要性も考えていたことでした。ぼくの雑誌編集発行ノウハウは、それより10年前に文学同人誌「反鎮魂」のグループに参加したことの経験からだと思えますが、1979年12月には「季刊釜ヶ崎」を創刊しているので、それの関連で「映像情報」が生むことができたと思えます。孤立無援、的な感覚でした。なぜ、そうなのか、そういう思いなのかということについては、別の機会に譲りますが、1969年ころの学生運動の末裔で、それらの企画が生まれ実践しなければいけない、と思っていたと思えます。この年、協賛者はビデオの岡崎くん瀬川さん、気持ちの上でもたいへんお世話になったと思います。

 1980年ごろだったと思います。アサヒカメラの誌上に「いま!!東松照明の世界展」という巡回展企画があることを読みました。それの大阪展を実行委員会があるというニュースを知ったのが1981年、記憶を辿って、若干の資料をつないでいくと、この1981年の秋に集まりがありました。連絡があって、出向いたところは、大阪写真専門学校(現在のビジュアルアーツ大阪)でした。この集まりで、向こうから声をかけていただいて、のちにいくつかのイベントを実行するメンバーと出会いました。そのなかに畑祥雄さんがいらして、ぼくのことを知っているといってもらって、京都のギャラリーDOT(どっと)の岡田悦子さんを紹介してもらいました。そのとき、畑さんからシンポジウムができないかとの発案があって、それを真に受けて、ほかの何人かのメンバーに呼びかけ、11月7日、京都は出町の「ほんやら洞」でシンポジウムを開催することになったのです。ほんやら洞の甲斐さん、その頃には知り合っていた新司さん、畑さん、岡田さん、それに中川の五人が呼びかけ人となりました。「Photo シンポジウム in Kyoto」に参加を、という呼びかけの手作りチラシを作って配りました。

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 この自伝を1979年12月に、飲み屋「聖家族」でおこなった「釜ヶ崎」写真展から起こしていますが、そこに至る前段として、ぼくに何が起こっていたのか、ということを検証しないといけないな、と思いだしています。ということで簡略すれば、ぼくが一眼レフカメラを買ったのは1975年の春ではなかったかと思います。1968年に立命館大学二部文学部に入学し、卒業まで七年かかっていて、その卒業が1975年だからです。学費を払わなくてよくなって、そのお金でニコマートを買った。そのように記憶しています。子供を撮るためといえば、一般的で常套句ですが、当初はそれでした。まだ文学というか、小説家を目指していましたから、文学への未練を捨てきれずにいて、写真を撮ることにのめりこむのは、それから一年ほど後、京都シュピーゲルという名前の写真クラブ、ぼくが入会したときは光影会と改称されていましたが、1976年の春頃だったでしょうか、1977年になっていた頃でしょうか。「’77冬の旅」というフィルムの束があるので、たぶん1976年ですね。最初は全日本写真連盟の個人会員となりました。カメラ雑誌が唯一の情報源だったぼくにとって、写真を撮っている人たちと交わっていくきっかけは朝日新聞社でした。

 写真は恩師達栄作さんとモデルになってくれた高校生の伸子さん、余呉からの帰りの列車のなかでの一枚です。ツーショットの写真は、これしかありませんが、彼女を撮った写真は、けっこう四季折々の場面であります。ちょうどフィルムスキャンしているいま、彼女があらわれてきています。達さんとのことを書いておかないと、ぼくの写真人生、わからなくなりますから、記述していきます。





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 いま、ぼくのなかで恩師と呼ぶ人があれば、達栄作さん、のちに智原栄作と名前が変わる方だろうな、と思います。カメラをもって、写真を撮りだして、年上の方と出会って懇意になった最初の人です。その当時、二科会の会友、光影会の会長、全日本写真連盟京都支部の役員、深草にあった自宅へ、かなり頻繁に訪問させていただきました。1976年から1978年まで、写真の基礎概念を考え、自分で作りだしていくための基礎を学んだように思います。教えられるというより、議論のような会話で、彼の撮影の方法が変わっていく過程そのもので、ぼくの写真に対する基本姿勢ができたように思います。最近になって、関西の写真史を概観するようになって、あの人もこの人もいらしたけれど、そこそこ深い交流があった先輩は、達栄作さんでした。もっぱらドキュメンタリーの方法とか、写真の在り方とか、写真のことがわからないまま、文学を学んだ概念を軸に、話をしていたように思います。このときの経験は、写真論とは、写真の外にある概念の組み立てである、といったようなことが直感として理解したように思えます。入門三年目で二科会関西支部に名を連ねさせてもらったところから、それらの関係を断ち切って釜ヶ崎へ向かったときまで、達さんには感謝します。縁というものはまわりまわって自分にかえってきます。その後においても様々な方と知り合って、深い議論や会話を交えた方には、感謝です。おおむね、深く関わった方というのは、この達栄作さんと1981年から三年間お世話になった東松照明さんでした。




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<少年の頃>
 昔懐かしい人にはわかると思いますが、これは昭和30年頃、1955年頃だと思います。父が撮ってくれた写真です。覚えています。撮影したときのこと、おぼろげというかかなりはっきりと思いだします。というのもこの写真を折りに触れて見ているからでしょうね。少年画報という少年向け月刊雑誌を抱いているのがぼくで、ぼくらの雑誌を持っているのが弟、後ろに少年が立てかけてあります。贅沢といえば贅沢な、兄弟で三冊も月刊雑誌を買ってもらったんですね。四畳半一間に、親子四人が生活していました。食べる場所であり、寝る場所であり、憩いの場所であり、いまなら学生の四畳半一間、そこに親子四人が生活している。おおむね、ぼくがいたこの界隈は、そんな生活空間だったと思います。

 ぼくが育ったこの地域を毛嫌いしてきた理由は、たぶん、近所の年上の男連中からいじめられていたからです。この地域、いまでこそ、京都のスポットとして観光客が来たりするようになっていますが、その当時なんて逃げ場のない袋小路の奥の奥といったイメージで、どうみたって下層生活者のイメージですよ。たぶん、貧乏だったから、親は無理して、子供にこんな雑誌を買ってくれたんだと思います。ほかの年上の奴らは、買ってもらえなかったから、ぼくが見る前に、ぼくの本を取り上げて、むさぼり読んでいたのです。それから祖母が駄菓子屋を営んでいて、目の前、お菓子に囲まれているぼくが羨ましかったのではないか、そのことを理由にねちねちと苛めるのでした。まだ小学生の子供で、菓子を持ってこいと脅されたことはありませんでしたから、のちのち不良になっていく手前だったと思います。最近はもう思わないが、よくも自分が不良の真似事はしたけれど、本当の不良にはならなかった、と思ったものでした。

 いや、なにが言いたいのかといえば、のちになって学生運動を経て、釜ヶ崎へ行くようになり、今に至っても人間救済のイメージを抱いていて、宗教家ではなくて芸術家の領域で、ことを仕掛けていく原動力になっているのだと思います。負けてたまるか、やられたらやりかえせ、なんか、そんな詩句が口ずさみたくなる感じで、やらないといられないんですね。自分研究の道筋で、自分の生い立ちを世間の枠組みの中で語っているところです。でも、こういう言い方はなんだけど、心は腐っていないぜ、心は清らかだぜ、正義の味方だぜ、なんてうそぶいていて、だました奴らにまけてたまるか、それが本音です。



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<ぼくは16歳>
 この写真って、高校入試のときに必要だというので写真館で撮ってもらった肖像写真だと思います。千本今出川の南西角にあった写真館で熊田写真館、いまは廃業されているけれど、まだ店構えは残っています。中学三年生ということですね。この熊田写真館の隣に寿司虎があって、ぼくは高校一年の秋ごろからこの寿司屋さんでアルバイトします。アルバイトといえば、中学三年生の夏休みには、衣笠市場の八百屋さんで一か月間アルバイトしました。日当300円で一か月9000円ほどもらったことを覚えています。そのアルバイト料をもって、そのときにはもう奥の三畳間で臥せっていた祖母セイさんに見せにいきました。アルバイトは、この八百屋が最初で、近くに大誠パン工場へ一週間ほど行きました。パン工場では、気持ちが耐えられなくって辞めてしまいます。

 感情多感な頃といえばそのような年頃、1962年か63年ごろですね。女子が気になる年頃でもあるわけですが、純情なもんですね。ほのかな、淡い恋心、言い寄られたり、こちらから言っていったり。でも、ぼくは片思いばかりですね。向こうから近づいてきた女子に、タエ子という名の女子がいて、この子はそういうことでいえば積極的だったのかも知れません。一緒にいることも多々あって、タエ子の家へ遊びにいきました。夏の八百屋でアルバイトしていた間、夜になると家へ遊びに行っていました。なんでだろう、女子ばかり三人姉妹の、タエ子は真ん中の子で、ぷっくら胸がふくらんでいるのが見えてしまって、見てしまったけれど、べつにそれだけです。そういえば手を握った最初の子であり妻以外には最後の子がこのタエ子、一回切り、どうしたはずみか握っていたモノを奪い返そうとして、握ってしまったのです。このタエ子は、その後、中卒で就職して、まもなく琵琶湖で溺れて死にました。

 高校生になると、白梅町から嵐電に乗って常盤まで、嵯峨野高等学校です。京都の公立高校は学区制で、ぼくは山城高等学校へ入学の予定が、嵯峨野高校になってしまったのです。でも、住めば都という諺があるように、そこへ入学したからこそ、たぶん、吹奏楽部を創部して、個人的には詩集を発行して、強い恋をして、冷え冷えとする青春のイメージです。大学進学を思っていたけれど、三年生の秋になっていたと思う、就職する、と進路部の就職係の先生に申し出ました。音楽が好きだからということで、十字屋楽器店の技術部を紹介してもらって、ピアノの調律をする目的で就職先が決まりました。大阪は心斎橋にあったヤマハの大阪支店に研修名目で三か月間所属することになるのでした。大学へ進学しなかった分、おおいに楽しめたかといえば、まったくそうではなくて、淋しさのなかに日々を過ごしておりました。唯一の希望は彼女がいたことでした。


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<ぼくは17歳>
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 手元に撮られた写真のデジタルサイズがこの小さいのしかないので、このイメージを掲載します。学生服にコートを羽織った写真は九州へ修学旅行の行きしで関西汽船の別府行きの船のデッキで撮ってもらったもの。かろうじて「そなちね」と読めるガリ刷りの紙は個人詩集の一号と二号、三号の部分、というところですね。ともかくも、高校二年生になって、なにかから逃れるようにして受験勉強に入った春の終わりごろ、吹奏楽部をつくるのでやってくれませんかと言われたのです。音楽部にいた梶谷君だったか(かなり若くして亡くなられたと聞きます)です。その気になって、吹奏楽部創部のために、奔走する。創ってメンバーを集めて練習をして文化祭に間に合わせる。そんな切迫した日々のスケジュールで、勉強はそっちのけで、没頭します。

 高校時代の数年間は、いま思いだしても暗いイメージでしか思いだされません。時代が暗かった、なんて思いもあるけれど、精神的に、今なら心的に、冷めて荒涼とする原野に放り出されたような気分だったと思えて仕方がないところです。何事かに取りつかれると、夢中になる性質のようで、それは恋においてもそのような傾向があって、夢中になるというより心冷たくさせられてしまって、街の中を彷徨していたように思います。片思い、深く、深く、片思い、だったのだろうか、ほんとうに、深い初恋を体験するとき、その子と逢引したじゃない。手を握るとかそういうことは考えられなかったけれど、男子の16歳、17歳なんて心は子供です。いや、女子の方が大人びているといえばいいのかも知れない。暗い裸電球に傘がかぶせられた街灯に照らされた嵐電の駅。夕刻に電話があって会えるというのでバイクでいくと、その子は向こうから来る電車に乗っていて、ホームに降りてきて、暗い夜道を10分間、歩くだけの逢引でした。

 そのことは誰にもいえなくて、人生、ここまできてようやく、その日々の概略を、書き記すことができるようになったところです。詩集を編集するのは吹奏楽部の立ち上げが終わり、文化祭で初演が終わったのちの出来事で、期末試験の前日に、生徒会室の謄写版で鉄筆原紙にローラーをかけて、摺りあげ、ホチキスで止め、そういえば一部五円でクラスの女子に売りつけました。買ってくれましたよ、ぼくの詩集、きゃあきゃあ言ってたみたいな記憶がよみがえってきますが、内心は冷え冷えのこころを少しだけ暖めてもらえたのかも知れません。吹奏楽部は、ほぼ一人で立ち振る舞い、生徒会の臨時総会を開いてもらって、生徒一人当たり月額10円、年額120円を楽器購入のために集める案を、強引に通してしまった記憶がよみがえります。何もないところからプロジェクトを立ち上げ成功させた最初の体験が、ここにあります。心の想いとは裏腹に、でしか事が起こせなくて、必死になって頑張れないようです。その心の想いとは、いつも成熟しない恋心ですね。




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<ぼくは18歳>
 ぼくは四月生まれなので高校三年になってすぐに18歳の誕生日を迎えました。なにもかも、遠くの方へ行ってしまった感がありました。1964年のこと、昭和39年です。掲載した写真は、前年の文化祭でのステージ、吹奏楽部の初演舞台です。指揮しているのが中川で、演奏は嵯峨野高校の生徒と助っ人の蜂丘中学のブラスバンド有志です。このあと部長を後輩に譲って、ぼくはなにをしていたんだろう、17歳の後半、文学に興味を持って、文章を書きだすようになります。詩集の発行を経て、三年になって、弛緩してして、間延びしてしまった感覚を思い出します。すべてが終わったような感覚で、次につなげていけない、高校三年の夏には運転免許証を取りに四条のデルタへ行きました。この夏、書店で見た文芸春秋は芥川賞の受賞作品が載っていました。同時代の現代文学にふれる最初でした。受賞作品は柴田翔氏の「されどわれらが日々」、一気に読み、衝撃を受けます。内容はいまここで書き上げることを避けますが、自殺する学生、教授と関係する女子学生、その遺書、六全協のことは大学生になって知りますが、その夏は、けだるくかったるく時間を持て余したような記憶がよみがえります。

 大学に進学しようと思っていた二年生のとき、三年生になって突然大学生にならない、受験しない、就職する、という流れになって、決断しました。いいえ、この決断は、受験勉強していなくて、大学に受かりそうもなかったからです。ぼくのあたまのなかで大学といえば、京都大学、二期校では信州大学という考えがありましたけど、それは無理なことだと悟って、就職にしたから、もたもたした時間を過ごしていたのだと思えます。東京オリンピックがあった秋です。池垣先生のおうちに入り浸る男子学生がいて、その一人がぼくでしたが、池垣先生からは、頼りにされたけど、好かれてはいなかったように思う。というのも池垣先生は男色であって、ぼくは対象外だったと思うのです。名は伏せますが池垣先生の家で、服毒自殺を図った親友がいて、呼ばれて行きました。深い深い呼吸で眠っている親友を、唯一立ち会ったのがぼくだったと思います。狼狽される池垣先生をぼくは虚ろに励ましていたと思いだされます。

 夏が過ぎ、冬が過ぎ、卒業間際になって、ぼくの成績はどうしようもなく落第点で、補修を受けたら卒業の認定をするというので、ぼくは、そのときには、朝から学校へ行き、補修を受け、結果、卒業証書をもらいました。進学校で12クラスのうち11クラスが進学希望者だったようです。ぼくは就職組に入ったから、どんなお人がおられたのか、ぼくは学校へ行かない、いまでいえば登校拒否生徒、真面目だと自分は思っていたけれど、行為は不良学生の部類だったと思います。いやはや、淋しさしかなかったですよ。卒業式の日なんて、逃げて帰りたい気持ちでした。すべてがおわり、おわった、その虚しさですね。希望なんて見いだせなかったし、将来の自分なんて予想もできなかったし、目の前には、十字屋楽器店に就職する、という現実だけがありました。卒業と同時に、無償で十字屋楽器店で働くようになりました。暗い、暗い、そんなイメージしかなかったですね。レッスン室にピアノがあって、ぼくはひとりピアノを弾き始めます。あこがれのピアノに触れることができたのです。






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<高校卒業までを総じて>
 最近、同窓会が頻繁に行われるようになりました。高校の同窓会は四年に一度開催されていたのが、古希を迎えて二年ごとに行うということになりました。中学の同窓会が三年ごとに行うということになり、小学校の同窓会が来年6月に行われることが決まりました。ぼくは還暦を過ぎた時から、同窓会に出席するようにしました。いい思い出も気にくわない思い出も、それらすべて含めて、昔の学友と交われるということに楽しみを抱くようになったのです。生きていることの証し、出席できることの健康、半数以上が消息わからず、わかっていても同窓会には出席してこない。さまざまな理由があるとは思うが、出席できる境遇にいるということを、自分に認めてあげて、ラッキーな人生だと思いたい、と思うのです。外歴と内歴が並行して、生まれてから高校卒業までの19年間、4月生まれだから、卒業するとまもなく19歳になったのでした。

 まあね、当時のことだから、佐賀のがばいばあちゃん、じゃないけれど、よく似た環境だったと思います。貧乏といえば相対的に貧乏だったけれど、地域の、もっと限定すれば小学校区のなかでの相対的貧乏度はといえば、給食費が払えなかったから、給食があたらなかった、とうことはなくて、給食費を払ってもらっていたし、学習の本とかも買ってもらっていたから、子供には不自由させないように、親が配慮してくれていたのかも知れません。徹底的に貧乏ではなかったけれど、それなりに貧乏だったと思います。父は建具職人で、個人営業の工場へ建具を作りに行っていました。母は、理容師の免許を持っていたから、散髪屋で仕事をしていました。立命館大学の理髪部で仕事をしていて、夏休みなどには、よく広小路の研心館の地下へ遊びに行った記憶があります。1950年代半ば、昭和30年ごろでしょうか。母の事でいえば、年末には、別の散髪屋さんへ助っ人に行っていました。土日とかにも助っ人に行っていたのか、母の仕事している処へ行って、小学校の五年生位だったか、お金をせびった記憶があります。いくつかの助っ人に行っていた散髪屋さんのひとつに金さんの店があります。これはぼくの思想にも影響してくると思うので、別途、検証してみたいと思うところです。

 いつごろからか、母は、テキヤ、露天商をやりだしたのです。ぼくが小学校の中ほどから中学生のころ、まだやっていたかもしれません。いくつかの場所を覚えています。扱っていた品物も覚えています。三か所、北野天神さん、祇園八坂神社、今宮神社の御旅所。扱う品物、食べ物が主でしたが、何種類かやっていた記憶があります。節分のときですね、金太郎飴お多福飴、花見時には揚げた菓子、当てもんやってたましたね。父が作ったぐるぐるまわりの棒に糸で吊るした針。まわして針が当たった場所に、もらえる品物が書いてある、といった当てもん、です。自転車の荷台に箱を乗せ、そのうえで当てもんをする。当時、紙芝居があったけど、それの亜流みたいな自転車でした。屋台はテントを張る屋台で、天神さんでは電灯がつく場所、覚えているのは二の鳥居の傍でした。なにを売ていたんでしょうか、お正月には子供が煙硝ならして遊ぶ鉄砲とか、売っていたようにも思います。
(続く)




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