中川繁夫の寫眞と文章

中川繁夫の寫眞と文章。撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

カテゴリ: 写真史&写真論集

写真への覚書
nakagawa shigeo  2005.11.24~2005.12.22
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旅をした。デジタルカメラを手にして旅をした。
イタリアを駆け足で旅をした。俗に言う<旅写真>を撮った。
デジタルカメラにはバッテリーが必要で、ボクの手元には海外で使う充電アダプタが無いもんだから、バッテリー消耗まで撮ろうと思っていった。イタリアは、ミラノに到着して、ベネチア、フェレンツエ、ナポリ、ローマという行程だった。

今日掲載した写真は、フェレンツエの街の遠望である。あたかも絵葉書のように撮った一枚である。写真を撮った現場は、朝であった。観光のパック旅行だったから、写真を撮ってベターな場所が設定されていて、ガイドがしきりに写真を撮ってください、と云っていた。ボクは、この場所からの遠望を1カット、記念に妻を立たせて1カット、計2枚を撮った。写真は、デジタルカメラからパソコンに吸い上げ、そのまま無修正のまま、掲載している。

写真は、旅する好奇心を留めておく装置だ。写真の撮られ方のひとつの方法である。1849年、マキシム・デュ・カンはフローベルと一緒に、エジプトを旅し、写真を本国(フランス)へ持ち帰った。1852年には写真集を刊行した。これが旅写真の最初であろう。その後、1世紀半を過ぎたいま、2005年11月、ボクは、同じスタイルで、イタリアを旅したと思っている。写真を撮るのが第一義の目的ではなかったにせよ、同じ行為をおこなった。

遠くのモノを近くへ、見知らぬモノを探して、写真が撮られてきた歴史がある。その延長線上に、今回のボクの写真行為がある。ボクの撮った177カット(ここでバッテリー切れ)は、旅の記録&記憶となる、のだが・・・。これらの写真は、ボクがいま、思考している写真行為とは全く逆方向なのだ。つまり、自分の生活空間の痕跡を留めていく写真行為を試みているからなのだ。

<いま、写真行為とはなにか>
ボクがここに試論するテーマである。その冒頭に、先日イタリア旅行から帰国したボクの撮った写真を掲載した。ここから見えてくる写真行為について、少しまとめていきたいと思う。

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写真を誰のために撮るのか、と問うとき、現在時点では、自分のために撮る、と答えたい。では、自分の、何のために撮るのか、と問うと、それは記憶を留めておくためだ、と答えたい。
外に向かう自分と内へ向かう自分がある。この内外に向かう接点、あるいは接面が写真行為なのだろうと考えている。これは文章作業と軌を同じくする立場だと考える。いうなれば自己認識作業の手段として、カメラという道具を使うと云うことだ。

自分を確認していく記憶装置として、写真が主要な位置を占めている。だれもが持っているアルバム。中学や高校の卒業アルバム。旅行したときの記念写真。それらの写真の被写体となった自分をアルバムに仕舞い込むことで、記憶装置となっていく。
この自分が被写体となった写真から、自分が撮った写真へと、位置関係が変わる記憶装置なのだ。写真行為とは、自分の記憶装置をつくるための手段だ、と云える。

自分とは何か、自分とはいったい何者なのか?この問いは、極めて現代的な問題である。自分の内部で、自分の位置がバランスを失っていくと自覚したとき、自分の中で自分を支えるモノ、それが自分が撮った写真である。あたかも輪廻、スパイラル的に循環する自分の感覚を定置させるモノ、確かな記憶となる写真なのだ。

写真の位置を、このように置くと、旅写真は、おおむね外に向けた自分の記憶となる。では、内に向ける自分の記憶となる写真とは、何か。それは<旅>とは反対方向の位置、<日常>である。
日常とは、家族、友人、生活地場空間などによって構成される<場>である。自己のアイデンティティ、立ち位置の確保なのかも知れない。日常の細部を観察し、見ていく最中で、写真という手段を使うのだ。写真行為を、このように位置付けることができるのではないかと思う。

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写真は、カメラレンズの前にあるものが写る。逆に云うと、カメラレンズの前にないものは写らない。ところで、写真を撮る人間のことを捉えてみると、目の前で見えることのほかに、記憶の像を呼び覚ますことができる。つまり目で見える物と、かって見た記憶がある光景を思い起こすことができる。
それから人間には、感情がある。カメラと人間を対比させてみると、カメラの機能を超えて、人間には<記憶の像と感情>がある。

ここで写真は、人間のカメラ操作によって画像をつくりだす。それも目の前に現存する光景を捉える。そのとき人間の中の作用としては、記憶と感情が入り混じっており、目の前の光景を見て、これをカメラに取り込む。そうして出来上がってきた写真は、記憶も感情もない光景だけが定着されることになる。写真とは、こういう代物だ。

では写真を見るとき、写真の中にある光景を見る。撮影されたとき、カメラの前にあった光景だ。この光景を見て、写真の中にある光景が何であるかを知る。もちろん見る人の見た経験に照らし合わせて、写ったものが何であるかを知るわけだ。そこに光景を記憶とダブらせ、感情を湧かせる。つまり写真を介在として、撮った人と見る人の間に、具体的な物象を介在させて、感情を共有させる。

問題は、ここから始まる。つまり撮る側は、見る側に感情を共有させることを意図しなければならない、ということだ。ボクは原則として、写真を撮り、人に見せることの第一目標は、このことに置いている。写真の被写体にまつわる意味づけの伝達は、その後のことでよいと思っている。理屈が先行することよりも感情が先行することを、第一目標に置いている、といえる。

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ところで、写真を撮り作る人、作家は何を撮ろうかと考える以前に、何をテーマにしようか、と想い巡らす。この回路は、写真を撮る行為だけではなくて、文章を書く、絵を描く・・・等々と同じことだと思われる。写真以前ということが云われる。写真を撮る行為にいたる、その前段の作用のことだ。ここに記憶と想像、論理との符号といった領域がある。その上でなお、感情の交感という目的が目論まれる。

平たく云えば、自分もいる巷の関心ごとを整理していくこと。そこに自分の感情を動かす物体を配置する。たとえば、ボクの場合、グローバル化する世界、とゆう切り口がある。西欧化する世界、とゆう切り口がある。これは抽象化された概念だから、これに値する現実の光景を見定めていく。この文章に添付している写真は、西欧文化の象徴として捉えているモノだ。

さて、巷の中心となる関心ごとに対して、自分の位置を確認する。グローバル化に対してローカル化。西欧化に対して東洋化または日本化。つまりローカル化と日本化。このことが写真を撮る主たるテーマになってくる。そうして自分の感情を見つめてみると、都市の光景よりも農村の光景に惹かれていく自分を発見する。蘭やチューリップといった洋花よりも、椿や桜といった和花に惹かれる自分を発見する。ファーストフードもいいけれど、山で拾った胡桃や銀杏に興味を惹かれる。この惹かれていくときの感情。感じる心がある。

写真にするテーマは、関心ごとが様々であるように、様々だ。そうして選択していく被写体も様々だ。被写体に対して感じる感じ方もまた、様々だと思われる。他人のことは判らない。しかし少なくとも自分の感情は、判る。この自分の感情に従ってあげること。これが撮影現場での、撮影の目安となるのだ。

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けっきょくは、自分に興味があり、好奇心がはたらく場所でしか、写真を撮る気にはならない。これが突き詰めていく先の結論のひとつだ。
写真を撮るという目的に、クライアントから依頼されて撮り、対価を得るというのがある。いわゆる世間ではプロカメラマンという職業だ。広告であれ報道であれ、イメージの移送者として捉える立場だ。あるいはアマチュアカメラマンと呼ばれる人たちが、コンテストに出品を目的に写真を撮る、ということもある。コンテスト応募は、本質として射幸心を駆り立てられる。写真産業という枠のなかで、前者は生産者、後者は消費者としての存在する。

ここで云う写真行為とは、そういったことが派生的に発生する要因はあるとしても、もっとプリミティブな場においてである。何のために写真を撮るのか?と問うとき、キミはなんと答えるのだろう。撮る目的を、自分の内に向ける写真行為・・・。自分形成のための写真。自己認識のための写真。自分に興味があり、好奇心がはたらく場所。つまり自分が知りたい欲望を満たしてくれる場所・・・。

写真の歴史を紐解いて、大雑把なつかみで云うと、自分の外に向けていた対象が、次第に自分に向けられてくることがわかる。社会的な視点から見る風景から個人的な視点で見る風景へ、そうして極私的な視点で見る私風景へ、である。ボクは、すでにこの立場、極視点で見る私風景、という立場にいる。そこから見える風景を捉えていきたいと思うのだ。

ところで、写真というものは、自分の外にある風景(光景)を撮る、ということを根底としている。現実に存在する光景を撮ることでしか写真は成立しない、そういう宿命を持っている。極私的な視点で見る私風景といえども、その宿命から逃れることができない。ここに、<私>という存在と、光景を構成する<モノ>の存在とが出現する。<私>と<モノ>が置かれた場。この場を軸にして、両者の具体的な関係を考えていかなければならないのだと思う。

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<私>と私が遭遇する<モノ>、要はこの<モノ>を捉える、捉える視点というものだ。これを導きだすためには、知識が必要だ。知識は、<理>の論だ。ところで、写真を撮るのに必要な感性、これを直感という。直感は、<理>ではなくて、私の<情>が感じるということだ。理に裏づけされた直感、なんていい方がある。これなんぞは、かなり矛盾を孕んだ言い方だとボクは思う。理は感情を排除する。情は感情そのものだ。そして直感とは、感情が振るえることである。

<モノ>とは、実像である。鉱物、植物、動物、それから、火、水。空とか風とか実像でないものをも含めようか・・・。写真に写った中味のことだ。風は写らない。暑さや寒さが直接には写らないように、風は直接には写らない。写真は、<モノ>が組み合わされて構成されるイメージ体だ。

<私>とは何か。この設問を解くには、かなり難問・難解だ。現代科学が、<私>を生物学的に、物理学的に、工学的に、捉えようとしている。哲学や文学という領域も<私>を捉えることに費やしてきた。としても、それらは理の産物だ。人体の生物学的解明、記憶の解明・・・。パスカルさん、カントさん、老子さん、その他沢山いらっしゃる人間を捉える文化遺産がある。

写真は、おおむね、この科学成果や文化遺産のうえに立った産物であった。カメラという道具を使って、バックヤードにこういった産物を絨毯のように敷きつめて、作りなされてきたものだった。その絨毯のうえに立った<私>が、<情>のところで感じることが必要であった。作家と鑑賞者の共通基盤が、そこにあった。はたして現代写真は、このようにして成立してきたと思われる。
-この章終わり-

写真への覚書-2-
2006.2.7~2006.7.18 nakagawa shigeo
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写真は、視覚イメージです。目で見て内容を確認します。この類には、絵画や版画などがあります。最近なら静止画と呼ぶ代物です。この写真と対置できるのが文章です。文字で記された文書、小説や詩・・・といった類です。ボクはこの写真と文章という基本的二項を軸に、論をすすめようとしています。静止画は、写真だけにこだわらない視覚イメージですが、近代以降の道具としてカメラが出現してきますので、ここではカメラでつくる写真を置きます。

ヒトの表現ツールに音表現があります。音楽です。写真と文章という二項は、表現ツールとしての基礎的形式です。これに音の項として音楽を加えて三項にしてもいいのですが、ひとまづ写真と文章とします。

写真は、その後、映画を生み出し、最近ではメディアアートの素材として、映像が使われます。写真が絵画の発展形だとすれば、映画は演劇舞台の発展形、メディアアートはヴァーチャル空間へと発展した形です。イメージの原形が写真にあるといえます。文章は、文字表現です。一貫して文字表現です。文字は、言語を形式化してきたものですから、音声を原形としています。音声は、音、音楽につながります。

こうしてこの世に、写真と文章という二項が、存在しているのです。文化を創るとか、記録を残すとか、さまざまな側面で、写真と文章が絡み合い、入り子状になって、現代文化の底流にあるように考えています。

ここは、写真学校のフレームだから、写真を軸として、このような項との関係性、反関係性を捉えてみたいと思うのです。

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写真を鑑賞する立場でいうと、写真を観て、内容を読むということをします。読むという表現は、文章を読むごとく、写真に表されたモノが何であるかを認知し、その背後の意味を理解していくプロセスです。このような写真の解読方法を、写真批評というレベルで行うわけです。

先に、写真と文章という二項があると記しましたが、この「写真を読む」というプロセスは、あたかも「文章を読む」という行為に類似しているわけです。写真はイメージそのものだから、むしろ、文章に先行して写真がある、ともいえます。

写真が、言葉や文章に従属している、という見解は、写真を読む、というプロセス上で起こる見解です。写真を見て、言葉で内容を理解していくからです。現代写真は、おおむね、この枠組みのなかで撮られ、発表され、鑑賞されてきたプロセスです。

ところで、写真の情緒喚起力は、感情に訴えてくるものでもあります。言葉ではない直接的なインパクトを、写真は持っています。見た人の情緒を揺さぶる写真です。 写真が言葉や文章を離れて、独り立ちするとしたら、この情緒を揺さぶる、ということに着目することで、本来的写真のあり方が見えてくる可能性があります。

かって情を排除し、理知をベースに写真を作ることが要求されてきた感があります。いや情が無いのではなく、情プラス理知であったといえます。写真の現在的課題は、この情の処理だと思っています。理知に先行して情緒をとらえる。むしろ理知を排除して、情緒を全面とする。そのような写真が、ありうるのかも知れないと思うのです。

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写真を情でとらえるとき、そこには理屈がいらない、とさえ思えるのです。情に根ざした領域で感情に訴える作風というのは、ボクは、世代的に受け入れないヒトだった。もちろん、繊細な日本の美、なんてゆうイメージの、感情領域をさして、いっているんですけれど、侘びとか寂びとか、花鳥風月を愛でる心とか、この領域に心傾けることを拒んできたわけです。

写真が写真として成立する基盤はなにか?、なんて、このような問題を突きつけていたボクがいた。それは論理で賄える領域に、写真を掬い上げようとする作業だったと思います。でも、しかし、感情、情、心情といった心の問題が話題になってきて、理性と対置する格好で、情の重要感が浮上してきている現代です。そのように想って、ぐるりと見回してみると、これまで情は経済社会活動の中心から軽視され、いやむしろそぎ落とされてきたことに気づいたわけです。

いいえ、情を軸とした領域は、エロスの問題でありセクスの問題であり、これらはおおむねその外側に置かれながらも、何時のときも、世に存在し続けてきた領域だったのです。エロ写真家は、重宝されながらも、低い評価しか与えられない時代だったし、エロ小説家は、重宝されながらもアウトローのように扱われてきたのです。

ボクにとっての、つまり情の問題は、直接、間接に、エロス感情の問題にいきついてきたのです。このように思いだすと、戯作といわれている文学や写真が、エロスをテーマにして、その情欲を掻きたてる作用を持っていて、この作用を封じる力が、中心となる社会では働いていたことに気づくわけです。

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写真の中味を、情のレベルでとらえてきましたが、ここでは写真の外見について触れてみたいと思います。写真はカメラという光学機器によって制作されます。現在はデジタルカメラに移行している真っ最中で、ほぼフィニッシュ段階にまで来ています。近年のデジタル環境が引き起こすメディアの変化を捉えるなかで、写真の位置を確認します。デジタル環境のパーソナル化現象です。

写真は静止画です。時間を有しないわけではなく、過去となったある時間帯をシャッタースピードの時間で区切ったものです。それの発展形として動画があります。この動画は、静止画を連続させて、一定の時間帯を保証していくものです。見る側としては、一枚の静止画が見ている時間帯を保証しているのに対して、その時間帯を静止画を連続して見て、動画とするわけです。

メディアは、紙におおむね銀粒子で定着させたプリントから、電子信号によるCTR画面表示へと変わっています。それと通信回路の変容があります。紙メディアから、CTRメディアへの変容です。それにネットワークが加わります。ネットワークの形体は、インターネット・ネットワークです。近年、特にインターネット・ネットワークは、個人利用の傾向を強めてきています。

つまりどうゆう現象が起こっているかといえば、それまで一方的に流されてきたマスメディアが、パーソナルメディアとして、個人が情報を発信できるようになったことです。静止画(写真)から動画(ビデオ)への拡大と同時に、パーソナルメディアとしての情報発信が可能になったというわけです。ここに現在の写真をめぐる外見があります。

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写真について、中味を情、外見をネットワーク環境として見てきて、この関係のなかでどのように成立させていくのか、というのが次の問題です。写真を、コードのないメッセージだと、R・バルトは構造分析していますが、写真は即物的だといいます。写真に撮られた<それ>を読み取るには、読み取るためのコードが必要だというのです。写真の第一義的な意味は、そこに撮られた<それ>そのものです。

ここから派生して言語・言葉の介在が必要となってきます。<それ>が意味するものを位置づける言語・言葉です。これを含めて、写真は意味をなしてきたのです。その写真の意味するものは何か、と問われれば、そこに答えとして用意されるものは、言語・言葉による説明なのです。

写真を<情>のレベルでとらえることは、じつは、つまりこの言語・言葉以前に、写真そのものが放つインパクトをとらえることであるといえます。視覚によってインパクトを受け、情を動かすこと、このこと自体です。ボクは、このことを写真の原点に置こうとしているわけです。

ここで動画を取り上げてみます。動画は静止画を連続させたものであるとしましたが、それを使用するレベルで、音を付属させます。言葉、音楽、自然の音など、聴覚です。視覚と聴覚の喚起により成立させます。この逆用で、スライドショーを組み立てることがありますが、これは静止画・写真を、連続させて動画のごとく展開するバリエーションです。

次に写真の使われ方は、コミュニケーションツールとして存在する、ということです。写真を介して<情>を交換する装置だということです。この交換場として、現代のツールであるインターネット環境を使うというのが、最新のコミュニケーション方法だと考えているわけです。

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ここでは「写真をめぐる外観」と「写真が意味する中味」を、とらえる作業をおこなっているわけです。外観といい、中味といい、時代変遷のなかで、写真の撮られ方や写真家が向き合うテーマなどが、変遷してきています。この時代における変化は、写真の歴史を研究することで解析できます。ここでは、その歴史研究の成果をふまえ、現在写真の置かれた位置・場所を確定させるための作業を行う必要がある、と考えているわけです。

外観でいえば、従前のフィルムによる写真制作とデジタルによる写真制作の方法があります。時の流れは、新しいツールの方向へと進みますから、デジタル写真が主流になります。内容的外観でいえば、ドキュメント手法とアート手法があります。ファッションを含む商業写真・コマーシャルフォトは、ドキュメントとアートの混在手法です。

中味でいえば、写真家の社会と自分への向き合い方です。報道を含む商業写真家は、産業社会のニーズにより、またクライアントの要望により、おのずとテーマや手法が拘束されてしまいます。また社会構造、経済構造の中に置かれている<写真>であるかぎり、社会機能としての<写真>があります。ここでは、社会機能としての写真以前の、自己へ還元する機能としての<写真>について考えていきたいと思うのです。

自己へ還元する機能とは、お金に還元するために写真を使うという目的の方向ではなくて、自己省察のための手段として写真を使うという方向です。あるいは自分が生きることの満足を得るための手段として写真を使うともいえる方向です。情にスポットが当てられ、デジタルが新しい潮流だとすれば、自己へ還元する機能として使う写真は、デジタル環境のなかでの情の表出とゆうのが、近未来に主流的な、外観と中味の組み合わせとなると推定されることです。

-7-補
何のために写真を撮るのか。この「写真への覚書」は、この問題についてアプローチしていこうと思います。まま、写真学校なんぞを運営していると、この「何のために・・・」という疑問を抱く生徒さんがおられるからです。そこで、写真の有用性を整理してみて、その有用性に添って写真制作をすることを、お勧めするわけです。

第一の有用性は、写真を撮ることで、日々の生活を経済的に支えることを目的とすることです。つまり、写真を撮ることでお金を稼ぐ。俗にいうプロ・カメラマンになるという目的です。ああ、このセクションは、すでにこれを実現している人は、対象外です(笑)。写真には、経済活動において需要供給のバランスがあります。だから一定の技術を身につけて、その供給者となるように実現させることです。

第二の有用性は、写真を撮ることで、アーティストの仲間入りを目的とすることです。ええ、アーティストとして、日々の生活が経済的に支えられれば申し分ないんですが・・・。写真を撮ることで、アーティストであるということは、現代アートの枠組みを理解しなければなりません。その上で独自の表現物を作らなければならないわけです。もう、こうなると、写真家という肩書きじゃなくて、アーティスト。アーティストとは何ぞや、とか、アートとは何ぞや、とかの定義は別にして、かっこいいアーティストです。でも、これで生計を立てるというのは、至難の技ですから、学校の先生稼業で生計を立てながら・・・、っていうのが無難かも知れないですね。

第三の有用性は、自分のために撮るということです。でも、芸術行為とか、アートプロジェクトとかいうもの、また写真を撮る行為というのは、人に見せるということが、実は前提にあるわけで、基本的に自分のために撮る、なんていうことは現代社会の構成員としては言い逃れに過ぎないのです。そこで、自分の好きな人に見せて自分を認めてもらうために、写真を撮る。これを基本において、見ず知らずの人に見てもらえて、自分の存在を認めてもらう満足を得ていくということ・・・。

まあ、何のために写真を撮るのか、という質問に対して、有用性、つまり役に立つという視点から、その目的を三つに分けてみたのが、この項です。写真学校は、この三つの有用性を自分のものにするための器です。でも、普通、そこで学べるのは、社会の枠組みや歴史を理解することも含んだ技術習得です。でも、これですっきり、何のために写真を撮るのかということが解決する、というわけではありませんね。だから、ここでは、これから、このすっきり解決しないところを、ああでもないこうでもない、と書き進めていこうとしているのです。

-この章終わり-

写真への覚書-自己表現論-
2007.2.6~2007.3.2 nakagawa shigeo
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<はじめに>

お花の色形をみていると、それはそれは様々な色と形があるんやなぁ。 お花屋さんの店先に並べられた春の花鉢をみながら、ふっと、あたりまえなことが不思議なリアリティをもって、ぼくの中で驚異させられてしまったのです。そりゃぁ、花だって、それぞれに競っているんや、生存競争なんや、自己主張してるんや、なにより愛されたいと思っているんや・・・。たわいない思いではあるのですけど、ぼくは花がそれぞれに自分を表現しているんだと思ったわけです。

そうすると人間において、自分表現することって、どうゆうことなんやろってたわいない疑問が生じてきて、ぼくを悩ましはじめたわけです。そこで行き先未定のまま、自己表現について、あれこれ呟いていこかなぁ、なんて思って、この標題をつけてみたわけです。とゆうのも、やっぱり自分のあり方の基本的な問題だと思っているからだと思いますけど、問題を解決するには、わけのわかったようなわからないような、評論とゆう手をつかうしかない、これも自己表現の一種ですね。

ぼくとゆう個体があって、ぼくは多くの他人という個体と接しているんです。この他人さまとは一口に言っても、さまざまな関係の質があって、それぞれに分類されていて、身内関係とそれ以外。身内関係でゆうと、ぼくの彼女、ぼくの子供、ぼくの親・・・。彼女の兄妹、彼女の親、彼女の親戚・・・。まあ、この身内関係はいったん置いとくとして、それ以外の関係。つまり他者中の他者にたいして、自分をどのように表現するのか。そもそも表現とは何か、そしてこの表現の形式を、ぼくは芸術作品と呼ばれている制作物を介在した形を思い浮かべて、その作品の内にある作者の論を書きたいと思っているのです。

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<表現ツール>

自分を表現することは他者とコミュニケーションをとること、情報を交換することです。日常的には言葉を使います。言葉は音声です。言葉はその場で消えてしまいます。なので書き記す文字を使います。これらを文字ツールとします。それから、音、音声以外の音、楽器を奏でたり歌ったりする、ここでは楽器を奏でるなどを音楽ツールとします。そして絵画や写真、そこから派生する映像などを、画像ツールとします。

こうしてみると、表現ツールには、文字、音、画像の三つがあることに気づきます。それぞれに一定の形式を含んで表現物として作られて文学作品、音楽作品、絵画・映像作品となります。自己を表現する、それも日常生活の欲求を満たすためのコミュニケーションから離れて、自己の内側にある<なにか>を伝達する手段として、作品をつくりだしていきます。

表現するという自覚をもって、表現ツールを使って、自己表現をする。ここでは、自覚をもって自己表現するというレベルを想定して、出来上がってくるモノを作品と名づけます。いま書いているこの文章は、ここ、このブログのフォーマットに収められて、絵画をカメラで撮った画像と共に、他者に向けて発信しています。文学作品でもなく、音楽作品でもなく、絵画・映像作品でもなく、でも文字と画像を使ったモノ、形式については後述しますが、これは評論形式です。

※陶器や彫刻等立体作品も念頭においていますが、ここではひとまづ三つのツールの外側に置いておきます。

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<表現形式>

文学にしろ音楽にしろ画像にしろ、それぞれに固有の形式があります。表現することは、おおむねこの形式に基づいて作っていくことが求められます。形式は外枠であり、内容を表示するための仕組みだといえます。また、その形式は、時代とともに変化しています。文学なら古文から現代文へ、音楽ならクラシックからモダンミュージック・ポピュラーミュージックへ、画像なら具象絵画から抽象絵画へ、正確な記述ではないですが、ざっと大きな流れとしては、このように変化・変容してきています。

文字を連ねて文章を書く。そこには文法があり、一定の規則に基づいて制作していきます。また、音楽には、おおむね音を奏でるための楽譜があり、一定の楽式に基づいて制作します。絵画や写真画像にも、一定の基本構図などがあります。このように列記していくと、表現のための外枠、形式があって、自己表現を生成させていくためには、これらの形式に準じる必要があります。破格、これまでにない形式、新しい表現形式。このような言い方をされて、新しい形式が認知されることがあります。でもこれは、すでに認知された形式があるからです。

形式は形式であって、内容そのものではないのですが、表現される実体は、形式と内容の相互作用でもあるのです。ここでの目的は、自己表現のための基礎概念を明確にしていく作業です。そのことを念頭に置いて、表現の外枠として一定の形式がある、と認識すればいいと思います。

※ここでは、形式、内容、それに実体、概念、という単語を使っていますが、追って、形式とは、内容とは、そして実体とはなにか、概念とはなにか、ということに言及していきたいと考えています。

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<自己表現とは>

自己表現するには、ツールと形式が必要だと書きました。自己表現とは、文字とか音とか画像を使って、一定の形式にしたがって、自分の考えや思いを込めていくことだといえます。人間の人間たる由縁は、考える動物であるところにあります。生きている環境から様々なことを学び、学びによって自分という器を確立していく動物なのです。文字による伝達、音による伝達、画像イメージによる伝達。ぼくたちは、特定の他者や多くの他者に、コミュニケーションの手段として、ツールと形式を使います。

記憶を持ち、何かをしたい、何かをしてほしい、という欲求を持つのが人間です。この欲求を満たせるために成す行為が、自己表現だと考えています。芸術行為といわれることがあります。文学、音楽、絵画や写真、その他諸々。これらの枠組みで成される形式で、特定の他者または不特定多数の他者へのメッセージとして発せられるものが、自己表現された内容なのです。

さて、自己の欲求を実現するためだという<自己表現>なのですが、ここで問題となるのは、自己の欲求の何を、どのように実現するのかという内容と方法のことです。様々な欲求があり、そのなかの、どの欲求を、様々なツールと形式の、何を使って(組み合わせて)実現するのか、ということが必要なわけです。制作されるモノがすべて、自己表現の産物だとは、ぼくはとらえていないのです。芸術行為の結果生み出される自己表現物には、明確な目的意識と、目的意識の達成がなされていることを、求められていると考えているのです。

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<他者との接点>

自己あるいは自分を考えるとき、自分という存在の外にあるものの総体を、ここでは他者と名づけます。 また、自己というとき、ここでは自分の内面のこと、つまり精神、心をいい、自分というとき身体と心の総体をいうことにします。他者との接点とは、自分という存在の外側にある世界です。表現することとは、この他者・外側世界を、自己に取り込み、他者・外側世界へ返していくことに他ならないわけです。

この他者をどのように捉えるか、どのように考えるかという作業を通して、自己なりの解釈を加え、表現手段を使って制作し、他者に返していくこと、その中に自己表現という質的なものが含まれると考えられます。着目の仕方には様々な方法がありますが、基本として、他者という存在を抜きにして、自己表現は成立しないものと考えます。

たとえば、三歳児がカメラを持ってシャッターを切る、あるいは画用紙に絵具を塗る。この場合を想定してみて、はたして三歳児の自己表現と呼ぶかどうかという問題です。もちろん三歳児とて、自己欲求に基づく行為の結果として表されるとしても、ここでは、一般的にいう自己の確立が成されていないので、ここでは自己表現とは言わないことにします。このように考えて、自己表現とは、自分を他者との関係において、相対的にみることができる立場の自分が、表現ツールを使ってなすものなのです。他者との接点を意識して見る。この見方が重要な要素になると考えているのです。

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<他者との接点-2->

自己の外にあるもの、他者。それらと関係を結ぶ点、あるいは面を、接点あるいは接合面と想定すると、この接点とは、自己の興味によって意識化されてきます。様々な接点があります。世界の出来事、政治や経済に関わる出来事から、ご近所の出来事、友だちの、家族の、出来事、自分自身の出来事、マクロな場所からミクロな場所まで、様々な出来事が同時進行して、他者情報が自己に伝わってきます。出来事は、具体的な事象で、目の前に現れてきます。

直接に視覚に捉えられることもあれば、テレビや新聞・雑誌、最近ならインターネットサイトなどで、様々な、リアル、バーチャルを問わず、情報として自己に入力されてきます。自己は、経験に基づき、入力されてきた情報に意味を与えて、処理します。世の中に、大きな概念、小さな概念、その概念にそって自己に情報が入力され、概念にそって意味をみいだし、意味づけ、自己とのうちに関係つけていきます。

自己表現とは、そのような他者の情報を入力処理し、意味にそって、自ら概念化していくことにつながります。表現する対象を、どのように選ぶのか。選んだ対象を、どのように概念化していくのか。この対象の選択と概念化プロセスを、どのような道具と技術を使って、まとめていくのか。その結果として、自己表現物という形式のなかに、自己表現そのものがみえてくるものなのです。自己表現物は、他者(ここでは具体的な他人)とのコミュニケーションツールとなるのです。自己表現物に社会性を帯びさせるといいますが、これには自己と他人が、共通の概念枠を持っていること(あるいは持たせること)が前提条件になります。

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<自分ということ>

我思う故に我あり、とは古典的名句であり、ここでは、思う・考えることで自分がある、という立場です。でも、これだけではスパイラルで、解決の糸口を見出せないので、少し<自分>ということにこだわってみたいと思います。<自分>とは、身体をもった個体で、この身体を養うために、食料を補給していく必要があります。そうでなければ死滅してしまう宿命を持っています。それと俗に心という代物です。心を、精神と云ってもいいわけですが、心とは、精神と情が混在している状態をいい、精神とは、情を含まない部分だと、ひとまず記しておいて、<思う><考える>という作用をさせる自分があり、情・感情を持つ自分がある。

この場合、思う・考えるという作用は、生まれてきて、学習してきた結果としての作用です。知覚、触覚、臭覚など、身体が他者との関係において感じる、つまり入力される情報を積み重ねて記憶という装置にしておいて、それら情報を駆使して思う・考える作用をおこなうことです。現在のヒト・人間という個体には、一般にはこの装置が備わっていることを基本条件として、思い考えることをします。自分という個体を、そういう学習において、相関的にとらえること。つまり、自分と他人の区別をつけて、自分をとらえることができるのです。他人・他者との違いを知り、自分特有の個体像をつくること。これが自分という認識です。

それと混在する情・感情というものが、思う・考えることで認識されます。情・感情は、学習によって得られるものではなくて、身体器官の動きに由来するものだと考えられています。情・感情は、意識するか否かは問わず、身体があることと対になった気分です。自己表現とは、意識する自分を、形式ツールを介在させて他人に伝えていくことですから、この情・感情を伝えるためには、ふつう、言語によって、楽しい、悲しい、嬉しい、淋しいなどと表現します。

このように自分ということの中味は、思う・考えることを<知>、情・感情を<情>、つまり知と情が混在してあるもの。このように解釈していいかと思っています。思うところ、自己表現とは、この自分の中味の知と情を、どのようにして他者に伝えるか、ということになるのです。とはいえ、なおかつここでは<自分>ということが、まだつかめていない概略なので、再々、この自分をみつけるための作業を、登場させることになると考えています。

-この章終わり-

写真への覚書-写真表現論-
2007.3.17~2007.6.19 nakagawa shigeo
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<はじめに>
自分表現のツールとしてカメラをつかって画像をつくる行為。つまりカメラをつかって作られた静止画像が、写真という表現媒体だと考えて、この写真という代物と自分表現との関係を探っていくのが、この論の目的です。ここでは写真を、経済システムのなかに投入する、ということは別にしておいて、自分の表現、つまりコミュニケーション手段として写真をつくる枠組みを、自分に引き寄せて考えてみようと思うのです。

写真は、原則としてカメラの前にある光景を複写します。写真を撮る人は、原則としてカメラの前にある光景を見ています。人間の眼球は、カメラ装置と同様の働きをしています。ただ違うところは、人間の眼球を通して認知した光景は、記憶として内在化されるのに対して、カメラ装置はフィルムであれメモリーであれ、他者にも見える形に仕上げることができる。つまり、自分が見た光景を、写真として再現することができる。

写真表現とは、自分が見た光景を、写真という静止画像として再現することです。この論では、自分が見た光景を写真に再現するという、自己内部におけるプロセスを、自己の側にひきつけて捉えていこうと思うのです。つまり、カメラ装置があって、この装置を操作する自分そのもの、そして自分と他者との関係、その軸となる意味と価値、そこらへんを論に仕立てられたらいいな、と思うところです。

-2-
<カメラは見たいものへ向かう>
なんてったってカメラを向ける先には、自分が見たいと思うものがあります。覗き見たい欲望を実現する道具としてカメラ装置があるんだ、といっても過言ではないと思っています。自分が興味あるモノ。興味あるモノに惹かれる。この興味あるモノ自体は、ひとにより様々だとおもいますが、商売でつかうわけではない写真を撮ることは、興味あるモノへとむかえばいいのだと思います。風景であれ、人であれ、イベントであれ、おおむねカメラを持つ以前の自分の興味に、忠実になればいいのだと思います。

カメラを向ける被写体というのは、まづ、自分が興味を持って惹かれる被写体が前提です。そうして興味ある被写体がみつかれば、次のステップが、技術的処理です。興味ある被写体を包み込んでいる意味を、テーマといえばいいかと思いますが、テーマは興味に優先するものではなく、後発的なものです。つまり、興味ある被写体を、社会的意味と価値によって形成することが、テーマの生成につながるのです。

自分の興味は、おうおうにして時代の風潮や流行に重なります。理屈上は、このように重なるといえますが、実際の撮影にあたってそこまでを論理化するのは、難しいと感じています。ですから時代の風潮や流行を感受する自分の直感を優先して、興味ある被写体へ向かえばいいのだと思います。直感とは、何もないところから興味そそられて感じるものではなく、時代の風潮や流行が反映するとの想いがあるからです。

-3-
<見えるものと見えないもの>
見たいものへ向かうといっても、見たいもののなかには、目に見えるものと見えないものがあります。たとえば記憶の像は目に見えないし、神や仏も目に見えないものです。つまり写真にすることができるのは、リアルに存在する物質をしか写真にできない宿命があります。写真表現なんてゆうのは、ある意味、見えないものを見せようとする行為なのだと思います。このような言い方をすれば、人間の心なんてのも見えないものです。

表現するということは、目に見えない尽くしの世界を、見えるもの尽くしの世界をもって、見させようとする行為、一言でいってみれば、見えないものを見せることだと思います。表現の方法には様々な手法がありますが、ここでは文章表現と写真表現を隣接する表現手段としてとらえていきたいと思います。つまり、写真に現わされたリアルに存在する物質を、言語によって補足する、あるいは補足されることで、全体の意味を指し示すことなのです。

見えないものを見せようとすることの得意分野が、言葉であり文章であるとすれば、写真は言葉および文章の補完物としてあることになります。この逆もまた成り立って、言葉および文章は写真を補完するともいえます。最初に言葉ありき、とされる理の世界にあって、写真を単独で、つまり言葉や文章の介在なしに、独立した領域として在りえさせるためには、どうすればよいのか。これが写真表現の今日的あり方を模索する目的です。といいながら、これは文章に拠っている論です。

-4-
<聖なるものと俗なるもの>
自意識の構造を思うとき、世の中にはいくつものグレードがあって、聖なるもの、俗なるものという区分にしたがって、自意識がなりたっていることに気づきます。聖なるもの、聖なる心とゆうのは、人様にお見せしてもよい領域であり、俗なるもの、俗なる心というのは、人様にお見せすることがはばかれる領域です。つまりモラルという線引きにおいて区分される<聖・俗>二つの領域が、写真表現の向かう領域だと考えています。

聖なるものとは晴れの場、俗なるものとは穢れの場。このようにイメージしてもいいかと思いますが、聖なるものは公然、俗なるものは非公然。見せたいものと見せたくないもの。写真表現の被写体軸は、この聖なるものと俗なるものの二軸です。写真表現のプロセスが、見えないものを見えるようにする、あるいは未分化で意識レベルに浮上しないものを整理統合して意識化させる浮上行為だといえるかも知れません。

見せたくないものを見たいと思う心があります。聖なるもの、俗なるもの。この俗なるものを見たいと思う心があります。おおむね近年の写真は、この俗なるものを表現しようとしてきたようにもとらえています。聖でもあり俗でもある性表現領域において、これは顕在化されてきていると認識しています。残された未知の領域、人間の心の領域を解き明かす表現領域として、それはあるように思います。

-5-
<アーバンとルーラル>
写真に撮る被写体を、目の前にひろがる風景のなかに求めるとき、ぼくは、立っている位置から二つの軸先をみようとしています。見えるようで見えない日々のあり方を整理して、アーバン・ライフ軸とルーラル・ライフ軸に分けてみようと思ったのです。アーバンとは都市、ルーラルとは田舎、アーバン・ライフとは都市生活、ルーラル・ライフとは田舎生活。自分の日々生活と意識のなかに、この二つのライフ軸が、雑多に混在していることに気づきます。

ぼくが成そうとしている写真制作の一つの方法には、プライベートドキュメントという領域に則していこうと思っているわけで、その背後になんらかの意味を嗅ぎとってもらおうとの魂胆があります。写真に意味を語らせる、意味を語らせない。<意味>優先と<情>優先とでもいえばいいかと思うのですが、いずれも他者との交感作用をとらえようとの魂胆でもあるのです。意味を語らせるとすれば、世のありようを整理して、ひとつの方向へと向かわせる必要があります。

写真は世の中に生起する現象の表皮です。アーバン軸は都市の光景<町風景>、ルーラル軸は田舎の光景<里山風景>、とまあ便宜的に区分しておこうと思います。なによりも入り口を整理しておきたいと思うからです。しかしテーマにとって、この区分、分類は便宜的であり、本質を語るものではありません。というのも、プライベートドキュメント(まだ確かな定義がなされていない写真のあり方)を指向するけれど、その表皮ではなく、そこに営む生活者の心のあり方を表したいとも思うからです。

-6-
<都市軸と自然軸>
写真表現するための被写体を考えてみると、目に見えるモノとして、大きくは宇宙・地球を構成している物質世界があります。人間の手が入っていないナマのままという領域から、人間の手によって作られた人工の領域があります。写真表現というとき、カメラで定着させる素材としては、この全てが素材とすることができます。写真表現の中心点は自分です。表現するということは、自分の意図を伝えることが目的です。この表現意図が明確であるかどうかは、自分の認識を具体化させられたかどうかということに尽きると思います。

写真表現の歴史を紐解いてみると、見えないものを見させようとしてきた歴史だと理解します。見させるということは、目に見える背後に、二次的な意味を形成させる要素が必要になります。つまりその写真の中に込められた意味です。意味とは、説明できる内容です。他とは区別して、それが特異であることを、あるいは一般・典型であることを理解させる内容です。これを手がかりにして、現在的素材として整理してみると、自分の居る場所から、一つの方向軸が都市、つまり人工物によって形成された風景といえばいいですね。そうして反対軸が自然、つまり人間の手が加わらないままに形成された風景といえばいいですね。

カメラ装置を使って制作する写真でもって、何を表現するのか、何を意味させるのかの問題を解く鍵として、都市と自然という対置法が選択する素材を明確にさせてくれると考えています。問題の中味は、現在、巷で問題化されている問題、おおきな背景としての環境問題、現代人の心の問題、これらに言及していく手段として、写真を使うということです。ぼくは、この方法というのは、オーソドックスなドキュメント手法、現実素材から見つけるドキュメント手法だと考えています。

<この項おわり>

写真への覚書-私風景論-
2007.5.9~2007.5.26 nakagawa shigeo
R0012130A
私風景論-1-

通りすがりのスナップで、町中や神域をさまよいながらシャッターを切ります。やっぱり人のいる光景に興味がわいて、通りすがりに人がいる光景を撮ろうとしている私がいます。そうしていったい、この心境はなにかと問う私がいて、私の風景を探りはじめています。

写真を撮る行為の一つに、目の前にある光景を掠め取る、ハンター(狩人)の心境を表現する手法があります。密かに覗き見て集めるコレクター(採集者)の心境だろうと思います。この手法は、おおむね禁じ手として認識してきた手法なのだけれど、それをあえてやってみようとの試みです。

私風景論-2-

人の心のなかは、男は女に、女は男に傾斜していくものだと思っています。ぼくは男だから、女に傾斜していく、ごく当たり前の心境だと認識します。ところで人には理性という概念があって、男が女に、女が男に、容易に近づいてはいけないとのお達しがあって、その代弁として小説や写真等の映像が供給されているのです。いいえこの論は単純化した心理の原点であって、現実は迷路のような、いくつもの回路が組み合わされて、私のまえにたち現われるのだと思います。

私風景論-3-

見る、見たいという欲望が、いまや宇宙の果てから細胞内部の微粒子までをとらえるようになった映像世界にあって、ぼくが持っているデジタルカメラは、そのベクトルの一部をしかとらえられないので、その範囲で見る、見たい欲望を満たしていこうと思うのです。ここにあるのは、演出ナシのリアルな現場を、フィクション化していく写真作業です。

私風景論-4-

神という存在は見えないものらしい。まるで人の心と同じやなぁと思います。ボディがあって衣装をつけて、それらしく着飾らせてもらっている社ですけど、ボディにつけられた扉を開くとなにがあるんでしょうかね。 

私風景論-5-

ソーシャル・ランドスケープという概念があります。社会風景と訳せばいいかと思います。そういうレベルでいえば、パーソナル・ランドスケープ、私風景をその流れのなかで想定しているわけです。もう古びたアルバムを開くように、私風景という概念も新しくはないです。ちなみにその後にはプライベート・ランドスケープなんて概念がでてきますが、パーソナルとプライベートの境界線は、被写体との関係に基づいて、赤の他人か身内レベルかということにしておこうと思います。

私風景論-6-

社会風景にしろ私風景にしろ、基点は個人から見る視点です。撮り手は抽象的な立場ではなく、撮り手個人の具体的な立場での価値判断です。私の個人的興味に基づく被写体選び、このように言えるかと思います。そうするとぼくの興味は、・・・・ここに羅列する被写体への興味ということになります。たわいないといえばたわいないことです。

私風景論-7-

社会のありようへ意味を示すというのでもなく、個別の関係があるというのでもない位置で、写真イメージを示すことは、理知の領域というより感情の領域に属することだと思います。

私風景論-8-

1978年の夏に、ぼくは私風景論と題した文章を、手がけたことがありました。写真を撮る心の内部、心の動き、今流でいえば情動といえばよいかとおもいますが、これを知りたいと思っていたような記憶がよみがえってきます。それから30年の歳月が経過したいま、何とはなしにつけたタイトルが<私風景論>です。いまさら何を論じようとしているのだ、との声が背後から聴こえてくるような気持ちです。

私風景論-9-

年老いてきているせいだと思うけれど、どうも若さとか美しさというものに惹かれてしまいます。それに先行きどれだけあるのか不安な心境で、神とか仏とかの領域に足を踏み入れている私を発見します。俗にこの世という現世において、惹かれていくままにカメラを向けているという、正直な心境です。

私風景論-10-

注連縄と書いて<しめなわ>と読みます。てっきり締め縄、閉め縄かと思っていたらそうではないらしい。神話を教わる時代に生きていないから知らなかった、では済まされませんか。注連縄は神域と俗域を区分するものであるらしい。その起源は、天照大神が天の岩戸に隠れてしまって暗闇になったので、彼を引っ張り出そうとドンチャン宴会をやってストリップショーになって、顔を出したところを引っ張り出されたといいます。そうして戻れないように天岩戸に張ったのが注連縄だというのです。これが起源で、そうかぁ、天照は男であったのですね。 

私風景論-11-

そのころ千本通りの今出川から中立売までとゆうのは、ぼくの唯一の繁華街でした。繁華街とゆうのは悪の温床であって、子供がひとり、あるいは友だちと徘徊するのは禁じられていた場所でした。小学生のころは親と一緒に行くところでした。スター食堂ってレストランがあって、Aランチ、Bランチ、そのどっちかを食べた。大阪屋という食堂があって、ここは和洋折衷、うどん、丼、それにカレーライス・・・。
西陣京極の入り口にマリヤという喫茶店があった。どっちかゆうと甘党喫茶で、甘いぜんざいが名物のようでした。いやはや半世紀まえ、1950年代のはなしです。

私風景論-12-

学校行事に修学旅行という宿泊付き遠足があります。ぼくの小学校6年は一泊二日の伊勢神宮参り、中学3年は二泊三日の東京参り、そして高校2年には九州旅行で4泊か5泊でした。伊勢行きは蒸気機関車が二台で引っ張る鉄道でした。東京へは希望号とゆう修学旅行専用電車でした。九州へは別府まで汽船、そっからは汽車に乗り継いで宮崎、鹿児島、熊本・・・と回った記憶があります。それは東京オリンピックの前の年だから1963年のことです。冷たい記憶です。

私風景論-13-

若い頃ってゆうのは自己没頭、まわりが見えない、それでいいのだと思います。そこそこに分別がついてきたり、年喰ってくるとまわりを気にして鉄火面のようになりますね。いやはや、それ以上に年を喰ってくると、怪人二十面相であったり明智小五郎であったりする。谷崎に瘋癲老人日記なんてのがあるけれど、なんかまねごとしてるんかなぁ、羞じも外聞もあったもんじゃないとは思うけれど、世間体ってのがあるらしい。

終わり
nakagawa shigeo

写真への覚書-写真の被写体論-
2007.5.29~2007.6.18 nakagawa shigeo
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写真の被写体論-1-

ぼくたちはめったやたらに写真を見る機会があって、日常のなかに溢れているわけです。そのなかでもイメージキャラクターとして女性を被写体とした写真が溢れています。世の女性にははなはだ失礼な話しではあると思うけれど、女性が被写体となる写真の類は、おおむね男性の視線を意識した写真です。

写真史的にいえば、1970年代に入って、篠山紀信は若いアイドル写真を発表し、1973年には大丸デパートで「スター106人展」を開催します。それ以前のプレーボーイ誌以降、ピンナップ写真が商業レベルで続々と提供されます。ここではおおむね男は見る、女は見せるという関係が成立しています。一方で荒木経惟は、無名の女の子を被写体に写真を撮ります。

アマチュアカメラマンを集めてのモデル撮影会が盛隆するのも、この時期で、若い女の子が被写体になり、男性カメラマンが写真を撮るという構図が確固たるものになりました。こうした背景には、カメラ関連産業や出版産業界が、商業イズムを軸にしてバックアップしているわけです。そうして現在のデジタル環境に至ってきた女性被写体です。

写真の被写体論-2-

目に見えるものは何でも写ります。光のあるところ、目に見えるところ、ところで最近では、人間の肉眼では見えないようなモノが、写真の被写体になります。電子顕微鏡レベルで、天体望遠鏡、電波をとらえて画像に構成する。宇宙の写真とか、人体ミクロの写真とかですね。

とはいえ、ここではぼくが持っているデジタルカメラにおいて、被写体となるモノについての論にしようと思っているのです。カメラはキャノンのデジカメです。水中に入れることができないし、身体に入れ込むこともできないカメラです。焦点距離は35ミリフィルムカメラ換算で、35ミリから100ミリまでのズームです。

目の前に現われたる事物は、その範囲で、何でも撮ることができます。何でも撮ることができるとは言っても、興味あるモノしか撮らないわけで、興味あるモノが全て撮れるかといえば、撮りたくても撮れない被写体もあります。カメラには鉄則があって、現物、目に見える事物しか撮ることができないのです。

写真の被写体論-3-

大きな話しだけど、宇宙を構成する物質を思うことがあります。もちろん現代文化のなかで培ったぼくの知識のレベルで思うわけです。無機質な塵が集まって物質が造られてきた。その一つに太陽系地球があります。地球には無機物と有機物があります。太陽の光があり、水があり、空気があり、鉱物があり、そうして生命体があります。生命体は植物と動物にわけられ、多種多様な形態です。

それら全てが、目に見える範囲で、ぼくは写真にすることができるわけです。それらのなかで何を撮るかは、様々な制約のなかで選択するわけです。空があり、地面があり、空と地のあいだに空気があり、雲があり、海があります。地面には、植物があり動物がいます。多種多様な植物があり、多種多様な動物がいるのです。これらはいずれも、写真の被写体としてとらえることができますね。

写真の被写体論-4-

写真の歴史って170年ほど(1839年発明特許)ですが、誰でもがおいそれと行けないような遠い処へおもむいて、写真にしてきた歴史があります。まただれもがおいそれと見ることができない希な現象を写真にしてきた歴史があります。そのうち特別イベントを写真にしてきます。報道領域なんかはその最たるものです。商業広告宣伝の領域においてはファッションであったり、写真をピンナップ目的とするアイドル写真などがあります。

こうしてかなり極端に外観してみると、写真の被写体にされてきた事物は、遠くの事物、希な現象、特異な現場、購買欲をそそるイメージ、所有したい欲望を満たす代弁。このようにまとめることができそうです。ぼくも含め、世の写真愛好家たちは、この外観に則して、被写体を求めているのだと思います。さてさて、これでいいのかな、天邪鬼なぼくは、この流れ、外観にたいして、それでいいのかな、なんて疑問符をつけてしまうわけです。

写真の被写体論-5-

これも特段に新しい考え方ではありませんが、おおむね写真の主流となる歴史に反抗していけば、どのような被写体選びができるのかです。遠くのものを近くに、というなら、近くのものを近くで、との論です。そうですね、日常生活空間とでもいえばよろしいでしょうか。ちょっと買い物に行ったり、散歩したり、なになに家の中があるじゃないですか。つまり写真の被写体を、勝手知ったる生活空間にあるものとしていく論が成立します。

日常の生活空間で希なる現象に出会うこと、これはあります。朝に射しこむ光の群れ、夕暮れに窓の外が夕焼け、日常生活のなかでの希なる光景です。これは採用しよう、日常生活における希なる光景。でも大半は、ごくごくありふれたことの繰り返しが日常生活というものだから、日常生活空間のなかで、遠くのものを近くへ引き寄せることが必要です。意識しなかったことを意識すること。この作業が、意識しなかった遠くのものが、意識することで近くに寄ってくるということです。

写真の被写体論-6-

写真を撮ることの目的として、人に見せるために、ということがあります。自己顕示、このようにとらえることができます。もちろん写真を撮って売ることをプロフェッショナルだとすれば、このプロフェッショナルは、買われることを意識しなければなりません。いやいや、写真をお金にすることは、クライアントがいてユーザーがいて、その求めにしたがって写真を撮ることが大半です。ある種、これは写真の制作技術力が備われば、撮る被写体は他から要求されるので、その要求に従えばよろしいのです。

写真作家というレベルは、そのクライアントとユーザーに優先されるレベルでなくて、俗っぽくいえばクライアントとユーザーがあとからついてくる。そういえばカメラマンをしている多くのプロフェッショナルが、自分の意思のおもむくままに写真を作りたいというのを耳にしてきました。つまり、自らの意思によって被写体を選びたいと思っているわけです。自らの意思というレベルは、俗に言えば好きな被写体を好きなように撮りたいという欲求です。

写真の被写体論-7-

人間の欲求、優先順位は、食欲、性欲、自己顕示欲、こんな順位かと思うところです。写真を撮る行為が、この欲求に根ざしているものとして論をすすめると、被写体としては、食べ物の類、性欲対象の類、自分を良く見せたい類、としてとらえることができそうです。カメラは実在するものしか捉えることしかできないし、写真はカメラが立ち会ったその時にしか作ることができない代物です。

食欲を満たすためには食べるわけですが、食べるモノと食べる場所はバリエーションがあります。写真において欲求が満たされるものではありませんが、これをカメラにおいて捉え、写真にしていく。性欲においても写真が欲求を満たしてくれるのではありませんが、写真が代用物となることはままあると思います。それに自己顕示、ほれほれ見てご覧、こんなの撮っちゃったよ、いいだろ!、なんていえる相手がいて、相手がうんうんすっごいねぇ、なんて感心してくれることを望むわけです。  

写真の被写体論-8-

カメラを持った自分が、被写体とどのような関係を結ぶのか、という問題があります。クライアントの求めに応じてカメラを持つ時には、あらかじめ設定された枠組みで被写体を撮ることになりますが、クライアントがいない場合、つまり、自分が選択していく被写体との関係です。写真を撮るということは、その場所に立ち入っているわけで、被写体と<何か>を共有することになります。遠い関係、近い関係。この遠近関係でいくと、なるべく近い関係を被写体に求めたいとの気持ちがあります。

ソーシャルランドスケープからプライベートランドスケープへと移行してくる写真の視点で、人物写真の場合、なるべく近場で、家族とか恋人とか、そういう現場で被写体を求めてきたわけですが、その関係の証が目線だと考えています。目線とは、被写体の見ているモノが何処にあるか、です。その目線がカメラを見ている、つまり自分を見ているという関係です。一人称と二人称の関係が成り立つ関係です。このことが最終レベルであるというには、異論がありますが、日常の関係を写真に求めるとき、自分に向けられた目線というのは、重要なポイントだと考えます。

写真の被写体論-9-

スナップ手法による写真は、ある一過性現象の外皮を写真像として定着させます。それだけでは意味とか価値とか、その現場に付随するものは表示しないものです。意味とか価値の概念は、言葉による概念です。写真が提示されたあとの後づけです。もちろん、この後づけの意味や価値を事前に用意しておいて現場と向き合うわけですが、写真像として定着されるのは、現場にあったモノ、それがあったことを表すだけなのです。

意味と価値、つまり言葉にべったりへばりついた写真のあり方に対して、プロヴォーグの同人は、異議申し立てをおこなったわけだけれど、その是非にむけて、ここでは再検討を試みようとしているのです。画像の解体、画像にまつわる意味の解体、無意味あるいは無価値なものにすることが、けっきょく新たな意味を生成しだすジレンマに陥ってしまうのです。ただし、ドキュメント概念の「場所・日付」を取り外したところに生じる新たなる意味であった。このように括ってみて、そこから何を今に引き寄せられるのか、ということが問題となるのです。

写真の被写体論-10-

この論を組み立てるために掲載している写真被写体の中心は、大半が人間、それも女性、あえて若い年代の女性が主体です。カメラとの距離、カメラに対する目線、それらの構図によって、遠近を感じさせます。遠くにあるモノが小さく、近くにあるモノが大きく見えるという遠近感にとどまらず、撮影者と被写体の位置関係における遠近が感じられるのではないかと思います。若い女性が選択されている理由は、撮影者が男であり、それなりの高齢者であることに拠っています。つまり撮影者の興味による選択です。

カメラのこちら側にある視線は、見る側の視線です。カメラのむこう側、つまり撮られる被写体は、見られる視線です。見る側と見られる側、セルフポではない写真の撮り方として、見る、見られる、という関係によって構成されます。写真は、見る位置において写真を見ます。現場の擬似物として、現場が凝縮されたものとして、写真があるとすれば、被写体の立ち振る舞いそのものが、見る側と見られる側の遠近を示すことになります。それによって喚起される心の問題、情のありかは、それ以後の問題となります。

写真の被写体論-11-

被写体としたモノには物語がある、なんてことを考えて、撮られたモノがおのずと語りかけてくる、なんて思って、写真を撮るわけだけれど、自分が見たい、熟視したい、と思うモノを被写体としていくわけです。そう考えると写真を撮るってゆうのは、かなり自分の欲望に則しているんですね。見たいと思うモノ、とはいえ熟視することなんてできないことが多いじゃないですか。なんだかんだと言ったって、食欲と性欲に満たされたぼくのからだですから、カメラがその代弁してくれて、あとでゆっくり見てあげる。

写真は視覚です。匂いも味も肌触りもない無味無臭。かってなら紙切れだったけれど、今様、モニターに映し出される画像です。カメラは、目に見えるモノしか写さないから、見えたモノをとらえてシャッターを切ります。合意のうえで撮るばあい、これは安定した気持ちで被写体と向きあえます。でも、見たいものは、つまり覗き見たいものは、おおむね相手の合意など得られないから、とくにおヒトにカメラを向けるときには、社会通念としての後ろめたさ気分に満たされますね。

写真の被写体論-12-

社会正義のために、なんて大義名分と目的が持てた時代には、撮ることじたいがそれなりに正義なんですけど、そんな目的を棄てたあとに照射されてくる内面は、自分の欲望、自分の興味、自分の所有欲、まあ自分にまつわる個人的なことでしかないわけです。なんだかんだと綺麗ごとを言ったって、そんなのは嘘っぱちであって、本音は撮ったモノを眺めて見入るために撮る。それがいったいなんぼのモノか、なんてことは考えないでおこうと思います。

写真は文化を形成する手段です。美的感覚、社会憧憬、それに所有する欲望の喚起・・・。いまや映像の時代だとしても、商品として写真が利用されるとき、様々に欲望を喚起させ、満たせてくれる代物です。すべてはヒトが使用にまつわる商品です。無害であるか有害であるかの基準は明確ではないけれど、無害商品、無印商品、有害商品、有印商品、そうしてここは無害な場だからこれ以上は言わないけれど、ゆうのにはばかられる写真商品があるわけです。制作者でもあり鑑賞者でもあるぼくは、無害有害のはざまを浮遊するのです。

写真の被写体論-13-

人間が初めて残した痕跡は手形、ネガティブ・ハンドだといわれていますが、それは洞窟のなかでした。鉱物の石に何かが宿り、それを神と名づけたようですが、宿っているか宿っていないかを区別するためには、しるしをつけます。注連縄(しめなわ)であったり、ヒトの顔であったり、そのしるしはいくつかあると思います。ただのものがただではなくなる。ぼくは、ただの石もただではない石も、もしかりに神なるものがいらしゃるなら、すべてに宿っていらっしゃる式の論法で、写真を撮りすすんでいるのだけれど、これなんぞは表記された代物です。

写真とするには被写体を選びます。被写体は何かを語らせる背景を持っているもの。うんうん、語らせると言ってしまえば言葉に従属してしまうので、何かを感じさせるモノでなければならない、と考えています。ヒトのからだと共にある<情>が醸され、滲み出る。情にも種別とレベルがあって、ナマリアルを超える情の誘発なんてことを思ったりするのですけど、究極の写真被写体とゆうのは、まさにナマリアルとは別のナマリアル。五感プラス一感で感じるナマリアルと同様、あるいはそれを超える<情>を誘発できるかどうかなのではないでしょうか。 

終わり

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