中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の寫眞と文章。撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

カテゴリ: 関西の写真史

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第一部
関西の写真史(1)-1-
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 語り始め 2014.12.13
 もう一年以上も前に書いていた「関西の写真史」、中断して久しい気がします。いつも心残りのまま、ほったらかしにしていた文章です。書いても何の反応もなく、読者もいないのに、と思う気持ちがあって、ぼくのなかでの書くべく優先順位としてだんだんと下がってきていたところでした。モチベーションがさがる、そうゆことなのですが、それよりも、かって書いた文章たちを、デジタル化していくほうに傾斜してきたところです。

 ところが最近になって、ぼくが書いて載せているHPなんかを見て、読んでいただいている方がおられる、というこのもわかって、書かないとあかんわなぁ、なんて思いだしたところです。そうはいっても、すぐに取りかかるほどにはモチベーションが高くなく、関西写真史を書くというより、文章じたいを書けなくなっているところです。かんたんなお茶をにごすというまさにそのような文章を、ブログに載せたりしているけれど、それもままおろそかになるところです。

 とはいいながら、意欲はあるんですが、取りかかるまでに気持ちの準備がいります。ほかの文章を書いていて、このことに集中するゆとりがなくなっているんです。でも、中途半端なままではいけないと思うので、ゆるゆると書きだして見ようかと思ったところで、このブログを開いたわけです。あらためて、最初から書きだす方がいいのかもしれないと思っていて、若干、通史からはじめてみようと思っています。また、中途半端なことにならないように、こころがけます。参考のため、ぼくの写真史HPをリンクしておきます。

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 ぼくの自伝風に体験をベースにしてあれこれと書いていく方が、スムーズに進められるように思っています。思い起こせば1975年、昭和50年に大学を卒業したんですが、そのころはまだ文学研究を友だちたちとしていました。最後のころには夏目漱石をテーマにあげて、文学論を語ろうとしていました。でも、60年代のおわりから70年代にかけて、学園闘争があって、それが終わって普段の学生生活に戻って、目的を失った動物たちが右往左往している感じで、こころはシラケてしまって、という情況だったかと思います。学友たちはそれぞれに新しい生活に入っていたし、ぼくにはもう妻子がある身の上でした。カメラを買うのはその頃のことです。長女が三歳くらい、次女が生まれたころです。職場に店を出しに来るカメラ屋さんに勧められてニコマートを買ったのです。

 写真を撮るということへの興味は、たとえば小学生の上級になって、小さな今で言えばトイカメラを買ってもらって、伊勢への修学旅行に持っていったのを覚えています。それから中学生三年の時には、八ミリフィルムをカートリッジで入れるカメラを持っていた、というのは買ったのでしょう。学校へ持っていって、かなり頻繁に撮った記憶があります。もちろんモノクロフィルムで、近所の写真屋さんへ持って行って現像と紙焼きをしてもらって、フィルムを詰めてもらう。そういえば友だちに写真好きがいて、チンチン電車が終わるというので写真を撮りに行きました。父がブロニー判のカメラを持っていて、そのころは父のブームが去っていて、ぼくが使うことが出来た。高校の一年のときには、そのブロニー判カメラで撮っていました。

 案外、カメラ扱いは上手だったように思います。そのころなんて露出計はありませんでしたから、大体の見当で絞り値とシャッター速度を決めるのでした。フィルムの感度はASA、今のISOですが、100です。作品がどうこうなんて考える余地もなかったし、教えてもらうこともなく、見よう見まねでカメラ操作をしていた。二十歳になるころ、ラピッドカメラって言ったかと思うんですが、フィルムを装填すると自動巻きあげになるカメラを、彼女と二人して買いました。それから半世紀近く経っているのですが、先日、ネガカラーをスキャンしていたら、その時の写真がフィルムのなかにありました。プリントしたものは現存しているんですが、フィルム発見です。こうして家庭にカメラを持ち込む時代の、その時代のままに、ぼくの写真とのかかわりが始まっていたのです。

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 ぼくが東京から京都へ戻ってきたのが1969年10月の終わりごろ。この年の10月21日という日は、国際反戦デーで大きな騒動が起こった日です。この年の3月、京都にあった出版社の東京勤務となって、本郷の会社と西片のアパートとを行き来する生活をはじめました。小説家を目指していた自分には、どうしても東京生活がしたいと思っていたんです。いわゆる上京ってことになるんですが、ひとまず大学に休学届をだして、出版社で仕事をすることができるようになったのです。意気揚々といえばよろしいでしょうか、夢と希望を抱いて、大学紛争さなかの東京へいきました。文学の情況はそれなりに情報を集めていました。月刊雑誌では「情況」というのがあって、読者でした。時代の写真家として有名な中平卓馬氏がここの編集部員だったことを後に知ることになるんですが、ぼくはまだ文学青年で、写真青年では全くなくて、写真を撮るなんてことは贅沢な趣味だと思っていました。というより恋人や友達を撮る以外に、写真を撮るなんて、思いもよらなかったのです。

 こんな書き方をすると、ぼくの写真人生40年が関西の写真史だ、とも思われそうですが、ぼくが書く写真史だから、ぼくの主観と体験が底流になるから、つまりぼくが書き連ねる関西の写真史、というわけです。1970年のはじめから、伏見郵便局に勤めだして、集配業務から貯金の窓口業務になっていきました。京都の伏見って処は酒造会社が多い処です。窓口業務になって、そのころの郵便局はオープンカウンターではなくて、鉄格子ではなかったけれど、仕切りがあって、でもロビーのガラスの外には灰色の鉄格子、道路の向こう側は酒蔵の茶色い板壁です。気持ち的には、東京は本郷界隈で仕事をしていたぼくには、閉鎖された空間、耐えられそうもない視覚に、耐えていました。京都へ戻って郵便局に職を求めたきっかけに、東京で本郷郵便局が会社のほぼ隣にあって、昼時には近くの食堂で制服を着た郵便局員と一緒になっていたから、新聞の求人欄に出ていた広告をみて、問い合わせたのだと思っています。

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 カメラを買った当時の、撮る目的は何だったかと問われれば、家族を撮るため、と答えます。時代は1970年代の半ばです。ぼくらの年代の価値観でいえば、遠いところの出来事よりも、身の回りに起こる出来事のほうに、興味がわいてきていたように思います。戦後に生まれたぼくらの、1960年代って外化の時代で学生運動とかに惹かれて進んでいったと思うんですけど、それが終わった1970年代は内化の時代となっていたようです。身近な家族、妻や子、ちょっとはにかみながらも素敵な生活が目の前にありました。コーヒー豆を買ってきて、ミルで豆を挽いて、ホウロウのポットに挽いた豆をネルの袋にいれて、お湯を注いで、コーヒーを飲む。素敵な生活のイメージが、週刊誌や雑誌に特集されて、フォークソングなんかも盛んになって、それはそれは素敵な家族生活が、目の前の関心ごとでした。

 ぼくがカメラを買って、最初に向かう被写体は自分の子供、家族、まだ幼年だったけれど子供の幼稚園の友だちとその家族。まだ写真?楽部に参加する前のフィルムには、家族が写っています。カメラを持って最初の交友は、職場にあったカメラクラブでした。そこでカメラ雑誌を見ました。雑誌の名前はアサヒカメラでした。職場の先輩であり写真の先輩でもあった庶務課のひとに、いろいろと写真のことについて話をしました。伏見にいたので伏見近郊の名所を撮影に行きました。カメラを持って作家をするようになる人の、最初のきっかけは様々です。これはぼくの最初のころの話しです。最初のころは、カメラ雑誌が先生で、職場の先輩が先生でした。暗室をはじめるのも、このころでした。フィルム現像はまだしていなくて、紙焼きだけ。そのうちフィルム現像も始めることになります。

 朝日新聞を購読していて、そこの社告に、全日本写真連盟の入会を促す記事がありました。新聞に月例写真の入賞作品が載っている。そんなこともあってか、個人会員として入会しました。目の前にひろがる会員さんたちの写真が、とっても素晴らしいもののように思えました。モデルさんを使った写真、風景の写真、写真の構成とか、ぼくにはわからなくて、知りたい欲求に満ちだしていたのだと思います。そこそこしているうちに京都シュピーゲル写真?楽部が改称された「光影会」というカメラクラブに入会します。当時の主宰者は達栄作氏、ぼくの最初の先生となる人物です。京都シュピーゲルは、大阪に本拠をおくシュピーゲル写真家協会から派生した京都グループです。大阪のシュピーゲル写真家協会のメンバーだった木村勝正氏が京都で旗揚げされた写真クラブです。ぼくはたまたま、そこのクラブのメンバーとなったのです。

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第一部
関西の写真史(1)-2-

-5- 2015.1.4
<浪華写真俱楽部>
 関西の中心といえば大阪。これは関西経済圏の中心で、周辺に神戸があり京都がある。人が集まる都市単位に、関西の構図をイメージすると、こういった配置になるかと思います。奈良、和歌山、滋賀、神戸は兵庫、京都は丹後、三重と福井を含めて関西圏と見る向きもありますが、その中心は大阪。この大阪に誕生する写真?楽部、カメラクラブは「浪華写真?楽部」(なにわしゃしんくらぶ)、1904年に写真材料商の桑田商会の後援で創立された、とあります。翌年には第一回目の「波展」(ろうてん)が開催されたといいます。この浪華写真?楽部が関西では最初の写真グループでしょうか。後々に名を残している、上田備山、安井仲治、小石清といった人たちが、この?楽部の会員でした。いま2015年ですから、創立から111年目にあたります。

 ぼくがこの浪華写真?楽部という名前を知るのは、雑誌「アサヒカメラ」の記事中だったと思います。それから1979年8月にぼくは釜ヶ崎の三角公園で写真展を開催するのですが、この写真展の記事が朝日新聞の夕刊社会面のトップに掲載され、翌日現地までこの写真展を見に来られた関岡昭介さんとお会いし、浪華写真?楽部の会員であることを知りました。心斎橋の百貨店の眼鏡売り場にいるというので、後日、訪ねたことがあります。当時、ぼくは京都を拠点とする「光影会」という写真?楽部の会員だったので、関岡さんは先生というより写真の先輩という感じでした。写真の先生ということでいえば、ぼくの先生は達栄作さん。1976年に会員になってから、深草のお宅へ頻繁に通って、写真の話しを交わさせていただきました。

 話を戻して波華写真?楽部のこと、1980年のころのぼくには、関西写真界の全体構造はわかっていなくて、点として、歴史ある古い写真?楽部だと認識していたと思います。アサヒカメラ誌に掲載される記事を、読んでいるうちに知識として、その名前が、それらか達さんとの身近な会話のなかで、丹平写真?楽部、シュピーゲル写真家協会、といった名称が身近に思えていました。関西の写真状況を歴史的に把握していくなかで、写真?楽部の存在を無視することはできません。むしろ形や内容は変わっても集団を組むという流れそのものが、関西写真の外形史になると思います。そういえば地方ごとに集団を組むという構図は、日本の写真界の構図なのかも知れません。ぼくは、その中心となったのが、全日本写真連盟であり戦後に創設される二科会写真部であったと考えています。浪華写真?楽部は関西写真の中心軸、それに並列するかたちで全国組織の全日写連と二科会写真部があると思っています。

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<丹平写真?楽部>
 大阪に丹平写真倶楽部が結成されるのは1930年、昭和5年のことです。浪華写真?楽部の結成か25年余り、ここのメンバーであった人たちによって結成されたと言います。丹平(たんぺい)という名は、集まっていた場所が心斎橋の丹平商会(製薬会社)の丹平ハウスであったことから?楽部の名前とされた。メンバーは浪華の創設にも名が連なる上田備山、安井仲治の名があり、本庄光郎、棚橋紫水各氏らの名前が記録されています。ほかに、堀内初太郎、川崎亀太郎、岩宮武二、木村勝正、山本健三氏らの名前があります。また後に京都丹平のメンバーとなる和田生光(のちに静香)、大道治一氏らの名前も見受けます。

1930年代といえば美術界はアヴァンギャルド(前衛)の時代で、写真作家においてもシュールリアリズムの様相を呈した作品が残されています。またドキュメンタリー写真を彷彿とさせられる写真が撮られます。丹平写真?楽部と並立するかたちで、安井仲治氏らの地懐社、中山岩太氏、ハナヤ勘兵衛氏らの芦屋カメラクラブ、田中幸太郎氏らの稚草社、棚橋紫水氏らの光人会、大阪光芸倶楽部は入江泰吉氏や岩宮武二氏、などがありました。以上はいずれも、第二次世界大戦で日本が降伏する前、いわゆる戦前のことです。

戦後になって、丹平写真?楽部は、京都丹平、兵庫丹平、奈良丹平、と別れて再出発します。ぼくの手元には2008年4月にまとめられた京都丹平史譜があって、そこにメンバーを記した資料があります。名を列記してみます。代表木村勝正、幹事長和田生光、大道治一、石井信夫、中島良太郎、ほか・・・・。当時の会員数34名と記されています。1950年前後のことでしょうか。当時から1970年代には、カメラクラブでは、月一回の月例会で写真を並べ、一等二等と等位をつけて、たとえば一等は5点とかの点数制で年間合計を競います。これはカメラ雑誌の月例方式そのものですが、おおむね写真を競うという、現在ではその基準とか、どうしていたんだろうと思うようなことが、行われていた時代です。

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<シュピーゲル写真家協会>
 シュピーゲル写真家協会は、1953年(昭和28年)に大阪を中心に活動していた8人の写真愛好者によって設立された、とあります。この8人の名前は、丹平写真?楽部のメンバーとして活動していた棚橋紫水、木村勝正、河野徹、佐保山堯海、岩宮武二、堀内初太郎、和田生光、玉井瑞夫です。そもそもの創立のきっかけは、丹平のなかで議論が起こったというのです。写真?楽部の運動方針というか指導方針というか、どうあるべきかという議論だと聞きます。初心者指導にあたるのか、高度な作家活動を目指すのか。結局、初心者指導に重きを置く方針が決められたというので、上記の8人が高度な作家活動を目指して、シュピーゲル写真家協会を立ち上げたといいます。シュピーゲルとは「鏡」の意味であると書いてあります。

 2015年現在でも、シュピーゲル写真家協会は活動している団体です。関西の写真史を紐解いていく中で、1970年代頃までの関西写真史において、中心的な立場にあった組織だと思います。公募を行い公募展を開催し、賞を授けるという、ある種の権威を持っていたと思います。東京に本部を置く全国規模の写真団体がありますが、それに対抗するようなかたちで組織を運営していたようにも思えます。東京発、二科会写真部、全日本写真連盟、それぞれに関西支部があって、ぼくはこの関西支部に所属していたのです。それぞれのグループが美術館や公的な会館を展示場にした写真展が行われていました。インディペンデントと呼ばれる写真家たちが産声をあげて生まれてくる前後です。

 1976年だったと思いますが、シュピーゲル写真家協会のお歴々の講演会があると聞いてそのホールへ行った記憶があります。遅れて行ったせいか会場はいっぱい、後ろ手立ち見でした。すごい!、ぼくが受けた率直な感じでした。会場むんむん、なんせ著名な先生方が壇上に並んでおられる。うしろからでは遠くて顔なんてわからない。そんな記憶がよみがえってきます。さて、そのころの写真の傾向というか作風ですが、風景、外国旅行に行って遭遇した風景、街角風景などなど、無駄のない構図、画面の中での緊張感、などなど写真のタブローとしての典型がそこにはあるように思います。ぼくが写真を撮りだした1970年半ば、駆け出しのころの記憶をたどっています。カメラメーカーではハイレベルアマチュアにはニコンが強くて、ニッコールクラブの会員には撮影会に参加できる特典があって、モデル撮影会に参加したことがあります。全日本写真連盟の支部でも撮影会が催されて、参加させてもらったものです。それらは現在においても続けられているのでしょう。

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<カメラ雑誌・東京発情報>
 カメラを持って写真を撮る人のことをカメラマンと言っていますが、カメラで写真を撮ることを職業とする人のことをプロカメラマンといい、職業としていない人のことをアマチュアカメラマンと呼んでいます。このプロとアマに区分されてプロが優位でアマが下位というイメージをふりまいて区分しています。いってみれば調理師免許を持って料亭やレストランで料理をする人か、家庭で料理をする人か、の違いで前記の料理人が優位だとする論法と同じ構造を持っています。写真?楽部の構成員、つまり部員や会員ですが、プロとアマの混在で、プロがアマよりも優位に立っていると思っているように見受けられています。どういう経路を経てプロカメラマンになってきたのでしょうか。そのひとつに大学や専門学校で写真を学ぶ、写真学科を卒業する、という方法があります。これはお墨付きになります。写真技術のの検定国家試験もありますが、これは余り有効には働いていないように思えます。

 かってはカメラ雑誌があって、このカメラ雑誌には月例コンテストというシステムがあって、応募して順位を決めてもらって、順位が点数になって、この点数を年間単位で競うということがありました。この月例で名をはせたところで知名度もあがり職業カメラマンとして独立する、ということがありました。それだけではなくて、街の写真屋さん、フィルムを売り、撮られたフィルムを現像し、プリントしてあげてお金をいただく。写真の技術をマスターするとカメラ店を経営し、写真を作り、写真展に出展する。そうして知名度をあげていく、全国組織の写真連盟や美術団体の会員や審査員になっていくことで地位を確立していく。その時々の時代のなかで、大きなテーマとなる領域が写真の潮流にも現われてきて、リアリズム写真とか心象写真とか、その内容を具体化していく作業で、作品が生み出される。

 写真界の情報は、東京を中心としたメディアによって、各地にもたらされます。そのメディアのひとつにカメラ雑誌があります。1970年当時には、アサヒカメラ、カメラ毎日、日本カメラ、フォトコンテストといった月刊誌が発行されていました。1984年休刊となったカメラ毎日を除いて、それらは2015年現在でも存続しています。関西圏にいて情報を得る手段といえば、カメラ雑誌からの情報が主流であったと考えています。東京から発信される情報。先にあげた月例写真コンテストが目玉であって、カメラメーカーの新製品情報、ハイクラス向けの技術情報、それらが記事となって流されてきます。地方の写真愛好者は、おおむねカメラ雑誌の愛読者です。そのなかでも異色な企画を立てていたのが、カメラ毎日、であったと考えます。1970年代以降、関西の写真を語るうえではずせないのが、ここからの東京情報であったと考えています。

-9- 2015.2.12
<新しい潮流の1970年代>
 1968年に東京で、写真同人誌<provoke>が発行されます。当時から東京発のカメラ雑誌の記事が、ある意味全国の写真愛好家たちを均一な土俵にのせていく役割を担ったと思われます。1968年はどういう年であったかというと、学生運動、学園紛争が最高潮になっていく年です。この政治運動の流れを真に受けとめたり横目で流したり、当時の若い世代の反応はまちまちですが、そのことを意識せずにはいられない事象でありました。<provoke>は、そういう潮流のなかで発生してきた季刊同人誌です。写真の系列ではめずらしい同人誌ですが、文学においては、文学同人誌がたくさんありました。文学のレベルで、小説家や批評家が、同人誌で執筆するということが作家への登竜門であったとすれば、写真における<provoke>はそれからの写真作家を生み出すシステムの萌芽があったとは考えられまいか。

「地平」という同人誌が発刊されるのは1972年です。以後「地平」は1977年9月に10号を発刊し休刊となります。関西で、大阪で、「大阪写真専門学校」で教鞭をとる黒沼康一氏が編集発行人であり、黒沼氏の論説を軸にして、若い写真家たちが集います。たちえば「地平」創刊号に写真を投稿しているのは、百々俊二氏、梅津フジオ氏、山下良典氏らで、彼らは大阪写真専門学校(現ビジュアルアーツ大阪)で教鞭をとったり周辺で活動したりで、若い学生たちに影響を与えていきます。明治以降累々と続いていた浪華写真俱楽部からの関西写真シーンで、それら従前の写真クラブを中心とした活動が主流であったところから、若い世代の新しい潮流が発生してくることになってきて、写真の愛好家たちの層は、二重構造を持つことになってきます。

大阪には、写真を学ぶ学校法人の学校がいくつかあります。代表的な学校をあげるなら、大阪芸術大学写真学科、当時の名称で表記しますが、日本写真専門学校、大阪写真専門学校があります。もともと写真学科や専門学校では、職業カメラマンを養成する教育機関で、そこを卒業することで職業カメラマンとして仕事をしていくことになるのでした。これは東京レベルでも同様で、日本経済の高度成長時代にコマーシャル分野でカメラマン需要が増加して、それにともなって写真学科や写真専門学校が設立された経緯があります。1970年代になると、写真学校を卒業しても思うような写真家職業に就職できないという、過剰人員をかかえた業界となってきたのだと言われています。職業としてつけない写真学生などが、どうしていくのかというと、写真作家という枠組みが作られ、写真作家を標榜するようになるのです。

-10- 2015.3.14
<新しい潮流の1970年代>2
 1960年代の後半には大学紛争と言われている事態が、東京の大学から派生して全国の大学に及んでいく時期でした。若い人たちの関心ごとが政治に向かっていった時代でした。写真を愛好する若い人たち、当時大学生であった人、また高校生であった人たちが、写真を撮ることを通じて、政治のありかたに関わっていった時代でもあったと思えます。写真を撮るということが、それ自体が目的ではなく、考える手段である、という考えが生じていたのではないか。文学や演劇といったジャンルと呼応するように、新しい写真の群が生まれてきていたのではなかったか。

商用に使う写真、つまり写真館の記念撮影とか、新聞雑誌掲載の写真、当時には盛隆をきたしてくる広告の仕事など、写真を撮ることで仕事としての対価をもらう、ということに対して、そうではない、俗にはアマチュアと呼ばれる写真愛好者たちが、カメラ産業を支える群として、前時代からみればとんでもなく沢山の人数になっていた時代でもあります。写真を撮ることを趣味とする。そのためには旅行をする。そのためには展覧会をする。そのためには・・・・、というように日常生活から離れて、写真を撮ることそれ自体が目的となって写真を撮る。いや、無意識ながらも、そうではないとする風潮が起こってくるのがこの時代、1960年代から1970年代にかけてだったのではないか。

大学の中ので写真部や写真同好会に集まる学生で、文章ではなくて画像をもって表現の手段とする人たち。学生を終えて社会人となって、なおかつカメラを持って画像をつくる人たち。こういった人たちを支えているメディアは、東京にあり、東京の動きが地方に及ぶ。ぼくは1970年代の半ばから写真に興味を覚えて、写真を撮り始めて、関西にいるけれど、その情報の大半は、カメラ雑誌から得ていました。すでにその頃、東京を中心として、新しい写真家の動向が注目されるようになっていたのです。カメラ雑誌の記事には、新しい潮流を生むべく内容の記事がありました。それらはもちろん写真批評家であり写真家であり、人がその中心です。

関西の写真家たち、とはいっても先に二重構造を指摘しましたが、その新しい潮流は明らかに東京から発信される情報に影響を受け、みずからの行動指針として反応してきたように思えます。関西の写真史、その表面に出てくる新しい潮流の成果物として記述するなら「オン・ザ・シーン」
という同人雑誌のような同人雑誌でもない印刷物の成果をあげることができると考えています。ただし「オンザシーン」誌の発行は1980年になりますが、おおむね1970年代後半の関西の写真状況を反映するものでした。

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関西の写真史
 1~4 2017.10.31~2017.11.7

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 かねてより気になっていることがあって、その気になることとは、自分という人間を、自分としていかに捉えるか、ということです。自分ことを知るためには、自分が立ち会った、つまり身体をもって経験したことを軸にして、枠を拡げていくことで、それなりに、自分として自分を客観化できるのではないかと思っているのです。朝から、関西の写真の歴史を紐解く手がかりとしての一枚の印刷物を手にしていたところです。2008年4月1日現在という日付が入った「京都丹平 史譜」というA4一枚の印刷物です。ぼくの手元にはこの、浪華写真倶楽部からはじまる系譜資料と、京都シュピーゲル1966年からの会報、1977年関西二科会写真部の会員名簿、です。京都シュピーゲルは後に光影会と名称を変えていて、ぼくはこの光影会に、1975年ではなかったかと記憶を辿っていますが、入会することになりました。直接のきっかけは、この時からはじまったと思っています。

 関西の写真(史)、どこから書き始めようかと思うところですが、個別の作品論というより組織と個人という関係の中で記憶されるべく記録がこれだと思えて、ぼくが知る範囲で、実体験、知識だけ、これらを織り交ぜて、書いていこうと思います。そのことでいえば、別の所でも書いていますが、達栄作さんとの出会いが最初の話題かも知れません。1965年に京都シュピーゲルが、木村勝正さんを軸にして創られる写真倶楽部で、木村勝正さん死去の後をうけて、達栄作さんが会長となられ、会の名称が光影会、のちには光影会写真倶楽部となるところで、ぼくがこの光影会の会員になったというところです。写真倶楽部という集団は、おおむね月例会を開催しています。撮影会なるものを実施しています。月例会では写真にランクがつけられ、点数がつけられ、会員相互をランク付けします。写真雑誌に日本カメラとかアサヒカメラとか、そこにある月例コンテスト、その形式をお寺とか会館とかに集まって、点数をつけていくというものです。1976年当時、光影会では、月例会において提出された写真にランクをつけることを廃止されていて、見て論じるだけ、という方式に改められていました。

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オーソドックスに関西の写真シーンを時間軸を縦にみると、浪華写真倶楽部
が1904年に結成されたと記録されています。そういえば100年記念展の案内ハガキを頂いた記憶がありますが、そのハガキは、もうぼくの手元にはありません。処分してしまったなかに含まれていたと思います。さて、この浪華写真倶楽部のメンバーを羅列すると、桑田正三郎、石井吉之助とあり、上田備山、安井仲治、小石清とあります。この浪華写真倶楽部は、現在においても活動されている関西写真史の骨格となる名門倶楽部です。先日お亡くなりになられた関岡昭介さんがいらした倶楽部で、ぼくが釜ヶ崎の写真展で、大阪で知り合った作家さんが関岡さんでした。話は戻して、安井仲治氏はその後、大正の終わりか昭和の初めごとに「銀鈴社」を立ち上げています。ちなみに昭和初期ですから1925年から1930年ごろに、安井仲治氏と川上備山氏は「地壊社」を、中山岩太氏とハナヤ勘兵衛氏が「芦屋カメラクラブ」を立ち上げていると記載されています。ここにあげた作家たちの作品イメージは、ここでは表記できませんが、別途、見る機会があれば見てみようと思います。そうして「丹平写真倶楽部」が1930年、昭和5年に大阪は心斎橋にあった「丹平ハウス」で活動します。丹平商会、丹平薬局写真材料部に写真家たちが集まったところからとられた名前が「丹平」でした。

 丹平写真倶楽部は浪華写真倶楽部のメンバーの一部で結成された写真団体で、上田備山氏を中心に、ほかにぼくが1978年頃に知っていた名前の人が、河野徹、本庄光郎、棚橋紫水、川崎亀太郎の各氏、安井仲治氏は後に参加したとあります。堀内初太郎氏、岩宮武二氏、木村勝正氏、和田生光氏、山本健三氏、大道治一氏の名前もあります。1930年の発足ですが、1946年に京都丹平を、1953年にシュピーゲル写真家協会を、1965年に京都シュピーゲルを立ち上げる木村勝正氏の動向が気になるところです。京都シュピーゲル1966年の会報に木村勝勝正氏の文章が載せられているので、転記しておきたいと思います。

「写真など今は昔のはなし」木村勝正
 今回はライカと私、に就いて書きます。私が最初にライカを持ったのは昭和五年頃と思ふ。関西写真業界の重鎮であり大阪写真材料商組会長を長くやっていた轟氏が上田商会から独立して、順慶町に店を出したのでそのお祝いの意味もあり、買ったのがライカのA型であった。
 当時は三十五ミリフィルムの入手はそう自由でなく、また今日の様な優秀なものではなかった。それでも、こんな小さなカメラで、こうまで写るものかと驚いたのである。
 浅沼商会の大阪支店がライカの普及に力を入れていて、桜井と云う、よく和服を着ていた番頭様がその世話をしてくれた事は前にも一寸書いた通りである。
 また奈良公園の写真コンクールの一等をもらって、その賞金百円を得て、かねてほしかった、エルマーの九センチのレンズを手に入れた。まるまる太った愛くるしいレンズで、その代価は九十円である。
 大阪のシュミットに梶夏史と云う人がいたが、その職分は知らないが、中々粋な御仁で、筆に立つ方で、関西のライカクラブ員の作品を主とした立派な画集を出した。私は、ライカの原画による、商業写真を出したが、東京から木村伊兵衛氏もタンバールで撮った美しいのを載せていた。
 ライカについては、まだまだ沢山の想い出はあるが、縁あって今の場所に店を持つ事になったのが昭和二十二年で、長男が戦火の中から持ち出して呉れたライカを売って、粗末ながら、材料店の格好を造る事が出来たのである。その金額は千円に満たないものであるが、それでも当時としては、それが出来たので、店を開けてから、何としてもライカは、取り戻さなければ、と努力をした。
 そして半年の後、新しいライカを持つ様になった。
 以来、営業も順調に発展して行き、子供達も、それぞれ社会に立って行って倖せな家庭生活を営んでいる。
 写真団体のお世話は、丹平クラブの京都支部を作ったし、また更に意を新しくしてこの京都シュピーゲルを一年足らずに、立派な同志の熱烈な協力のもとに今日の地位を作る事が出来た。
 私がライカフレックスを持つ事に身分不相応と思われるだろうが、今日のこの営業なり、それの伴ういろいろの事が、この店の開業の本になったライカの事を思って、このカメラを持っているのです。
 写真など今は昔のはなしも、一応これで休みます。またいつかこうしたものの書ける日を楽しみにします。
(以上、全文掲載しました)

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ここに掲載した写真は、1982年に、大阪は順慶町のマンションで立ちあげた自主ギャラリー「ザ・フォーラム」のオープニング展の案内です。関西の写真史を考えるなかで、対抗勢力として、いわば野党として、立ちあげたギャラリーでした。関西の写真史を紐解いていくなかで、触れられることがあれば、触れていきたいと思います。さてさて、今は第二次世界大戦前、1930年以降で丹平写真倶楽部が設立されたところまで記述してきました。続きで、この丹平写真倶楽部が活動しはじめる年代というと、カメラを持つということが、普通の家計では持てない代物だと思えます。当時の百円というのが今でいうどれほどの金額なのか、ぼくの知識にはなありませんが、カメラ一台家一軒なんてことを聞いたことがあるから、それほどの高額だったのでしょうか。まあ、ある種、上流階級のお遊び事、ととらえるのは無理があるでしょうか。

 関西の写真史を紐解きながら気づくことは、そこにはヒエラルキーがあり、ピラミッド型の構図となっていることに気づきます。浪華写真倶楽部が屋台骨となっていると認識しますが、丹平写真倶楽部のメンバーが浪華写真倶楽部のメンバーを兼ねるわけです。また、倶楽部のなかにヒエラルキーがあって、上位者はそれぞれに「写真(カメラ)クラブ」をつくり、会長または代表者となられます。ぼくは、それをセクト化する、と言っていますが、関西に限らず、全国的に「写真(カメラ)クラブ」なるものが存在しているところです。誠友写真会(徳田誠一郎)、稚草社(田中幸太郎)、光人会(棚橋紫水)、大阪光芸倶楽部(入江泰吉、岩宮武二)アヴァンギャルド造影集団(花和銀吾、平井輝七)。今、参考資料として手元にある京都丹平史譜2008年版に表記されている1930年前後から1945年終戦までの集団名と代表者名です。

 ウイキペディアの記事をコピペしますが、<京都丹平(きょうとたんぺい)は、1946年(昭和21年)に京都において、和田生光・木村 勝正らによって創立された、主としてアマチュア写真家による団体。 京都丹平の母体は 、当時大阪に活動拠点を置き、安井仲治・上田備山氏が中心であった丹平写真倶楽部。
 京都丹平の母体は、当時大阪に活動拠点を置き、安井仲治・上田備山氏が中心であった丹平写真倶楽部である。戦後まもなく、兵庫・奈良・京都に丹平写真倶楽部を母体とする支部が次々と創設されていった。現在の会長は西岡伸太。>
丹平倶楽部は、1946年以降、京都丹平、兵庫丹平、奈良丹平、と府県単位で倶楽部が結成されることになります。ここでは京都丹平から掘り起こしていこうと思います。

 丹平倶楽部の流れもさることながら、1953年にはシュピーゲル写真家協会が大阪を中心に結成されます。ここのメンバーは、(敬称略)棚橋紫水、河野徹、木村勝正、和田生光、岩宮武二、堀内初太郎、といったぼく自身も当時から名を知り、面識のあった方もいらっしゃる人たち。1976年にぼくは、京都シュピーゲルから改称された光影会の会員になり、1981年まで会員籍を置いていたわけです。その関係から言っても、それなりに敵対意識というより親和意識のほうが強くあります。ああ、丹平倶楽部は、京都で京都丹平と京都シュピーゲルの二派が君臨しますが、京都シュピーゲルは1965年に、京都丹平から分かれてきます。木村勝正さん以下のメンバー(詳細は別途)で結成されることになり、京都シュピーゲルにいたぼくには、まわりの先輩たちが丹平のことの悪口をいうので、ついつい丹平に反感を持ってしまったのです。いま、立場的には、ぼくはそれらの時代の写真倶楽部や撮られ発表された写真について、かなり俯瞰的にみることができると思っているから、私情は極力抑えていこうと思います。

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 関西の写真史といって、関西の地域的な限定をして、そのヒエラルキー的にみれば、大阪があり兵庫(神戸)があり京都となります。奈良、和歌山、滋賀はといえば三都市の周辺地域、たとえば滋賀は京都に、奈良は大阪に、和歌山も大阪に、というふうにいくつかの拠点がひとつにまとまっていくという図式です。頂点には大阪が立つことになると思います。写真倶楽部が大阪を中心に始まってきて、そこに集まるメンバーの生活地が京都であったり芦屋や神戸であったりで、それぞれメンバーの生活地を軸に活動されてくるというのもあると思えます。浪華写真倶楽部が大阪で、その流れの中で丹平写真倶楽部が大阪で、その流れから分派と統合してシュピーゲル写真家協会が、芦屋で芦屋カメラクラブがほぼ単独で運営されます。丹平が府県別に分派され、京都丹平が運営され、そこから京都シュピーゲルがわかれてきます。作品の質がどうこうではなくて、人格と人脈が、サルの群れのように、地盤変動を起こすという感じです。

 一方、写真およびその周辺で営業を営む人がいます。営業写真館の主、カメラや感材を扱う写真機店経営者、それに職業を別に持ちながら作品つくりを行う人。そののちにはフリーカメラマン、新聞雑誌などの写真部員。さまざまな人が、写真倶楽部の構成員とになりますが、会長や指導者は、おおむね写真に関することで生計を立てる人、これらのひとを「プロ」とい言っていますが、それで生計を立てていない人の事をアマチュアと言うわけです。その呼び方でもって優劣をつけるということですが、ぼくは近年においてはその言いかた、分類は妥当ではないと思えています。職業写真家、職業カメラマン、これは関西に限ることではなく、写真館は全国にあったし、職業カメラマンは新聞社や出版社、それに広告代理店がある都市部に、職業カメラマンは存在します。写真館や写真機店の店主さんや職業カメラマンの人が写真倶楽部の構成員の一員でもあります。よくプロアマ混在の、なんて言いかたをしますが、ここではプロが上位でアマが下位というイメージで語られてると思います。


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第二部
はじめに

 最近、身の回りの整理をしていて、手元にあった資料をみながら振り返ってみると、あれから30年。もう過去、ぼくの体験を中心に残されている資料、それをまとめて文章にしたい。そんな欲求も生じてきて、いま、ここにいます。

 ここでは、写真を学んで、写真を撮って、写真を発表していく、その外枠を辿ってみたいと思うんです。特に関西の1980年代とその前後、それから今現在につながる1990年代、2000年代、おおむね10年区切りで、書き起こしていきたいと思うんです。

 ここで書きすすめた文章は、HPにまとめていこうと思っています。すでに、まとめるページは作ってあるので、参考に見ていただければ、ありがたです。

 さて、30年も前とはいいながらも、現在活躍中の方々の名前が出てきます。伏せるのが適切なのかどうか、迷ったけど、いいことをして、そのことを書く予定だから、後々のことをも思い、実名で記載します。それから、内容はぼく(中川繁夫)が体験し、手元にある資料で、当時の聴き語りを中心に書いていきます。これをきっかけに、他の方々の発言を期待したいし、関西地域の写真史がまとまっていけば、いいなぁと思うところです。

 いくつかの視点から、出来事を立てて、それを軸に全体を関連付けていければ、ぼくとしてはベターです。ぼくの体験、ひとりよがり体験、思うままに書き進めていきたいと思う。いよいよ船出、どこへ行くのか、ジグザグ航路となりそうな気配です。老年となった脳が、どこまで汲みだしてくれるのか、定かではないですが、出発します。shigeo nakagawa 2012.8.20

<前史>

 いま、ぼくの手元に、1977年の関西二科展の出品目録があります。関西二科展の出品目録は絵画部、彫塑部、商業美術部、写真部にわかれています。関西の写真部は、会員に京都は浅野喜市氏、大阪は古沢和子氏、青木君夫氏、兵庫は堀内初太郎氏の名前があります。以下、会友に達栄作、高橋一郎、須原史郎、西岡伸太、緒方しげを、小山保、竹内広光、土居幹男、亀忠男、ここまでは東京の本部の管轄でしょうか、他は関西二科会に登録の会員まで合わせて82名が出品しています。これをもって何を言いたいのかと言えば、ぼくの名前もあるからです。つまりぼく、中川繁夫は関西二科会の会員であったということです。

 それから最近手に入れた年譜、京都丹平史譜、2008年のクレジットが入っています。1904年、明治37年に浪華写真倶楽部が生まれたときから書き起こしていて、現在に至る、そのジグゾーパズルが記されているんです。上田備山、安井仲治、小石清という名前があり、中山岩太、ハナヤ堪兵衛は芦屋カメラクラブ、丹平写真倶楽部の設立は1930年、上田、安井らの他、平井輝七、本庄光郎、棚橋紫水らがいます。稚草社の田中幸太郎、光人会の棚橋、大阪光芸倶楽部には入江泰吉、岩宮武二の名前が、アヴァンギャルド造影集団には花和銀吾、平井の名が。これらは戦前、1945年以前のこと。

 戦後丹平写真倶楽部は、京都丹平、兵庫丹平、奈良丹平に別れたそうです。1953年、シュピーゲル写真家協会が結成されます。シュピーゲル写真家協会には棚橋、河野徹、木村勝正、岩宮、堀内らの名が記されています。木村は1960年京都シュピーゲルを結成し、木村の死後1975年には光影会と名称変更します。関西の写真シーン、1970年代はまだ前記のカメラクラブたるものが、ヒエラルキーを保ちながら、並列していて、職業写真家とそうではない写真家が混在していたと考えています。

 東京を中央とした美術団体の二科会写真部、朝日新聞社が中心の全日本写真連盟、それらの関西支部、各府県支部、などなど、おおむね職業写真家とアマチュア写真家が混在しながら、写真の表現に関与している時代だったと思います。その他の影響でいえば、カメラ雑誌の存在があげられます。現在も健在なアサヒカメラ、日本カメラ、1985年に廃刊となったカメラ毎日、他。カメラ雑誌は、特にカメラ毎日は、若い写真愛好者をファンにして、影響力をもっていたと思えます。1970年代、転機になるのは、やはり東京の動きであり、その影響をうけて、関西でもぼちぼち、それらに呼応する動きがでてきたのかな、と思えます。

1970年代概観

 はなはだ恐縮しながら私的体験をベースに書き起こしていきますが、1970年代の関西というよりぼくの写真状況です。シュピーゲル写真家協会から派生してきた写真クラブ、光影会に参加して数年目には関西二科展に出展するようになっていました。でもぼくの手本は、写真雑誌、特にカメラ毎日の内容に傾倒していたようです。東京での出来事、1975年に始まる「ワークショップ・写真学校」の話題、自主ギャラリーの話題、それから雑誌のアルバムに載る写真。

 ぼくの情報源は、カメラ雑誌からで、ほぼ東京の出来事、京都にいるぼくには、遠い向こうの出来事、しかしその数年前には東京にも住んだ経験があったぼくは、身近な存在としても捉えていました。しかし、京都にいて写真を発表する、その向こうには大阪があり、東京は写真団体の本部がある場所、やはり、とてつもなく遠い処、そんなイメージでした。

 四条河原町をあがったところに京都書院という書店があって、そこで得た本に「なぜ植物図鑑か」という中平卓磨の論集をむさぼり読む。でも、そんな内容の話しが、当時の京都の写真仲間には通じるわけがなく、どうしたらいいのか、迷うばかりでした。そんななか、「街へ」をテーマに大阪へ取材の地を求めていったのが1977年です。

 これからここで書きしるし、論じていこうとする枠組み、既存のカメラクラブ等に参加していない若い人たちの動き、その芽をさえ察知していなかった自分があります。上下関係のヒエラルキーによって組まれた写真界、プロアマ混在の枠組みから、一歩づつ足を踏み外していくぼくを、いま、遠くの出来事として、記憶の映像がまわっています。

 街へ、大阪の街へ、梅田界隈から天王寺界隈へ、当時のカメラ雑誌にも街をテーマにした写真が掲載されていました。自分の興味がその風景にあるから、そこを求めて徘徊するんですけど、1978年の秋には釜ヶ崎へと足を向けていきます。京都の写真団体、その向こうにある写真団体、カメラ雑誌に掲載される街の風景、それらから遠く離れた場所。そういうイメージを抱いて、カメラを持ち出し、写真を撮りはじめた。すべては、ここから始まるようにも、思えています。

 その後、1980年をこえて数年後には、1970年代に動き出していたムーブメント、写真作家活動、いろいろなことが知識としてわかってきます。関西の写真史に大きく関係していると思う写真雑誌「地平」、梅津フジオ氏の「写真情報」、東京では佐藤元洋氏が主宰していた写真誌「COPE」、当時のカメラ雑誌からは得られなかった動きが、ぼくのめの前に現われてきます。

 1979年8月、ぼくは釜ヶ崎の三角公園で「青空写真展」を開催します。この写真展に至る事柄は、個人的なレベルで成熟してくるんですが、このプロセスは、ここでは触れなくて、別に記載したいと考えています。ええ、この関西写真史の枠組み、論調、内容を、どのように組み立てるのか、それがぼくのなかでまだ、明確になっていないからです。かって、原稿用紙時代では、推敲をかさねた決定稿がタイプ打ちされて目にふれるようにしたんですが、現在はブログに書き起こし、初稿から発表する形になっています。メディアの変容も含め、写真史という論を組み立てていきたいと思っています。

 関西の写真シーン、1970年代を概観すると、最初に浮かび上がってくるのが、1972年に創刊される写真誌「地平」です。この「地平」は1977年第10号まで発刊されますが、関西の若い世代の写真家に影響を及ぼしてきたと、ぼくは考えています。関わったメンバーを見てみると、大阪写真専門学校(現在はビジュアルアーツ大阪)で教鞭をとっていた編集兼発行人の黒沼康一氏、それから百々俊二氏、梅津フジオ氏、中川貴司氏らが参加しています。

 大きなシーンでは、東京の1960年代末の「プロヴォーク」、1975年から始まった「ワークショップ・写真学校」の開校、それに続く自主ギャラリーの設立と運営、それらのムーブメントが、雑誌メディアを通じて関西にも波及していたと考えています。その流れを汲むかのように、「地平」の写真評論、写真作品があるようにも思えます。

 もちろん、写真をする行為とか、撮影対象になる被写体とか、関西だから特別に、とは考えていなくて、写真界全体の潮流のなかで、作家が作品を生み出していくことにつながります。個別作家の作品内容についての評論は、ここではしません。ここでは、個別作家がその発表媒体としていく「場」、出来上がってきた「場」について、記述していくつもりをしています。

 1970年代の前には1960年代、1950年代。こうして関連づけていけば、1950年代のアメリカの動向から、日本の動向へ、それから関西の動向へというようになってきます。ここでは、それらの動向には折あるごとに記述しますが、ここでのメインは、1980年代の関西の個別の出来事です。

 1970年代には、1980年代の関西の既存写真団体には所属しないインディペンデント系写真作家を排出する萌芽を、読み取ることができます。また、1970年代後半には、オリジナルプリントの概念が語られだすときでもあります。若き写真家たちがグループ化され、次第にうねりとなって成熟してくる。いま、振り返ってみると、そんな感を抱いています。

 既存の写真界は、肖像写真館があり、広告写真スタジオがあり、雑誌カメラマン、フリーのカメラマンが活躍してきます。その担い手たる写真家が学んできた場は、おおむね大学の写真学科であり、写真の専門学校です。プロのカメラマン、写真家を輩出する学校、学校を卒業したときから、写真家の称号があたえられる。とはいいながら、プロとして、つまりそれで生活が営めるかと問えば、かならずしも生活できたとは言い難い側面も多々あったと思います。


関西の写真史 中川繁夫:著
釜ヶ崎青空写真展
リトルフォトスペースin聖家族
フリー・スペース「聖家族」

釜ヶ崎青空写真展
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釜ヶ崎青空写真展 1979.8

1979年8月、大阪市西成区萩ノ茶屋、行政名あいりん地区、通称釜ヶ崎、ここに労働者が集う三角公園って呼んでいる公園があるんですが、ここで写真展を開催することになりました。企画は中川繁夫、主催は釜ヶ崎夏祭実行委員会(って名称だったと思う)。ベニヤ板三枚、高さ180×横幅270の壁面にキャビネ版250枚を掲示するというもの。夏祭り開催中に撮った写真を翌日に展示し、写っているのがあれば持ち帰っても良い。この展覧会を四日間開催しました。

写真展が催される場所には、ギャラリー、美術館、そういった専用空間において展示されるのが通例です。1979年当時、ぼくは京都市内で開催される大きな写真の合同展に、出品する権利を持っていました。関西二科展、全日本写真連盟写真サロン展、同連盟選抜展、光影展、それなりの装いをして京都市美術館、京都芸術文化会館などの壁面に展示するのでした。しかし、次第にぼくの気持ちは、そうではない方向に進んでいたようです。

ちょうどそれより10年前、1969年には東京において「プロヴォーク」同人による写真誌が発行され、時代のマイナーな風潮をつかんだと思うんですが、そのメンバーの一人、中平卓馬氏の「なぜ、植物図鑑か」(1973年刊)という署名の本を、京都にいてかなり熱心に読み込んでおりました。ぼく自身のなかにも、そのころは反体制的な考えに同調しているレベルでしたが、それらの風潮で、写真をめぐる体制に反発していったのだと思えます。

美術館ではない公園で、評価を得る中心部ではなくて辺境の地で、額装した作品ではなくてピン張りで、観客は写された人々。釜ヶ崎青空写真展の企画は、そういった立場で実行されますが、写真を愛好している人たちの反応はイマイチ。むしろ、無視されたのかも。しかし、若い世代の写真愛好者のなかには、のちになって存在を知ってくれた人もいた。

京都、大阪の写真界、大学の教授だった岩宮武二氏を支部長においた関西二科会、アマチュアカメラクラブの長老たちが運営する写真クラブとその写真展。そういった既存の発表場所からは一番遠くて一番稚拙な、写真の在り方を、あえて組み立て、青空写真展を開催したのでした。写真家がいない場所、被写体となる人々が鑑賞できる写真展、家族のなかで共有しあう写真、そういう写真の在り方を模索していたと思う。

ぼくの写真活動の原点、あるいは文筆活動の原点、原点というより起点だったようにも思えます。関西の写真界から遠く離れた場所で、ぼくは、雑誌の編集をはじめます。「季刊釜ヶ崎」(1979年12月)と「映像情報」(1980年8月)。写真展示空間は、飲み屋「聖家族」の壁面を使って、リトルフォトスペースからフリースペースへ、この空間は1979年12月から1980年5月まで、諸般の事情により休止となりました。

リトルフォトスペースin聖家族
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聖家族 釜ヶ崎写真展座談会風景 1979.12.9

先に1979年8月、大阪は西成区、釜ヶ崎の三角公園で、釜ヶ崎日雇労働組合(釜日労)主催の夏祭りで、その期間中に写真展を開催することになりました。日替わり写真展、現地で撮った写真を翌日に展示するという写真展です。発想は中平卓馬の「なぜ植物図鑑か」のなかに書かれてあったビエンナーレで中平が試みた写真展示、これに触発されて、提案して、了解を得られたものです。是非はともかく、四日間の日程で、ハードスケジュールをこなしました。

この青空写真展の延長線上に、京都は河原町蛸薬師にあった飲み屋「聖家族」の壁面を釜ヶ崎の六つ切り写真300枚余で埋め尽くす。そのような写真展、荒木経惟がラーメン店の壁面で写真展をおこなったと、どこかで読んで知って、それが頭によぎってきたのです。1979年12月1日から12月9日まで開催することになりました。最終日の12月9日には、釜日労委員長の稲垣氏を囲んでの座談会を企画しました。

その当時のミニコミ情報誌、「プレイガイドジャーナル」、プガジャに情報を提供し、ポスターを作って京都市内に張出、狭い飲み屋の聖家族、満席になりました。そのプガジャを見て、ビデオグループ「テレビモア」の取材申し込みがあり、当日、聖家族へ取材に来たのでした。岡崎純さん、瀬川恵美さん、そのとき初めて顔を会わせた。その後、彼ら「テレビモア」とぼくとの交流があり、「ザ・フォーラム」の創出にまでつながります。

写真展のタイトルは「79’釜ヶ崎/中川繁夫写真展」、聖家族の運営者石山昭氏とは、いろいろな話題の中で、この聖家族を、写真展示を含むイベントの場として使っていこうとの話しで、年が明けて1980年には、具体的に、飲み屋「聖家族」で共同運営のギャラリーを立ち上げることになっていきます。

その後、大きなうねりのなかで、集まってくる若い写真家、写真愛好者らは、まだそれぞれ、個別に活動していた。1970年代には、前にも書いた東京の動き、カメラ雑誌の影響、それらが個々人のなかに意識化されてきて、関西、大阪や京都において、場づくりが始まっていくことになります。東京における自主ギャラリーの話題は、関西においても実現可能かどうかを模索する動きになって、結実してきます。

離合集散、渦巻きのように、人が集まり、人が変わり、場所が生まれ、場所が消えていき、新しい場が生まれてきます。若い写真家たちの活動が、既成の枠組みとは別の場所から、生じて、消えていく。そんなイメージで、ぼくは見ています。ぼくにとっては、1979年の夏、釜ヶ崎青空写真展から、飲み屋「聖家族」での写真展まで、たったひとりの叛乱、なんて申しておりました。

フリー・スペース「聖家族」
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京都において、フリー・スペース「聖家族」がオープンするのは、1980年3月1日。フリー・スペース「聖家族」通信が、発行されます。場所は、京都・河原町丸善ビル東入ルワインリバー下ル。開設のご案内を引用してみます。

今でも、地味なフリー・スペースとして活動してきた「聖家族」で、このほど新たに、発展的な個々のたずさわっている手段を、スムーズに発表できる場所として、より自由に解放していきたいと考え、ここに、フリー・スペース「聖家族」の開設を試みることになりました。

昨年12月、写真家中川繁夫氏による「釜ヶ崎写真展」を企画したところ、より多くの人たちの反響があり、その後、ジャンルにこだわらず、各分野の自主的な発表の場として、利用していきたいという声があり、ここに、フリー・スペース「聖家族」として、「場」及び「空間」を利用したイベントを組んでいくことを企画しました。

今、ぼくらが求めているものは、いわゆる「作品」と呼ぶ以前の、生の形で発表を試みることです。作者と観客がストレートにふれあえる場であること。それはぼくらの生きざまの断片であり、思考の断片であり、連続する行為の中間発表の場であり続ける筈です。

申し込みは自由です。個人又はグループで申し込んでください。
(1980/2)、聖家族/石山昭、企画参加者/中川繁夫。

<3月イベントのお知らせ>
※1日(土)~8日(土) 正午~AM2:00
「釜ヶ崎 中川繁夫写真展 partⅡ」
3月8日PM3:00~、座談会。出席・中川繁夫(写真家)・石山昭(聖家族)
※「劇」 日時未定(問い合わせのこと)
※「フィルム」 日時未定(問い合わせのこと)

■4月以降、イベント参加者募集中です。必要諸経費についてはご相談ください。
写真・イラスト・絵画・版画・フィルム・劇・その他

■フリー・スペース「聖家族」会員募集中です。
会費、突き200円
特典・あなたがイベントを組めます。
・特別イベントに優先的に参加できます。
フリー・スペース聖家族通信を定期的に郵送します。
申し込み・聖家族にて受付中。会費を添えて申し込んで下さい。
1980/2/20発行 発行人 中川繁夫

以上、フリー・スペース「聖家族」通信からの引用でした。

こうして開設されたフリースペース「聖家族」、飲み屋の空間を利用して、イベントをおこなう場として誕生しました。しかし、この年の8月には、飲み屋「聖家族」の賃貸契約が継続できず、フリー・スペース「聖家族」も必然的に閉鎖になりました。

フリー・スペース聖家族、1980年4月のイベントは、写真展「南大阪’79・冬ー自主管理の現場からー」を4月7日~13日まで、最終日には座談会が設けられました。4月21日~27日まで、森伸治朗写真展「骸骨人ーセルフポートレイトー」が開かれました。中旬には、カナダのビデオ作家マイケル・ゴールド・バーグ氏制作の「ビデオ・イン」を上映、作者は筑波大学講師として滞在中でした。5月には、村上雅裕写真展「GCM」、森正樹とそのグループによる8ミリフィルム上映会が開催されました。

こうして80年代初頭、京都にフリー・スペースがオープンしたけれど、5月末には飲み屋としての聖家族が、空間を維持していくための権利、賃貸契約が切れるということ。6月以降の開店について、石山氏のもと、努力されていました。しかし、努力も空しく、賃貸契約には至りませんでした。70年代の解放空間としての聖家族。その聖家族が、フリー・スペースとして機能するのは、飲み屋としての場が確保されることが前提でした。

フリー・スペース聖家族通信VOL4&5から抜粋。

この京都で始まった映像におけるフリー・スペース運動とは、一体、何なのか、という意味づけは将来に待つとして、映像主体の意識変革の場として、フリー・スペースは機能していくものです。
80年にはいって、フリー・スペースが設立されたのだが、ぼくらをとりまいてる社会状況も激変しています。しかし、ぼくらの日々、毎日の生活は、表面的にはなんら変わるkとがないように見える。また、ぼくらはそう思っている。

単に面白半分でやりたいことを無目的にやっているのではない。また個々ばらばらの、孤独な、映像の展示発表の場としてあるのでもない。イベントを組む個々人の発想は、様々であり、そこに関わる意味もまた個々の独自性にゆだねられてしかるべきではあるが、フリー・スペースとしての持ち得る意味は、その総体として、今、映像とは何か。映像にとりまかれているぼくらの情況はどうなのか、という洞察の場であり、また、今ある映像の情況を認識していくことによって、そこではなしえられないぼくら自身の価値の創造と意味の拡大を試みていくことにあるのです。ぼくらが今、感覚的に求めているものを、理論と実践のなかに定義づけていくことが可能か、を問うのです。

飲み屋としての聖家族は、こうしtぼくらの物理的な制約の中で、精神の解放区をめざして運営されてきたのでしたが、こお空間を維持していくための権利そのものの保持について、今、努力されているところです。物理的な場として確保ができたところで初めて、フリー・スペースとしての機能が成立するのですから、飲み屋としての聖家族が開店することが第一の条件となってきます。

金銭的には、ぼくらにとって莫大な資金を必要とするフリー・スペースの創出を、なんのためらいもなく、すでに存在した場を意味づけていくことだけで成り立ったことに、ぼくは感動し、そうして実現したのでした。フリー・スペースの場に先立つ設立同人、講座の企画など、フリー・スペースの場そのものの成立があってからというのではなく、同人がまず集まり、その中から企画が生まれ、そうしてフリー・スペースが創出されてくるというのが、本当の姿だと思うのです。

しかし、呼びかけ人として、まずやりませんか、と呼びかけるにはやはり即、その時から機能できる場が存在し、この場を利用しようということから呼びかけないと、結局のところ呼びかけだけに終わってしまうような気がしているのです。フリー・スペースとしての場の確保を第一条件として。その場があるということを前提としてやっていかなければ、と思うのです。

フリー・スペースは閉鎖的な同人、あるいは同好クラブをめざしているのではない以上、フリー・スペースとしての空間そのものが存在することによってのみ、開放的な展望が生まれてくるのであって、単にひとが集まるだけでは結局のところ、旧来と同じパターンを繰り返すだけだと思うのです。
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石山昭(左)と中川繁夫(右) 聖家族1979.12



関西の写真史 中川繁夫:著
ギャラリー・DOT
写真情報
映像情報
オン・ザ・シーン

ギャラリー・DOT
DOT
写真の展覧会において、オリジナルプリントと呼ぶ写真作品がギャラリーに飾られるようになるのが1980年初頭です。京都は下鴨にオリジナルプリント専門のギャラリーとして、「ギャラリー・DOT(ドット)」が1980年11月、オープンします。また、神戸では、中央区北野に「キタノサーカスフォトイン」がオープンします。

ギャラリー・DOTは主に日本の写真家たちの作品を集め、展覧会を開き、展示された作品が売買される、いわゆる写真を売るギャラリーとして京都に誕生したものです。神戸のキタノサーカスフォトインは、ギャラリーオーナーが自分で収集してきたアメリカのプリント中心に売るギャラリーとして1980年11月にオープンします。

1980年は、関西の写真シーンにおいて、オリジナルプリントを扱うギャラリーが誕生する記念すべき年となります。オープニング展は1980年11月17日~11月23日、子供のアトリエ展(鈴木基寛氏指導)による4才から11才までの子供たち 。ギャラリーオーナーの岡田悦子さんは、絵本作家を目指したこともある経験から、この展覧会企画になったようです。続いて第二回目の展覧会は、1980年12月09日~12月21日「BELCA HOUSE EXHIBITIO '80」出展者は、相川佳久雄、鈴鹿芳康、高田宣夫、和田矢代依という顔ぶれ。

いよいよ1981年には、1981年01月25日~02月15日、写真家6人によるオリジナルプリント展、出展は杉本博、鈴木俊宏、高木松寿、橋本文良、服部冬樹、松尾幹生という写真作家たちでした。このようにして、関西在住の写真家にとどまらず、日本人写真家が作品発表の場として、オリジナルプリントを売るためのギャラリーとして、展覧会を開催しることになります。1981年10月13日~11月22日には、フランスの写真家エルスケンの「セーヌ左岸の恋、パリ1950~1954」(Ed Van Der Elsken)を開催し、オリジナルプリントギャラリ-としての地位を不動のものにします。

オリジナルプリント、それはいったい何ぞや?。写真愛好家たちにも、まだその意味合いが十分に理解されないことが多かった年代に、若い作家、中堅作家、写真作家としての誕生を育む土壌を作っていきます。関西において、特に京都において、その存在は、写真への認識を変えさせていく場となっていくものでした。のちに別企画でフォトハウスが京都に誕生しますが(1984年11月)、その事務局としての機能、つまりギャラリーとして、作家を育ませるための教育を実施していくことになります。

レンタルギャラリーではなく、オリジナルプリント展示を主体にしたギャラリー・DOT。作品制作のための基礎技術、ゾーンシステム取得を基礎に置いたワークショップ開催の事務局として、ギャラリー空間が機能してきます。とはいえ、関西の写真家たちが盛んに展覧会を開くというには、まだ時期が早くて、おおむね東京在住の写真家たちが展示することになります。その後において、大阪をメインにオリジナルプリントギャラリーがオープンしますが、京都におけるギャラリー・DOTが、その先を走ったといえます。

それから30数年を過ぎて、いま現在(2012年9月)においても継続して運営されているギャラリー・DOT。オリジナルプリントの歴史を語るうえで、欠かせない貴重な存在であることは間違いありません。関西という地方のことが話題になることが少なく、京都の話題はなおローカルな話題ですが、ここに関西の写真史、1980年代を書き起こしてきて、紹介するところです。

写真情報
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いま、ぼくの手元に、写真情報社から発せられた<「写真基金」への出資の願い>という案内書があります。この写真情報社が、1970年代後半から1980年代にかけて、関西の写真シーンに大きな役割を果たしていたと思っています。写真情報を発行していた写真情報社は、1977年に福岡市に設立された同人です。その後活動の拠点を関西に、事務局は京都市に置かれて、活動されていました。

コピー誌「写真手帖」の発行、写真展「視覚への啓発」を東京、京都、福岡にて開催、情報DM「写真情報」の発行など、マイナーメディアの形成とそれを通して写真の情報を発信していく。そういった動きをされていたグループでした。関西の写真をめぐる動きには、かってあったアマチュア写真クラブの流れがあり、大学や専門学校を卒業した人たちによる写真現場があり、おおむねあるヒエラルキーが形成されているなかで、写真情報社の活動は、新しく写真シーンを担う人たちへの熱いメッセージとなったと考えています。

個々に写真活動をはじめて、個々がバラバラな状態を、まとめていく作業は、情報を発信することから始まります。設立スタッフは、金森格、藤井謙介、梅津フジオ、笠井享、海原修平の各氏。なにかと情報を集め、発信していく手段として、郵便で送るダイレクトメール方式です。現在2012年のメディア環境では考えられない閉塞状態。まだパソコンもインターネットも無かった年代。資金捻出にも苦労がつきまとった年代です。

写真情報社主宰の梅津フジオ氏は、1972年4月に創刊される「地平」の創刊号と二号に写真を発表するメンバーです。この写真誌「地平」は、1972年4月創刊、主に福岡を拠点として活動し、1977年9月に第十号を出して終わります。地平のメンバーは、黒沼康一、百々俊二、山下良典、遠藤正仁、梅津フジオ、中川貴司ら(敬称略)が関わって、一時代を代表するグループへと展開していきます。このグループから輩出の作家では、現在のビジュアルアーツ専門学校の先生になっていらしゃる方が多くいらっしゃいます。

さて、梅津氏が主宰する写真情報社の目的は「情報提供からメディアの創設へ」です。写真情報社主宰の梅津氏は語ります。写真情報の対象が300人になり、切手代、コピー代、情報収集など、多大な負担となるなかで、独自の紙誌の発行を企画しています。京都へ来てから三年半、独自のリストが関西で300ヶ所、全国で600ヶ所ほどできました。自主運営は赤字がついてまわりますが、資本から自由なのです。

基金への出資の願いのなかで、1983年春には、運営スタッフ3名の共同出資によりトーシャファックス印刷機を購入、既に写真情報社は印刷機能をもち、今後は懸案の印刷紙誌の発行、資料集等の編集・発行を順次具体化し、検証と批評のためのメディア創りを進め、出版局構想を具現化したいと考えています、といいます。

あらためて、いま思うことは、こういった個々の努力があって、情報が共有され、現場が生まれてくることが、見えてきます。まだまだインディペンデントな活動が、個々バラバラな年代に、写真情報社が残すその功績は、称えてここに記しておきます。

 映像情報
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新しい映像の評論理論誌と銘打たれた「映像情報」誌の創刊号は、1980年8月1日付です。フリー・スペース聖家族通信が、その7月、第五号をもっておわり、その延長上に「映像情報」が発行されました。1984年1月15日発行の第12号まで、三年半にわたって、不定期刊されてきた中川繁夫の個人誌です。

創刊号の内容には、フリースペース聖家族通信の80.8月号を載せています。映像情報からの告知として、次のように言っています。

<月刊「映像情報」は、フリー・スペース聖家族通信が発展的廃刊となったあとを引き継ぐかたちで、創刊されたものです。まだまだ情報誌としての体裁には至っていないし、情報源そのものも不足です。しかし今、80年代にはいって、ミニコミとしての情報誌の必要を痛感するところから、自然的に発生してきたものです。今さら、その理由を述べるまでもなく、十分にその意は汲みとってもらえることと考えますが、ぼくら自身のメディアを持つことによってのみ、現今の映像の閉塞状況を打開していくことができると思うのです。(後略)>

百部発行、一部百円、編集発行は「フリースペース聖家族事務局」として、月刊「映像情報」編集室を設け、発行人は中川繁夫。手書き10ページのコピー版、ホッチキス止め、この時点では、フリースペース聖家族で展覧会等の企画を実行し、その理論誌として目論まれたのが「映像情報」でした。

創刊号の目次には、写真評「四才児の写真をめぐって」、写真展評・イベント評、中川が書き進めていた連載「私風景論」があります。これらの内容からは、写真をめぐる様々な問題点をあらわにし、マスメディアと向きあうパーソナルメディアとして展開していく姿勢が汲みとれます。

こののち1984年11月には、フォトハウス構想の発表が行われますが、それまでの間、映像情報編集室として、先に記した本号12巻、写真集として中川繁夫作「夢幻舞台」発行、号外の発行等、印刷物として発行されていきます。

(2)
フリー・スペース聖家族通信を引き継ぎ、映像情報が創刊されるのが1980年8月です。編集発行は、フリー・スペース聖家族事務局、月刊「映像情報」編集室。発行人は中川繁夫。新しい映像の評論理論誌とサブタイトルがつけられています。

1970年代半ばから1980年代にかけて、写真を取りまく環境が大きく変化してくるときでした。新聞や雑誌に掲載される静止画イメージ・写真の範疇から、写真を個の表現作品として扱っていこうとする考え方です。紙媒体にてメディアの主流があった時代から、テレビメディアへと移行してくると、写真より映像がその主流となってきます。録画できる電磁テープ、ビデオが開発され、フィルムにかわる方式として記録の主体となってきます。

写真が、商業の中心から周辺へ追いやられることで、写真撮影技術を修得したカメラマンの、金銭授受をともなうマーケットが縮小してきたといわれています。そこで写真の独立、絵画や版画と同様に、作品として売買するということが浮上してきたと思われます。オリジナル・プリント。写真を写真単体として売買する、そのことが具体的になってくる年代でした。

おそらくそこで、写真をめぐる論、考え方、捉え方といった領域で、評論・理論を求めていたのだと思います。社会の変化、メディアの変化、大きな転換期にさしかかった写真制作の現場で、映像情報は試行されたと解釈しています。当時、東京では佐藤元洋氏が編集発行のCOPE、コペ(個人誌)があり、写真装置が発行されます。関西では中川繁夫が編集発行の映像情報(個人誌)が創刊され、オンザ・シーンが発行されます。

文学における同人雑誌の形態が、写真においても1960年代から、いやはやその昔から、巷のカメラクラブは同人形態をとっていたし、現在においても、二科会とか視点委員会とか、同人(会員)形態をとっているといえます。職能団体である日本写真家協会もふくめ、ある傾向の作品をつくるグループからそれを職業とする団体、それらが写真という作品をめぐって、業態をつくっているんです。

写真を制作する技術、写真を売買するための枠組み、そのための学校、そのための組織。そうして、写真を社会学的に、芸術学的に、心理学的に、言いだしたらきりがありませんね、哲学的に、歴史的に、等々。つまり、評論・理論の構築、その必要に迫られていたのが、1980年代の初めであったと考えます。

1970年代にはカメラマンと仕事のバランスが、供給と需要のバランスが、崩れ出したと言われています。つまり意識の高いカメラマンが、みずからの生活費の獲得と名誉のために、浮遊する写真作品の底辺を理論武装させようとの試みだったのではなかったか、です。映像情報の試みは、この真っ只中において、個人誌として作られてきたメディアでした。

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全12号の記事タイトルをまとめてみます。

創刊号、1980.8.1発行
・フリースペース聖家族通信
・写真評論、四才児の写真をめぐって
・写真展評、イベント評
・連載:私風景論(2)
・映像情報からの告知

第二号 1981.1.1発行
・映像情報、情況
・写真論、「花嫁のアメリカ」その方法と成立の考察
・私風景論(3)、以下四号まで連載
・映像情報からの告知、編集後記、以下最終号まで連載

第三号 1981.3.1発行
・映像情報、情況、以下最終号まで連載
・写真論、土田ヒロミ論
・写真「無名碑」(1)
・写真「冬の旅より、金沢」

第四号 1981.5.1発行
・写真「春日の光景」
・写真「無名碑」(2)
・釜ヶ崎取材メモ「大阪日記」(1)
・写真論、沖守弘論

第五号 1981.7.1発行
・京都の写真状況が教えるもの:石原輝雄
・写真「無名碑」と「大阪日記」、以下最終号まで連載
・写真論、「記録とは何か」一枚の写真から

第六号 1981.10.1発行
・映像論「写真、映画、ビデオ論」(1)
・写真論「写真は芸術にあらず」:石原輝雄
・映像情報からの告知、出版案内

第七号 1981.12.1発行
・映像論「写真、映画、ビデオ論」(2)
・東松照明「太陽の鉛筆」試論:三谷俊之
・写真「81夏-自宅周辺-」

第八号 1982.2.1発行
・映像論「写真、映画、ビデオ論」(3)
・写真論「いま、写真行為とは何か」
・フォト・シンポジューム・イン京都、討議録
・写真と文「私風景・日記」

第九号 1982.5.1発行
・写真「自宅周辺」
・映像論「ビデオ状況の出発点」:岡崎純
・東松照明論(1)「内灘、長崎、沖縄の系譜」

第十号 1982.8.15発行
・写真「続自宅周辺」
・”おなにい”としてのビデオアート:吉田幾俊
・写真「釜ヶ崎」
・東松照明論(2)「内灘、長崎、沖縄の系譜」

第十一号 1983.8.15発行
・写真「続続自宅周辺」
・いま!東松照明の世界展、大阪展、私自身のための総括

第十二号(最終号) 1984.1.15発行
・写真「西陣の人々」京都シリーズ抄
・写真の現在展’84 アピール
・写真評論「現代写真の視座」
ほかに号外が第五号まで発行されています。

オン・ザ・シーン
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写真雑誌「オン・ザ・シーン」は、1980年創刊、1985年第六号を発刊して休刊となりました。関西の写真史、とくに1980年代を中心に、筆者、中川繁夫の記憶と若干の資料をベースに、書き起こしているところです。「オン・ザ・シーン」誌においては、第四号に筆者自身の写真「無名碑」23点を掲載してもらったこともあり、親密感を抱いています。筆者においては、同時期、個人誌「映像情報」を編集発行していた経緯もあり、深い交流がありました。

発行所は写研工房、事務局はスタジオ・シーン、1982年9月発行、四号の発行人は中村一夫、編集長永田典子、編集スタッフに浅井英美、阿部淳、新見輝人、飯間加寿世、太田順一、奥野竹男、田中嗣治と名前が載っています。大阪市東区瓦町のビルの一室にあったにスタジオ・シーン。大阪写真専門学校(現・ビジュアルアーツ大阪)を卒業したメンバーの仕事オフィスが、その事務局となっていました。

写真表現の方法に、いくつかの潮流があるとすれば、「オン・ザ・シーン」に掲載される写真には、1970年代の揺れ動く被写体を撮った揺れ動く写真、また1980年代の潮流となるシリアス系写真、静止した写真というか、凝視する視点というか、そういった写真が、混在して掲載されてきたと言えます。その意味においても、筆者は「オン・ザ・シーン」誌は、関西の写真史、1970年代から1980年代を論じるのに、欠かせない雑誌だといえます。

創刊号の特集は「挽歌」、写真発表は、伊ヶ崎光雄「南の風サンタモニカ」、田中嗣治「真南風」、太田順一「ナッシング」です。第二号の特集は「貌」、写真発表は、百々俊二「休日」、飯間加寿世「家族」、太田順一「日記・藍」、奥野竹男「潮風」です。連載写真通信「ふぇろう村から」華房良輔と浅井英美、ノート「推理から認識へ」西井一夫、と名前が続きます。

メディアを持つということは、人が集まり、人が動き、人が繋がる、そういった役割をになっていくことになります。「オン・ザ・シーン」という雑誌メディアが、個々の個人に還元され、還元された個人が別の枠組みをつくっていく、その流れができてきます。相互に関連し合い、影響し合い、潮流は形成され、流れていきます。1980年に創刊される「オン・ザ・シーン」誌は、潮流の一角を占めるメディアとして存在した、と考えています。

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1980年に創刊される「on the SEENE オン・ザ・シーン」誌を軸にして、当時の関西の状況を書き上げてみます。オンザシーンに集まった人たちの群、これらの人々の大半は、1960年代の後半から始まるコンポラ写真の系譜を受け継ぐ作風といえばいいかと思います。東京を中心にして、コンポラ旋風が吹いてきますが、その中心メディアは、月刊のカメラ雑誌、そのなかでも多大な影響を与えてきたのが「カメラ毎日」のような気がします。

1975年に始まる「ワークショップ・写真学校」、そこから展開される写真展や、自主ギャラリーの動向が、雑誌を通して関西の若手写真愛好者にも伝わってきます。全国的に均一な表現方法として、カメラ雑誌が果たす役割は大きな意味を持ちます。ある意味、ここでも東京化現象が起こっています。

東京が中心であって、それ以外は地方、東京に情報が集中して地方に広められていく。この図式が写真を取りまく環境にも表れてきます。とはいえ、関西において中心をなしてきたシステムが、アマチュアカメラクラブ。浪華写真倶楽部(1904年~)に始まるカメラクラブの系譜の中から、多くのカメラクラブが林立している状況です。

写真を教える学校、大学とか専門学校ですが、関西、大阪には大阪芸大写真学科、日本写真専門学校(現:日本写真映像専門学校)、大阪写真専門学校(現:ビジュアルアーツ大阪)、その他にもいくつかの写真を教える学校がありました。

写真を撮ることを職業とするカメラマンの人たち。会社所属の人、スタジオを経営している人、フリーで仕事を請け負っている人。いわゆるプロカメラマンの人々。1980年当時の、関西での大きな流れは、アマチュアの人、プロの人、写真学校卒業の作家指向の人、などが混在して、潮流をつくっていました。

そのなかで生まれてきた写真誌「オン・ザ・シーン」は、大阪写真専門学校を卒業した若い写真家が中心になって活動が続けられてきて、若手写真家たちの中心的なメディアとして存在します。現在(2012年)のように、インターネットなどのメディアがなかった時代です。日本の写真1970年代から1980年代を眺めてみると、写真のオーソドックスな潮流として、表現の方法、内容、ともに関西における中心的役割を果たしたメディアでありました。と同時に編集に携わったメンバーが、また、中心的役割を果たすことにもつながってきます。

大阪写真専門学校の教官たち、そこで学んだ学生たち、東京とつながり、東京の潮流を関西において具現化していくメンバーたち。写真というメディアの、時代の中心的プロパガンダーとして、その役割を演じていたと、いい意味で認識しておく必要があるでしょう。

(3)
現時点(2012年)の位置から、1980年初頭の状況を語るとなると、俯瞰して見えてくる流れがつかめます。1980年に大阪で発行された「オン・ザ・シーン」誌、この雑誌を軸に、その前、それ以後、1960年代から2000年ごろ、20世紀後半から終わりまでを、流れととらえてみます。

1960年代後半には、東京で「プロヴォーク」誌が発行されます、この「プロヴォーグ」誌は、いわば新しい世代による、古い質の写真の解体をはらんだ運動ととらえられます。この傾向、作風を含め福岡において「地平」誌が発行されます。この「地平」のメンバーが大阪において、「大阪写真専門学校」の教員として活躍します。「オン・ザ・シーン」誌を発行するメンバーが、大阪写真専門学校の卒業生であることに注目すれば、人脈として、新しい世代の写真解体運動を含めた質を、継承していたと言えます。

日本の写真表現の方法は、1970年前後に、あるレベルにおいて、文学領域を内含するようになったと考えています。その文学の軸となる自然主義から私小説への意識を、写真に持ち込んでくる。つまり私写真、私の見る風景、といった内容の写真群。おおむねそれらはドキュメント手法によっています。この流れは、現在においても紆余曲折はあれども、「ビジュアルアーツ大阪」を基軸として続いている傾向です。

いっぽう、1980年頃には、「プロヴォーグ」以後の、コンポラの流れをくんでいる写真のレベルがあります。写真の被写体と制作態度を、より開かれたものとするように。写真を閉鎖的な場所から開放的な場所へ。プライベートゾーンからパブリックゾーンへ、その後者を担う写真家と写真の群です。

この論文の筆者、中川繁夫による「映像情報」、その後に設立される「フォトハウス京都」。その後には、大阪において畑祥雄氏による「大阪国際写真センター」の設立と行政レベルを巻き込んだ写真講座の実行。1990年代に入ると、「写真図書館」の設立、インデペンデント系写真学校の運営、写真表現大学、OICP写真学校。人が集まり学習し発表していく基盤として、形成されてきます。
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2012年現在において、ビジュアルアーツに学び作品を発表している人たち。写真表現大学等を修了して作品を発表している人たち。その他には大阪芸大写真学科を卒業した人たち、成安造形大学を卒業した人たち、日本写真映像専門学校を卒業した人たち。関西の写真シーンを担う学校の教員、ギャラリー主宰者等、おおむねこういったグループのなかで、活動していると言えます。

1980年代以降は、現代美術と写真という軸が現われてきます。現代美術作家と呼ばれる人たちがカメラを使って作品を発表する。従前に写真と呼ばれていた作品、それとは別に、写真制作の手法に、現代美術のコンセプトが形成されてきます。いま、あらためて、写真とは何か、現代美術における写真とは何か、こういった議論が起こってきてもいい環境だと思えるのですが。

ともあれ、1980年に創刊する「オン・ザ・シーン」誌は、それ以後の写真に作家とコンセプトにおける内容を、持っていたと言えます。

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