中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の寫眞と文章。撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

カテゴリ: 自伝

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 大学に復学したのが1970年4月です。1969年2月に休学届を出していたから、一年少しのブランクで復学です。復学したときは結婚していたから、学生をしながら結婚生活をしていたことになります。70年をこえて、学生運動が表面的には終焉していくわけですが、それぞれの学生が抱えた問題は、何一つ解決したわけではありませんでした。甲斐君がチーフになって同人誌を発行する、そのための研究会を日曜日の午後、喫茶店で開催する。せめて、縁をつないでおこうというのか、ばらばらになってしまうから、集まって、集団でいようという目論見だったのかも知れません。同人雑誌の名称は「反鎮魂」と名付けられていて四号まで発行されたのではなかったかと思います。ぼくの手元には二号と三号があり、ぼくの小説が掲載されています。もちろん未完の小説ですが、いまも手元にあります。

 小説の題名は「凍える焔」となずけていて、なんか左翼小説みたいな感じです。プロレタリア文学の範疇にはしたくなかったのですが。舞台は、石川県の内灘、京都、東京の三か所で、内灘闘争がベースにあって、それに巻き込まれた家族、それにぼく自身ではないけれど、それのような男が出てきます。けっこう長編物語のイメージがありました。でも、展開ができなかった、というのが本音です。短編で原稿用紙30枚くらいなら書けていました。書けていたといっても文学書に入るほどの書きっぷりではなかったと思うけど、いちおう起承転結はつけられました。もう、結婚してたから24才になっていました。文章を書こうと思ったのが18才の頃で、大学生、学園紛争、その他もろもろ、時代の中にいて翻弄されたけれど、小説を書くというのは、ひとつの目的でした。でも、それも、気持ちの上で、緊張感がなくなってくるのが1972年とか73年頃です。子供が生まれていたし、家族という複数の人間がいて家庭という形を作りはじめたのでした。甘味な生活を享受しようと思いました。大学を卒業するのは1974年の春だったと思います。

 この時でした、学費がいらなくなったので、ニコンのニコマートというカメラを郵便局に出入りしていたカメラ屋さん、三条河原町下ルにあった上田カメラ店で買いました。卒業して京都に残っていた友田、ぼくを入れて三人ですが、文学研究会をしようとの話になって、漱石研究をやろうという話になって、漱石を読みはじめました。北白川の銀閣寺のところにあったアパートの管理人室で、日曜日の午後、三人が集まって、とりとめなく話をしたのだと思います。もう、終わっていました。新しい時代が始まっていて、世の中は穏やかな日々を過ごすための仕掛けがいくつもありました。ぼくは家族持ちでお金もなかったから、遊びというものをする余裕がありません。まあ、パチンコくらいのもので、仕事の帰りにちょっとだけ、丹波橋のパチンコ屋に寄って帰ったものです。空しかったですよ、気分は、とっても暗かったことを思い出します。お酒は飲めないから飲みませんでした。マージャンも仲間に入ってまではやりませんでした。釣りやヨットやゴルフ、やる機会がなかったです。カメラ、ニコマートで子供を撮っておりました。アルバムを作っておりました。




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 1970年は大阪千里で日本万国博覧会が開催された年です。前年からこの年にかけて社会が大きく変化したと思いますが、ぼくにとってもおおきな屈折点になった年でした。仕事の方では、郵便局の貯金課に配属してもらい窓口係となりました。そろばんを使って計算をするんですが、ぼくにはそろばん経験は小学生の時にそろばん教室に通った経験があるということで、そろばんができるということになりました。足し算しかしませんが、不得意ですよ。練習しましたよ、家で。一生懸命でした。些細なことですが、そろばんで計算するが慣例となっていて、のちになって電卓計算機が出てきても、そろばんでした。電卓を使うようになるのは、ぼくが主任になってから、世間では電卓が主流になっていることを鑑み、電卓を使ってもいいことにしたものです。その場所の窓口は、カウンターの前には透明のアクリル板だったと思いますが張ってあって、手元に小さな窓があり、目の前には丸い顔ほどの窓に小さな穴が開いていて、声のやりとりと、手のやりとりができる構造でした。ロビーのことを公衆室といっていて、その向こうは道路に面していました。鉄の柵がガラス窓の外に張られていて、道路の向こうは大倉酒造の酒蔵の黒い木の塀です。

 窓口に配属された最初の日、1970年4月1日だと思えますが、事務室に入ったすぐに、ぼくの気持ちは落ち込みました。陰鬱な古風な場所に入れられた感覚は、でも、もう逃れようがなかったです。灰色の上っ張りを着た事務員さん。課長さん、課長代理さん、主事さん、主任さん、ヒラの事務員、男子は若くてぼくと同年齢に近い人でしたが、年配の女性が三人、いかにも封鎖的な因習的なイメージに感じられたものです。東京にいたときは出版社に勤めていたし、夢も希望もあって東京へ行ったわけですが、大学出てないやつが出版社にいても編集なんてできない、地方の本屋まわりの営業だよ、と言われていたし、やめるきっかけも、大学は途中で休学していて、東京に来ていて、中退でもいいや、とさえ思っていたけれど、京都に帰ってきて、郵便局の窓口担当になって、ひとり、こころのなかは、穏やかではありませんでした。4月28日に結婚式を挙げます。郵政省の施設で京都岡崎の屋敷跡の保養所で式が挙げられ披露宴もできました。友達は呼びませんでした。身内と来賓は課長さんだけでした。新婚旅行は南紀白浜で、宿泊は保養所でした。新婚さんだとわかると、保養所の職員のおばさんは、とっても親切にしてもらったことがよみがえってきます。新婚ホヤホヤ、すぐに郵政研修所でほぼ一か月の初等科の訓練に入ります。新婚早々に軍隊にとられたと戦中の話で聴いたことがありましたが、一月で出てこれるとはいえ、寮生活を送りました。

 生活は安定してきたと思っていました。給与がもらえます。周りの人は給与が安い、と言っていますが、ぼくは、郵便局ってこんなにもらえるんや、とむしろ驚きでした。でも、妻子ありで生活をするには、ちまちま節約して生活をしないといけない。そういう勉強ができたと思います。もとから生活が豊かではない部類だから、貧富の差、そのことに腹立てることはありませんでしたが、自分の身を守る、そのことが経済的に出来るということに、喜ぼうとしました。万博の最中でしたが、一度だけ田舎の父ちゃんが妹を連れて万博を見に行くというのでついていった、これだけです。当時、反博というのがあって、万博反対派です。ぼくもまあこちらの方で、万博反対ですね。深い内容を考えるのでもなく、ムードに押されて、反対を唱える、そういう輩だったと思います。小学生の頃から生活の環境が、そういう地域だから、必然的に反体制派の方に傾いたのだと思っています。でも、1970年代、若い世代は、新しい生活を手に入れ、リッチな未来に向けて、希望を持ちます。こころはともあれ、団塊世代と後に言われるようになる年代の走りですから、実感として、豊かな生活のイメージが溢れた世界が、目の前に始まってきました。住むところがあり、妻と子がいて、核家族そのもので、模範家族、模範家庭です。プチブルジョアジー、プチブル、小市民的、なんて言って小ばかにしていたけれど、そのプチブル生活にはまっていきました。


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 1969年10月21日は東京でべ平連のデモ隊に参加して、それを機に出版社を辞めて、京都に戻ってきました。錦を飾る、とは裏腹に、夢破れて山河あり、帰る処があった、という感覚だったと思えます。東京での生活は無理だと思えて、京都へ戻りました。彼女とは結婚するところまで話は進んでいて、まだ東京にいる時に結納を済ませ、翌年には結婚するところまで決めていました。東京残留か京都帰還かと迷ったのは、結婚生活をどこでするかということで、東京か京都か、という判断に迫られていたのでした。結婚と書きましたが、当時はまだ同棲という考えはなくて、親の反対押し切って手鍋さげても、ということか、親の承諾の元に結婚するか、という選択しかなかったものです。さだまさしの神田川の世界は、もう少し、あと数年後の感覚です。1969年当時には、実質には共同生活の中身は変わらないけれど、結婚式をあげてその日から一緒に住む、ということでした。内縁関係という言葉がありますが、ぼくの場合は、それではなくて「結婚」でした。

 東京では、本郷に近いところに、ぼくより年上で甲賀出身の清水さんと二人住まいしていたのですが、結婚を考えると別の処に住む。板橋あたりだと一畳千円の家賃でいけたから、具体的に東京住まいするにはと、板橋のどの界隈だったか、見にいったことがあります。内面を語ると、ぼくは打ちひしがれていた、という心情でした。夢も希望の消え失せていて、生活をするために働いて金をもらう、このことが東京で出来るだろうか、との思いでした。いまもってそうですが、生活のための金儲けに専念する、ということが基本的に出来ない人間なのです。ということで京都に帰ってきて職を探すことにしたのでした。京都へ帰ってきたのが1969年11月、新聞の求人欄で仕事を探します。スーパーの西友が新規オープンする三条商店街の店舗で、電気屋が人を募集との広告を見て、応募して、採用してもらって、一月ほど仕事をしました。いまでもブラック企業とかありますが、そこは実質12時間程勤務して、自動車免許を持っていたから配達要員で、けっこうふらふらになって、やめさせてもらいました。

 1969年12月になって、郵便局でアルバイトするようになります。新聞でアルバイトを募集しているとのことを知って、叔父さんが郵便局に勤めていることを知っていたので、訊いてみました。それなら、と叔父さんが勤めている伏見郵便局へ来たらいい、ということで集配課でアルバイトすることになりました。運転免許を持っていたから、スクーターに乗ることになって、速達の配達、大口の配達、ポストを開ける開箱、それらをすることになりました。年末の郵便局、集配課、年賀状の時期で、大忙しの繁忙期でした。それから24年間を勤務するようになる最初でした。伏見という処に行ったのは、この時が初めてでした。京都の南、京阪電車で丹波橋まで乗って、そこから西へ五分ほどで疎水の橋があるんですが、そのコーナーの処に郵便局がありました。集配課でアルバイトから臨時補充員という名称で採用され、それからしばらくして事務員の名称で正式採用されます。歳が明けて採用試験を受けに行って、合格通知をもらったんですが、そのまま庶務課に届けないままでした。どうしたはずみか庶務課の主事さんだったでしょうか、合格していたことを知られて、外務職から内務職にかわりました。所属は集配課から郵便課にかわりましたが、集配業務を続けておりました。そのころには叔父さんの配慮もあって、新年度には貯金の窓口へ行くことが内定しておりました。



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 何度か中断しながら自伝を綴っておりますが、春先までの処を読むと、大学生になった頃のところまでを書いています。大学に入学したのが1968年でした。高校を卒業して二年間十字屋楽器店に勤め、一年間浪人生活をしていて、立命館の第二文学部に入学できました。受験のことでいえば、受験勉強のために予備校に通いました。岡崎にあった京都予備校でした。高校を卒業した年に、彼女ができていて、彼女は金沢に住んでいて、まだ高校生でした。大学に進学するということで大阪の守口にある大学に進学してきました。近くに住むようになって、交際が始まっていきました。

 今から半世紀前、五十年も前の話で、いまこれを書いている社会環境は、当時と比較しようもないくらいに変化しています。手紙と電話しか通信手段がなかった時代で、名神高速道路が開通したころで、東海道新幹線が開通して何年か経っていた時代です。大学への入試は早稲田と同志社と立命館を受験し、立命館だけ合格でした。早稲田の演劇、同志社の美学、立命館の近代文学、いずれも魅力を感じていましたが、大学へ入学当初には学生運動さかんな折り、たぶん必然だったと思うけど、そのなかに入ってしまいます。セクトに入るのではなくノンセクト。ノンセクトラジカルと呼ばれた一群のなかの一人でしょう。

 思想のこのことでいえば、京都の府立高校に入学して、生活する地域の環境が革新派的な共産党、それと創価学会だったと思えます。高校の一年生のころには「うたごえ運動」があって、枠組みは理解することなく、グループで歌っていた。音楽が好きだったし、ロシア民謡とか、けっこう心に滲みるモノがありました。学会の本を読ませてもらいました。文学書は詩や小説で、外国文学の中高生必読みたいな詩や小説でした。小説で感動したのは「されどわれらが日々」という柴田翔さんの小説で、芥川賞を受賞した作品、文芸春秋に掲載されたのを高三の夏休みに読み、感動しました。もうひとつあった、マコとミコ、タイトルは「愛を見つめて」だったか、読みましたね。そんな背景を経ながら、大学生になって、民生青年同盟系ではなくて。三派全学連に代表の潮流に興味を持っていったところです。
(続く) 

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 大学へ行くようになるのは1968年、入学後すぐに22才になっておりました。三年遅れで、入学できたのは京都の立命館大学、二部文学部でした。この大学には、高校の後輩になる人達が何人かいました。後輩が先輩になるというなかで、ぼくは学友会といったか学生自治会へ連れていってもらって、紹介してもらって、活動家になっていく枠組みが与えられたように感じます。ところが、当時、そこは民主青年同盟員が多数派の自治会で、なぜかぼくは違和感を抱いてしまいます。当時の学生運動のことを説明しないといけないのかも知れませんが、三派全学連とか、反共産党系の学生組織が、目立つところでマスコミに取り上げられていました。高校の同級生で大学生になっていた友達は、同志社大学の学生で、同志社の学生運動組織は反日共で、ぼくが加わっていた議論の場も、だから、。必然的に反日共派ということになっていたのです。この思想を持ったぼくが、そのまま立命館の自治会で話をしたものだから、反目され、放り出されることになります。知りませんでした、党派が対立して、反目して、運動を潰しあいするということを、意識していませんでした。時系列的には、京都での一連の出来事を経験して、それから東京へ行くことになって、翌年1969年10月21日を経験して、ぼくは京都へ戻ります。

 結局、中途半端なまま、主流の共産党系自治会からすると、反対派ということで脅しをうけたり、囲まれたり、暴行は受けませんでしたが、嫌がらせをされる立場になります。秋の頃、法律書が専門の出版社に就職が決まって、京都で起こった一連の学生デモを見ることになります。東大の安田講堂が封鎖されていたころの話です。東京勤務することにしてもらって、大学は退学ではなくて、休学することになりました。東京の社屋は、本郷にありました。東大の正門と赤門の間くらいの、東大とは向い合せの小さなビルでした。東京に住居を置くおおきな目的は、小説家になる夢を実現するためのことが、第一の理由です。憧れの東京、そのイメージです。神田に取次店があって、配本のための本をライトバンに積んで納品待ちの時間、そこからニコライ堂が見えました。神田神保町は書店街ですが、小さな取次店もありました。営業にいたぼくは、それらの取次店へは何度もいきます。気分は、まさに中心にいる、という感覚でした。労働組合をつくる話が持ち上がり、議論に参加することになりました。会社単位の連合ではなくて、出版労連でしたか、個人でも入れる組合で、会社には秘密で加入して、紅(くれない)分会と名乗ったように記憶しています。

 1969年は、各大学で学生運動が盛り上がり、秋には大きな統一デモも呼びかけられたりしておりました。国際反戦デーを名目に10月21日、セクト各組織は、大規模な決起を呼びかけていました。当日は勤務していて午前中には神田の書籍取次店へ納品にいきました。白っぽいライトバンの車で、館だ界隈、機動隊の検問があって、身分証明書と積まれた新刊本を検分され、そのまま何事も起こらず、仕事を終えます。ラジオは、パニックに陥る首都東京の交通機関の状況や道路状況を生々しく放送しています。まだ勤務中だったぼくには、切羽詰まった気持ちになってきたのを覚えています。暗くなって、ぼくが赴いたのは明治公園で、ここはべ平連のデモの出発地でした。逮捕されたときの心得、メモ書きが配られ、ヘルメットは被っていない一般学生、ノンセクトの学生、三千人が集まったと記録されていると思います。目的地は水道橋、明治公園から水道橋までのデモです。新宿の方では、ヘルメット集団が国鉄を動かさないようにしていたとか、デモで機動隊と衝突したとか、いまもって話題豊富です。水道橋の方は、さいごに渦巻きデモがなされ、機動隊に排除されるとき、逮捕者が何人も出た現場を、目撃しています。
(掲載の写真は、1974年ごろ、読書会してた漱石研究会のメンバーとの記念写真です)


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 高校を卒業するのが1965年3月で、卒業と同時に就職先の十字屋楽器店へいきます。仕事の内容は技術部でピアノの調律を学ぼうと思っていたところでしたが、当時、ヤマハエレクトーンが発売されていて、修理調整係がいないということで、エレクトーン技術者になることになったのです。三か月の研修は、ヤマハの大阪支店でした。1965年当時は、心斎橋の商店街のなかにヤマハの店があり、その二階がヤマハの大阪支店、オフィスです。京都の自宅から、京阪電車で淀屋橋、そこから地下鉄で心斎橋へ、大丸の横から心斎橋筋のアーケードに上がって、戎橋の方へ行ったところがヤマハでした。スーツを着て、ネクタイをしめたサラリーマ集団のなかへ、制服のスーツを着た女子の方たちがいらした。ぼくのサラリーマン経験といえば、この研修期間三か月です。もちろん、その後も出版社や郵政省の公務員として働きますが、大手企業のサラリーマンは、ちょっと違うように思えます。

 船乗りで通信をやっていて、転職で陸へあがりヤマハに来たという方、佐藤さん、当時27歳だといっていましたが、この方と同行することが多くて、エレクトーンの原理を、いろいろと教わりました。ぼくは中学生のころ、アマチュア無線に興味があって、その後断念したけれど、船舶無線の世界の話には興味をもちました。また、真空管からトランジスタの時代になって、その構造と原理の話を教えてもらいます。コンデンサーとバリコン周波数変調の組み合わせで、音色と周波数が変えられる、などの話、ラジオ技術の基本ですかね、それを教わりました。集積回路という話も、いろいろ聞かせてもらって、実際にエレクトーンの修理は、当時はハンダゴテ、でハンダを溶かして、接着する、そんな技術だったと記憶していますが、集積回路は、もっと小さくなって、回路ごと交換するようになる、とか電気・電子技術の基本を教えてもらったと思います。ぼくのなかで、いちんん明るい経験だったかも知れません。

 ヤマハでの研修が終わって、京都の楽器店の地下の技術部で、ひとりエレクトーン技術者、けっこう自由気儘にやらせてもらっていたと思います。でも、それは、19歳の男子、かって大学進学を考えてきた高校時代、なにがあったにせよ、進学を断念したけれど、友達が大学生、むくむくと大学生になりたいとの願望が出てきて、二年で辞めることにしました。すでに二十歳になっていましたから、浪人三年目くらいの感じで、楽器店を辞め、予備校に通う浪人生になったのです。その後結婚することになる彼女がいましたし、入学するためのお金も用意できたところでした。目指すは、早稲田の文学部。今から思うと、無謀極まりないわけですが、京大は無理だろうから早稲田、なんて、高校時代には不良してたし、受験勉強してないのに、受かるわけないのに、そう思っていました。

 心理はとっても複雑だった気がします。具体的な相談相手はいません。親や親戚の人には、本音は言えなかったし、やりたい放題にやりたいことをした、とはいっても興味が移っていくし、仕事もすぐに辞めてしまう浮気者、と思われていたようです。19歳から二十歳になる前、寒かったのを覚えているから、秋から冬、金閣寺の北にあった三畳一間のアパートに住みました。友達に北村君という奴がいて、彼が紹介してくれて、住むようになったのです。北村君のことは、別途、話をしないといけない、といま気がつきます。寒い夜、アパートへ帰る途中で千本北大路にあった食堂で、ご飯を食べる。自炊はしていなくて、外食でした。でも、体調壊して、翌年の夏前には、実家に戻ったように思います。実家とはいっても別棟になっていて、バラック小屋でしたが、そこに弟と住むようになります。

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