写真日々

中川繁夫の写真日々。釜ヶ崎、白虎社、京都、の写真を収録しています。

カテゴリ: 写真史&写真論集

写真への覚書
nakagawa shigeo  2005.11.24~2005.12.22
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旅をした。デジタルカメラを手にして旅をした。
イタリアを駆け足で旅をした。俗に言う<旅写真>を撮った。
デジタルカメラにはバッテリーが必要で、ボクの手元には海外で使う充電アダプタが無いもんだから、バッテリー消耗まで撮ろうと思っていった。イタリアは、ミラノに到着して、ベネチア、フェレンツエ、ナポリ、ローマという行程だった。

今日掲載した写真は、フェレンツエの街の遠望である。あたかも絵葉書のように撮った一枚である。写真を撮った現場は、朝であった。観光のパック旅行だったから、写真を撮ってベターな場所が設定されていて、ガイドがしきりに写真を撮ってください、と云っていた。ボクは、この場所からの遠望を1カット、記念に妻を立たせて1カット、計2枚を撮った。写真は、デジタルカメラからパソコンに吸い上げ、そのまま無修正のまま、掲載している。

写真は、旅する好奇心を留めておく装置だ。写真の撮られ方のひとつの方法である。1849年、マキシム・デュ・カンはフローベルと一緒に、エジプトを旅し、写真を本国(フランス)へ持ち帰った。1852年には写真集を刊行した。これが旅写真の最初であろう。その後、1世紀半を過ぎたいま、2005年11月、ボクは、同じスタイルで、イタリアを旅したと思っている。写真を撮るのが第一義の目的ではなかったにせよ、同じ行為をおこなった。

遠くのモノを近くへ、見知らぬモノを探して、写真が撮られてきた歴史がある。その延長線上に、今回のボクの写真行為がある。ボクの撮った177カット(ここでバッテリー切れ)は、旅の記録&記憶となる、のだが・・・。これらの写真は、ボクがいま、思考している写真行為とは全く逆方向なのだ。つまり、自分の生活空間の痕跡を留めていく写真行為を試みているからなのだ。

<いま、写真行為とはなにか>
ボクがここに試論するテーマである。その冒頭に、先日イタリア旅行から帰国したボクの撮った写真を掲載した。ここから見えてくる写真行為について、少しまとめていきたいと思う。

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写真を誰のために撮るのか、と問うとき、現在時点では、自分のために撮る、と答えたい。では、自分の、何のために撮るのか、と問うと、それは記憶を留めておくためだ、と答えたい。
外に向かう自分と内へ向かう自分がある。この内外に向かう接点、あるいは接面が写真行為なのだろうと考えている。これは文章作業と軌を同じくする立場だと考える。いうなれば自己認識作業の手段として、カメラという道具を使うと云うことだ。

自分を確認していく記憶装置として、写真が主要な位置を占めている。だれもが持っているアルバム。中学や高校の卒業アルバム。旅行したときの記念写真。それらの写真の被写体となった自分をアルバムに仕舞い込むことで、記憶装置となっていく。
この自分が被写体となった写真から、自分が撮った写真へと、位置関係が変わる記憶装置なのだ。写真行為とは、自分の記憶装置をつくるための手段だ、と云える。

自分とは何か、自分とはいったい何者なのか?この問いは、極めて現代的な問題である。自分の内部で、自分の位置がバランスを失っていくと自覚したとき、自分の中で自分を支えるモノ、それが自分が撮った写真である。あたかも輪廻、スパイラル的に循環する自分の感覚を定置させるモノ、確かな記憶となる写真なのだ。

写真の位置を、このように置くと、旅写真は、おおむね外に向けた自分の記憶となる。では、内に向ける自分の記憶となる写真とは、何か。それは<旅>とは反対方向の位置、<日常>である。
日常とは、家族、友人、生活地場空間などによって構成される<場>である。自己のアイデンティティ、立ち位置の確保なのかも知れない。日常の細部を観察し、見ていく最中で、写真という手段を使うのだ。写真行為を、このように位置付けることができるのではないかと思う。

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写真は、カメラレンズの前にあるものが写る。逆に云うと、カメラレンズの前にないものは写らない。ところで、写真を撮る人間のことを捉えてみると、目の前で見えることのほかに、記憶の像を呼び覚ますことができる。つまり目で見える物と、かって見た記憶がある光景を思い起こすことができる。
それから人間には、感情がある。カメラと人間を対比させてみると、カメラの機能を超えて、人間には<記憶の像と感情>がある。

ここで写真は、人間のカメラ操作によって画像をつくりだす。それも目の前に現存する光景を捉える。そのとき人間の中の作用としては、記憶と感情が入り混じっており、目の前の光景を見て、これをカメラに取り込む。そうして出来上がってきた写真は、記憶も感情もない光景だけが定着されることになる。写真とは、こういう代物だ。

では写真を見るとき、写真の中にある光景を見る。撮影されたとき、カメラの前にあった光景だ。この光景を見て、写真の中にある光景が何であるかを知る。もちろん見る人の見た経験に照らし合わせて、写ったものが何であるかを知るわけだ。そこに光景を記憶とダブらせ、感情を湧かせる。つまり写真を介在として、撮った人と見る人の間に、具体的な物象を介在させて、感情を共有させる。

問題は、ここから始まる。つまり撮る側は、見る側に感情を共有させることを意図しなければならない、ということだ。ボクは原則として、写真を撮り、人に見せることの第一目標は、このことに置いている。写真の被写体にまつわる意味づけの伝達は、その後のことでよいと思っている。理屈が先行することよりも感情が先行することを、第一目標に置いている、といえる。

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ところで、写真を撮り作る人、作家は何を撮ろうかと考える以前に、何をテーマにしようか、と想い巡らす。この回路は、写真を撮る行為だけではなくて、文章を書く、絵を描く・・・等々と同じことだと思われる。写真以前ということが云われる。写真を撮る行為にいたる、その前段の作用のことだ。ここに記憶と想像、論理との符号といった領域がある。その上でなお、感情の交感という目的が目論まれる。

平たく云えば、自分もいる巷の関心ごとを整理していくこと。そこに自分の感情を動かす物体を配置する。たとえば、ボクの場合、グローバル化する世界、とゆう切り口がある。西欧化する世界、とゆう切り口がある。これは抽象化された概念だから、これに値する現実の光景を見定めていく。この文章に添付している写真は、西欧文化の象徴として捉えているモノだ。

さて、巷の中心となる関心ごとに対して、自分の位置を確認する。グローバル化に対してローカル化。西欧化に対して東洋化または日本化。つまりローカル化と日本化。このことが写真を撮る主たるテーマになってくる。そうして自分の感情を見つめてみると、都市の光景よりも農村の光景に惹かれていく自分を発見する。蘭やチューリップといった洋花よりも、椿や桜といった和花に惹かれる自分を発見する。ファーストフードもいいけれど、山で拾った胡桃や銀杏に興味を惹かれる。この惹かれていくときの感情。感じる心がある。

写真にするテーマは、関心ごとが様々であるように、様々だ。そうして選択していく被写体も様々だ。被写体に対して感じる感じ方もまた、様々だと思われる。他人のことは判らない。しかし少なくとも自分の感情は、判る。この自分の感情に従ってあげること。これが撮影現場での、撮影の目安となるのだ。

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けっきょくは、自分に興味があり、好奇心がはたらく場所でしか、写真を撮る気にはならない。これが突き詰めていく先の結論のひとつだ。
写真を撮るという目的に、クライアントから依頼されて撮り、対価を得るというのがある。いわゆる世間ではプロカメラマンという職業だ。広告であれ報道であれ、イメージの移送者として捉える立場だ。あるいはアマチュアカメラマンと呼ばれる人たちが、コンテストに出品を目的に写真を撮る、ということもある。コンテスト応募は、本質として射幸心を駆り立てられる。写真産業という枠のなかで、前者は生産者、後者は消費者としての存在する。

ここで云う写真行為とは、そういったことが派生的に発生する要因はあるとしても、もっとプリミティブな場においてである。何のために写真を撮るのか?と問うとき、キミはなんと答えるのだろう。撮る目的を、自分の内に向ける写真行為・・・。自分形成のための写真。自己認識のための写真。自分に興味があり、好奇心がはたらく場所。つまり自分が知りたい欲望を満たしてくれる場所・・・。

写真の歴史を紐解いて、大雑把なつかみで云うと、自分の外に向けていた対象が、次第に自分に向けられてくることがわかる。社会的な視点から見る風景から個人的な視点で見る風景へ、そうして極私的な視点で見る私風景へ、である。ボクは、すでにこの立場、極視点で見る私風景、という立場にいる。そこから見える風景を捉えていきたいと思うのだ。

ところで、写真というものは、自分の外にある風景(光景)を撮る、ということを根底としている。現実に存在する光景を撮ることでしか写真は成立しない、そういう宿命を持っている。極私的な視点で見る私風景といえども、その宿命から逃れることができない。ここに、<私>という存在と、光景を構成する<モノ>の存在とが出現する。<私>と<モノ>が置かれた場。この場を軸にして、両者の具体的な関係を考えていかなければならないのだと思う。

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<私>と私が遭遇する<モノ>、要はこの<モノ>を捉える、捉える視点というものだ。これを導きだすためには、知識が必要だ。知識は、<理>の論だ。ところで、写真を撮るのに必要な感性、これを直感という。直感は、<理>ではなくて、私の<情>が感じるということだ。理に裏づけされた直感、なんていい方がある。これなんぞは、かなり矛盾を孕んだ言い方だとボクは思う。理は感情を排除する。情は感情そのものだ。そして直感とは、感情が振るえることである。

<モノ>とは、実像である。鉱物、植物、動物、それから、火、水。空とか風とか実像でないものをも含めようか・・・。写真に写った中味のことだ。風は写らない。暑さや寒さが直接には写らないように、風は直接には写らない。写真は、<モノ>が組み合わされて構成されるイメージ体だ。

<私>とは何か。この設問を解くには、かなり難問・難解だ。現代科学が、<私>を生物学的に、物理学的に、工学的に、捉えようとしている。哲学や文学という領域も<私>を捉えることに費やしてきた。としても、それらは理の産物だ。人体の生物学的解明、記憶の解明・・・。パスカルさん、カントさん、老子さん、その他沢山いらっしゃる人間を捉える文化遺産がある。

写真は、おおむね、この科学成果や文化遺産のうえに立った産物であった。カメラという道具を使って、バックヤードにこういった産物を絨毯のように敷きつめて、作りなされてきたものだった。その絨毯のうえに立った<私>が、<情>のところで感じることが必要であった。作家と鑑賞者の共通基盤が、そこにあった。はたして現代写真は、このようにして成立してきたと思われる。
-この章終わり-
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写真への覚書-2-
2006.2.7~2006.7.18 nakagawa shigeo
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写真は、視覚イメージです。目で見て内容を確認します。この類には、絵画や版画などがあります。最近なら静止画と呼ぶ代物です。この写真と対置できるのが文章です。文字で記された文書、小説や詩・・・といった類です。ボクはこの写真と文章という基本的二項を軸に、論をすすめようとしています。静止画は、写真だけにこだわらない視覚イメージですが、近代以降の道具としてカメラが出現してきますので、ここではカメラでつくる写真を置きます。

ヒトの表現ツールに音表現があります。音楽です。写真と文章という二項は、表現ツールとしての基礎的形式です。これに音の項として音楽を加えて三項にしてもいいのですが、ひとまづ写真と文章とします。

写真は、その後、映画を生み出し、最近ではメディアアートの素材として、映像が使われます。写真が絵画の発展形だとすれば、映画は演劇舞台の発展形、メディアアートはヴァーチャル空間へと発展した形です。イメージの原形が写真にあるといえます。文章は、文字表現です。一貫して文字表現です。文字は、言語を形式化してきたものですから、音声を原形としています。音声は、音、音楽につながります。

こうしてこの世に、写真と文章という二項が、存在しているのです。文化を創るとか、記録を残すとか、さまざまな側面で、写真と文章が絡み合い、入り子状になって、現代文化の底流にあるように考えています。

ここは、写真学校のフレームだから、写真を軸として、このような項との関係性、反関係性を捉えてみたいと思うのです。

-2-
写真を鑑賞する立場でいうと、写真を観て、内容を読むということをします。読むという表現は、文章を読むごとく、写真に表されたモノが何であるかを認知し、その背後の意味を理解していくプロセスです。このような写真の解読方法を、写真批評というレベルで行うわけです。

先に、写真と文章という二項があると記しましたが、この「写真を読む」というプロセスは、あたかも「文章を読む」という行為に類似しているわけです。写真はイメージそのものだから、むしろ、文章に先行して写真がある、ともいえます。

写真が、言葉や文章に従属している、という見解は、写真を読む、というプロセス上で起こる見解です。写真を見て、言葉で内容を理解していくからです。現代写真は、おおむね、この枠組みのなかで撮られ、発表され、鑑賞されてきたプロセスです。

ところで、写真の情緒喚起力は、感情に訴えてくるものでもあります。言葉ではない直接的なインパクトを、写真は持っています。見た人の情緒を揺さぶる写真です。 写真が言葉や文章を離れて、独り立ちするとしたら、この情緒を揺さぶる、ということに着目することで、本来的写真のあり方が見えてくる可能性があります。

かって情を排除し、理知をベースに写真を作ることが要求されてきた感があります。いや情が無いのではなく、情プラス理知であったといえます。写真の現在的課題は、この情の処理だと思っています。理知に先行して情緒をとらえる。むしろ理知を排除して、情緒を全面とする。そのような写真が、ありうるのかも知れないと思うのです。

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写真を情でとらえるとき、そこには理屈がいらない、とさえ思えるのです。情に根ざした領域で感情に訴える作風というのは、ボクは、世代的に受け入れないヒトだった。もちろん、繊細な日本の美、なんてゆうイメージの、感情領域をさして、いっているんですけれど、侘びとか寂びとか、花鳥風月を愛でる心とか、この領域に心傾けることを拒んできたわけです。

写真が写真として成立する基盤はなにか?、なんて、このような問題を突きつけていたボクがいた。それは論理で賄える領域に、写真を掬い上げようとする作業だったと思います。でも、しかし、感情、情、心情といった心の問題が話題になってきて、理性と対置する格好で、情の重要感が浮上してきている現代です。そのように想って、ぐるりと見回してみると、これまで情は経済社会活動の中心から軽視され、いやむしろそぎ落とされてきたことに気づいたわけです。

いいえ、情を軸とした領域は、エロスの問題でありセクスの問題であり、これらはおおむねその外側に置かれながらも、何時のときも、世に存在し続けてきた領域だったのです。エロ写真家は、重宝されながらも、低い評価しか与えられない時代だったし、エロ小説家は、重宝されながらもアウトローのように扱われてきたのです。

ボクにとっての、つまり情の問題は、直接、間接に、エロス感情の問題にいきついてきたのです。このように思いだすと、戯作といわれている文学や写真が、エロスをテーマにして、その情欲を掻きたてる作用を持っていて、この作用を封じる力が、中心となる社会では働いていたことに気づくわけです。

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写真の中味を、情のレベルでとらえてきましたが、ここでは写真の外見について触れてみたいと思います。写真はカメラという光学機器によって制作されます。現在はデジタルカメラに移行している真っ最中で、ほぼフィニッシュ段階にまで来ています。近年のデジタル環境が引き起こすメディアの変化を捉えるなかで、写真の位置を確認します。デジタル環境のパーソナル化現象です。

写真は静止画です。時間を有しないわけではなく、過去となったある時間帯をシャッタースピードの時間で区切ったものです。それの発展形として動画があります。この動画は、静止画を連続させて、一定の時間帯を保証していくものです。見る側としては、一枚の静止画が見ている時間帯を保証しているのに対して、その時間帯を静止画を連続して見て、動画とするわけです。

メディアは、紙におおむね銀粒子で定着させたプリントから、電子信号によるCTR画面表示へと変わっています。それと通信回路の変容があります。紙メディアから、CTRメディアへの変容です。それにネットワークが加わります。ネットワークの形体は、インターネット・ネットワークです。近年、特にインターネット・ネットワークは、個人利用の傾向を強めてきています。

つまりどうゆう現象が起こっているかといえば、それまで一方的に流されてきたマスメディアが、パーソナルメディアとして、個人が情報を発信できるようになったことです。静止画(写真)から動画(ビデオ)への拡大と同時に、パーソナルメディアとしての情報発信が可能になったというわけです。ここに現在の写真をめぐる外見があります。

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写真について、中味を情、外見をネットワーク環境として見てきて、この関係のなかでどのように成立させていくのか、というのが次の問題です。写真を、コードのないメッセージだと、R・バルトは構造分析していますが、写真は即物的だといいます。写真に撮られた<それ>を読み取るには、読み取るためのコードが必要だというのです。写真の第一義的な意味は、そこに撮られた<それ>そのものです。

ここから派生して言語・言葉の介在が必要となってきます。<それ>が意味するものを位置づける言語・言葉です。これを含めて、写真は意味をなしてきたのです。その写真の意味するものは何か、と問われれば、そこに答えとして用意されるものは、言語・言葉による説明なのです。

写真を<情>のレベルでとらえることは、じつは、つまりこの言語・言葉以前に、写真そのものが放つインパクトをとらえることであるといえます。視覚によってインパクトを受け、情を動かすこと、このこと自体です。ボクは、このことを写真の原点に置こうとしているわけです。

ここで動画を取り上げてみます。動画は静止画を連続させたものであるとしましたが、それを使用するレベルで、音を付属させます。言葉、音楽、自然の音など、聴覚です。視覚と聴覚の喚起により成立させます。この逆用で、スライドショーを組み立てることがありますが、これは静止画・写真を、連続させて動画のごとく展開するバリエーションです。

次に写真の使われ方は、コミュニケーションツールとして存在する、ということです。写真を介して<情>を交換する装置だということです。この交換場として、現代のツールであるインターネット環境を使うというのが、最新のコミュニケーション方法だと考えているわけです。

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ここでは「写真をめぐる外観」と「写真が意味する中味」を、とらえる作業をおこなっているわけです。外観といい、中味といい、時代変遷のなかで、写真の撮られ方や写真家が向き合うテーマなどが、変遷してきています。この時代における変化は、写真の歴史を研究することで解析できます。ここでは、その歴史研究の成果をふまえ、現在写真の置かれた位置・場所を確定させるための作業を行う必要がある、と考えているわけです。

外観でいえば、従前のフィルムによる写真制作とデジタルによる写真制作の方法があります。時の流れは、新しいツールの方向へと進みますから、デジタル写真が主流になります。内容的外観でいえば、ドキュメント手法とアート手法があります。ファッションを含む商業写真・コマーシャルフォトは、ドキュメントとアートの混在手法です。

中味でいえば、写真家の社会と自分への向き合い方です。報道を含む商業写真家は、産業社会のニーズにより、またクライアントの要望により、おのずとテーマや手法が拘束されてしまいます。また社会構造、経済構造の中に置かれている<写真>であるかぎり、社会機能としての<写真>があります。ここでは、社会機能としての写真以前の、自己へ還元する機能としての<写真>について考えていきたいと思うのです。

自己へ還元する機能とは、お金に還元するために写真を使うという目的の方向ではなくて、自己省察のための手段として写真を使うという方向です。あるいは自分が生きることの満足を得るための手段として写真を使うともいえる方向です。情にスポットが当てられ、デジタルが新しい潮流だとすれば、自己へ還元する機能として使う写真は、デジタル環境のなかでの情の表出とゆうのが、近未来に主流的な、外観と中味の組み合わせとなると推定されることです。

-7-補
何のために写真を撮るのか。この「写真への覚書」は、この問題についてアプローチしていこうと思います。まま、写真学校なんぞを運営していると、この「何のために・・・」という疑問を抱く生徒さんがおられるからです。そこで、写真の有用性を整理してみて、その有用性に添って写真制作をすることを、お勧めするわけです。

第一の有用性は、写真を撮ることで、日々の生活を経済的に支えることを目的とすることです。つまり、写真を撮ることでお金を稼ぐ。俗にいうプロ・カメラマンになるという目的です。ああ、このセクションは、すでにこれを実現している人は、対象外です(笑)。写真には、経済活動において需要供給のバランスがあります。だから一定の技術を身につけて、その供給者となるように実現させることです。

第二の有用性は、写真を撮ることで、アーティストの仲間入りを目的とすることです。ええ、アーティストとして、日々の生活が経済的に支えられれば申し分ないんですが・・・。写真を撮ることで、アーティストであるということは、現代アートの枠組みを理解しなければなりません。その上で独自の表現物を作らなければならないわけです。もう、こうなると、写真家という肩書きじゃなくて、アーティスト。アーティストとは何ぞや、とか、アートとは何ぞや、とかの定義は別にして、かっこいいアーティストです。でも、これで生計を立てるというのは、至難の技ですから、学校の先生稼業で生計を立てながら・・・、っていうのが無難かも知れないですね。

第三の有用性は、自分のために撮るということです。でも、芸術行為とか、アートプロジェクトとかいうもの、また写真を撮る行為というのは、人に見せるということが、実は前提にあるわけで、基本的に自分のために撮る、なんていうことは現代社会の構成員としては言い逃れに過ぎないのです。そこで、自分の好きな人に見せて自分を認めてもらうために、写真を撮る。これを基本において、見ず知らずの人に見てもらえて、自分の存在を認めてもらう満足を得ていくということ・・・。

まあ、何のために写真を撮るのか、という質問に対して、有用性、つまり役に立つという視点から、その目的を三つに分けてみたのが、この項です。写真学校は、この三つの有用性を自分のものにするための器です。でも、普通、そこで学べるのは、社会の枠組みや歴史を理解することも含んだ技術習得です。でも、これですっきり、何のために写真を撮るのかということが解決する、というわけではありませんね。だから、ここでは、これから、このすっきり解決しないところを、ああでもないこうでもない、と書き進めていこうとしているのです。

-この章終わり-
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写真への覚書-自己表現論-
2007.2.6~2007.3.2 nakagawa shigeo
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<はじめに>

お花の色形をみていると、それはそれは様々な色と形があるんやなぁ。 お花屋さんの店先に並べられた春の花鉢をみながら、ふっと、あたりまえなことが不思議なリアリティをもって、ぼくの中で驚異させられてしまったのです。そりゃぁ、花だって、それぞれに競っているんや、生存競争なんや、自己主張してるんや、なにより愛されたいと思っているんや・・・。たわいない思いではあるのですけど、ぼくは花がそれぞれに自分を表現しているんだと思ったわけです。

そうすると人間において、自分表現することって、どうゆうことなんやろってたわいない疑問が生じてきて、ぼくを悩ましはじめたわけです。そこで行き先未定のまま、自己表現について、あれこれ呟いていこかなぁ、なんて思って、この標題をつけてみたわけです。とゆうのも、やっぱり自分のあり方の基本的な問題だと思っているからだと思いますけど、問題を解決するには、わけのわかったようなわからないような、評論とゆう手をつかうしかない、これも自己表現の一種ですね。

ぼくとゆう個体があって、ぼくは多くの他人という個体と接しているんです。この他人さまとは一口に言っても、さまざまな関係の質があって、それぞれに分類されていて、身内関係とそれ以外。身内関係でゆうと、ぼくの彼女、ぼくの子供、ぼくの親・・・。彼女の兄妹、彼女の親、彼女の親戚・・・。まあ、この身内関係はいったん置いとくとして、それ以外の関係。つまり他者中の他者にたいして、自分をどのように表現するのか。そもそも表現とは何か、そしてこの表現の形式を、ぼくは芸術作品と呼ばれている制作物を介在した形を思い浮かべて、その作品の内にある作者の論を書きたいと思っているのです。

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<表現ツール>

自分を表現することは他者とコミュニケーションをとること、情報を交換することです。日常的には言葉を使います。言葉は音声です。言葉はその場で消えてしまいます。なので書き記す文字を使います。これらを文字ツールとします。それから、音、音声以外の音、楽器を奏でたり歌ったりする、ここでは楽器を奏でるなどを音楽ツールとします。そして絵画や写真、そこから派生する映像などを、画像ツールとします。

こうしてみると、表現ツールには、文字、音、画像の三つがあることに気づきます。それぞれに一定の形式を含んで表現物として作られて文学作品、音楽作品、絵画・映像作品となります。自己を表現する、それも日常生活の欲求を満たすためのコミュニケーションから離れて、自己の内側にある<なにか>を伝達する手段として、作品をつくりだしていきます。

表現するという自覚をもって、表現ツールを使って、自己表現をする。ここでは、自覚をもって自己表現するというレベルを想定して、出来上がってくるモノを作品と名づけます。いま書いているこの文章は、ここ、このブログのフォーマットに収められて、絵画をカメラで撮った画像と共に、他者に向けて発信しています。文学作品でもなく、音楽作品でもなく、絵画・映像作品でもなく、でも文字と画像を使ったモノ、形式については後述しますが、これは評論形式です。

※陶器や彫刻等立体作品も念頭においていますが、ここではひとまづ三つのツールの外側に置いておきます。

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<表現形式>

文学にしろ音楽にしろ画像にしろ、それぞれに固有の形式があります。表現することは、おおむねこの形式に基づいて作っていくことが求められます。形式は外枠であり、内容を表示するための仕組みだといえます。また、その形式は、時代とともに変化しています。文学なら古文から現代文へ、音楽ならクラシックからモダンミュージック・ポピュラーミュージックへ、画像なら具象絵画から抽象絵画へ、正確な記述ではないですが、ざっと大きな流れとしては、このように変化・変容してきています。

文字を連ねて文章を書く。そこには文法があり、一定の規則に基づいて制作していきます。また、音楽には、おおむね音を奏でるための楽譜があり、一定の楽式に基づいて制作します。絵画や写真画像にも、一定の基本構図などがあります。このように列記していくと、表現のための外枠、形式があって、自己表現を生成させていくためには、これらの形式に準じる必要があります。破格、これまでにない形式、新しい表現形式。このような言い方をされて、新しい形式が認知されることがあります。でもこれは、すでに認知された形式があるからです。

形式は形式であって、内容そのものではないのですが、表現される実体は、形式と内容の相互作用でもあるのです。ここでの目的は、自己表現のための基礎概念を明確にしていく作業です。そのことを念頭に置いて、表現の外枠として一定の形式がある、と認識すればいいと思います。

※ここでは、形式、内容、それに実体、概念、という単語を使っていますが、追って、形式とは、内容とは、そして実体とはなにか、概念とはなにか、ということに言及していきたいと考えています。

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<自己表現とは>

自己表現するには、ツールと形式が必要だと書きました。自己表現とは、文字とか音とか画像を使って、一定の形式にしたがって、自分の考えや思いを込めていくことだといえます。人間の人間たる由縁は、考える動物であるところにあります。生きている環境から様々なことを学び、学びによって自分という器を確立していく動物なのです。文字による伝達、音による伝達、画像イメージによる伝達。ぼくたちは、特定の他者や多くの他者に、コミュニケーションの手段として、ツールと形式を使います。

記憶を持ち、何かをしたい、何かをしてほしい、という欲求を持つのが人間です。この欲求を満たせるために成す行為が、自己表現だと考えています。芸術行為といわれることがあります。文学、音楽、絵画や写真、その他諸々。これらの枠組みで成される形式で、特定の他者または不特定多数の他者へのメッセージとして発せられるものが、自己表現された内容なのです。

さて、自己の欲求を実現するためだという<自己表現>なのですが、ここで問題となるのは、自己の欲求の何を、どのように実現するのかという内容と方法のことです。様々な欲求があり、そのなかの、どの欲求を、様々なツールと形式の、何を使って(組み合わせて)実現するのか、ということが必要なわけです。制作されるモノがすべて、自己表現の産物だとは、ぼくはとらえていないのです。芸術行為の結果生み出される自己表現物には、明確な目的意識と、目的意識の達成がなされていることを、求められていると考えているのです。

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<他者との接点>

自己あるいは自分を考えるとき、自分という存在の外にあるものの総体を、ここでは他者と名づけます。 また、自己というとき、ここでは自分の内面のこと、つまり精神、心をいい、自分というとき身体と心の総体をいうことにします。他者との接点とは、自分という存在の外側にある世界です。表現することとは、この他者・外側世界を、自己に取り込み、他者・外側世界へ返していくことに他ならないわけです。

この他者をどのように捉えるか、どのように考えるかという作業を通して、自己なりの解釈を加え、表現手段を使って制作し、他者に返していくこと、その中に自己表現という質的なものが含まれると考えられます。着目の仕方には様々な方法がありますが、基本として、他者という存在を抜きにして、自己表現は成立しないものと考えます。

たとえば、三歳児がカメラを持ってシャッターを切る、あるいは画用紙に絵具を塗る。この場合を想定してみて、はたして三歳児の自己表現と呼ぶかどうかという問題です。もちろん三歳児とて、自己欲求に基づく行為の結果として表されるとしても、ここでは、一般的にいう自己の確立が成されていないので、ここでは自己表現とは言わないことにします。このように考えて、自己表現とは、自分を他者との関係において、相対的にみることができる立場の自分が、表現ツールを使ってなすものなのです。他者との接点を意識して見る。この見方が重要な要素になると考えているのです。

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<他者との接点-2->

自己の外にあるもの、他者。それらと関係を結ぶ点、あるいは面を、接点あるいは接合面と想定すると、この接点とは、自己の興味によって意識化されてきます。様々な接点があります。世界の出来事、政治や経済に関わる出来事から、ご近所の出来事、友だちの、家族の、出来事、自分自身の出来事、マクロな場所からミクロな場所まで、様々な出来事が同時進行して、他者情報が自己に伝わってきます。出来事は、具体的な事象で、目の前に現れてきます。

直接に視覚に捉えられることもあれば、テレビや新聞・雑誌、最近ならインターネットサイトなどで、様々な、リアル、バーチャルを問わず、情報として自己に入力されてきます。自己は、経験に基づき、入力されてきた情報に意味を与えて、処理します。世の中に、大きな概念、小さな概念、その概念にそって自己に情報が入力され、概念にそって意味をみいだし、意味づけ、自己とのうちに関係つけていきます。

自己表現とは、そのような他者の情報を入力処理し、意味にそって、自ら概念化していくことにつながります。表現する対象を、どのように選ぶのか。選んだ対象を、どのように概念化していくのか。この対象の選択と概念化プロセスを、どのような道具と技術を使って、まとめていくのか。その結果として、自己表現物という形式のなかに、自己表現そのものがみえてくるものなのです。自己表現物は、他者(ここでは具体的な他人)とのコミュニケーションツールとなるのです。自己表現物に社会性を帯びさせるといいますが、これには自己と他人が、共通の概念枠を持っていること(あるいは持たせること)が前提条件になります。

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<自分ということ>

我思う故に我あり、とは古典的名句であり、ここでは、思う・考えることで自分がある、という立場です。でも、これだけではスパイラルで、解決の糸口を見出せないので、少し<自分>ということにこだわってみたいと思います。<自分>とは、身体をもった個体で、この身体を養うために、食料を補給していく必要があります。そうでなければ死滅してしまう宿命を持っています。それと俗に心という代物です。心を、精神と云ってもいいわけですが、心とは、精神と情が混在している状態をいい、精神とは、情を含まない部分だと、ひとまず記しておいて、<思う><考える>という作用をさせる自分があり、情・感情を持つ自分がある。

この場合、思う・考えるという作用は、生まれてきて、学習してきた結果としての作用です。知覚、触覚、臭覚など、身体が他者との関係において感じる、つまり入力される情報を積み重ねて記憶という装置にしておいて、それら情報を駆使して思う・考える作用をおこなうことです。現在のヒト・人間という個体には、一般にはこの装置が備わっていることを基本条件として、思い考えることをします。自分という個体を、そういう学習において、相関的にとらえること。つまり、自分と他人の区別をつけて、自分をとらえることができるのです。他人・他者との違いを知り、自分特有の個体像をつくること。これが自分という認識です。

それと混在する情・感情というものが、思う・考えることで認識されます。情・感情は、学習によって得られるものではなくて、身体器官の動きに由来するものだと考えられています。情・感情は、意識するか否かは問わず、身体があることと対になった気分です。自己表現とは、意識する自分を、形式ツールを介在させて他人に伝えていくことですから、この情・感情を伝えるためには、ふつう、言語によって、楽しい、悲しい、嬉しい、淋しいなどと表現します。

このように自分ということの中味は、思う・考えることを<知>、情・感情を<情>、つまり知と情が混在してあるもの。このように解釈していいかと思っています。思うところ、自己表現とは、この自分の中味の知と情を、どのようにして他者に伝えるか、ということになるのです。とはいえ、なおかつここでは<自分>ということが、まだつかめていない概略なので、再々、この自分をみつけるための作業を、登場させることになると考えています。

-この章終わり-

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写真への覚書-写真表現論-
2007.3.17~2007.6.19 nakagawa shigeo
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<はじめに>
自分表現のツールとしてカメラをつかって画像をつくる行為。つまりカメラをつかって作られた静止画像が、写真という表現媒体だと考えて、この写真という代物と自分表現との関係を探っていくのが、この論の目的です。ここでは写真を、経済システムのなかに投入する、ということは別にしておいて、自分の表現、つまりコミュニケーション手段として写真をつくる枠組みを、自分に引き寄せて考えてみようと思うのです。

写真は、原則としてカメラの前にある光景を複写します。写真を撮る人は、原則としてカメラの前にある光景を見ています。人間の眼球は、カメラ装置と同様の働きをしています。ただ違うところは、人間の眼球を通して認知した光景は、記憶として内在化されるのに対して、カメラ装置はフィルムであれメモリーであれ、他者にも見える形に仕上げることができる。つまり、自分が見た光景を、写真として再現することができる。

写真表現とは、自分が見た光景を、写真という静止画像として再現することです。この論では、自分が見た光景を写真に再現するという、自己内部におけるプロセスを、自己の側にひきつけて捉えていこうと思うのです。つまり、カメラ装置があって、この装置を操作する自分そのもの、そして自分と他者との関係、その軸となる意味と価値、そこらへんを論に仕立てられたらいいな、と思うところです。

-2-
<カメラは見たいものへ向かう>
なんてったってカメラを向ける先には、自分が見たいと思うものがあります。覗き見たい欲望を実現する道具としてカメラ装置があるんだ、といっても過言ではないと思っています。自分が興味あるモノ。興味あるモノに惹かれる。この興味あるモノ自体は、ひとにより様々だとおもいますが、商売でつかうわけではない写真を撮ることは、興味あるモノへとむかえばいいのだと思います。風景であれ、人であれ、イベントであれ、おおむねカメラを持つ以前の自分の興味に、忠実になればいいのだと思います。

カメラを向ける被写体というのは、まづ、自分が興味を持って惹かれる被写体が前提です。そうして興味ある被写体がみつかれば、次のステップが、技術的処理です。興味ある被写体を包み込んでいる意味を、テーマといえばいいかと思いますが、テーマは興味に優先するものではなく、後発的なものです。つまり、興味ある被写体を、社会的意味と価値によって形成することが、テーマの生成につながるのです。

自分の興味は、おうおうにして時代の風潮や流行に重なります。理屈上は、このように重なるといえますが、実際の撮影にあたってそこまでを論理化するのは、難しいと感じています。ですから時代の風潮や流行を感受する自分の直感を優先して、興味ある被写体へ向かえばいいのだと思います。直感とは、何もないところから興味そそられて感じるものではなく、時代の風潮や流行が反映するとの想いがあるからです。

-3-
<見えるものと見えないもの>
見たいものへ向かうといっても、見たいもののなかには、目に見えるものと見えないものがあります。たとえば記憶の像は目に見えないし、神や仏も目に見えないものです。つまり写真にすることができるのは、リアルに存在する物質をしか写真にできない宿命があります。写真表現なんてゆうのは、ある意味、見えないものを見せようとする行為なのだと思います。このような言い方をすれば、人間の心なんてのも見えないものです。

表現するということは、目に見えない尽くしの世界を、見えるもの尽くしの世界をもって、見させようとする行為、一言でいってみれば、見えないものを見せることだと思います。表現の方法には様々な手法がありますが、ここでは文章表現と写真表現を隣接する表現手段としてとらえていきたいと思います。つまり、写真に現わされたリアルに存在する物質を、言語によって補足する、あるいは補足されることで、全体の意味を指し示すことなのです。

見えないものを見せようとすることの得意分野が、言葉であり文章であるとすれば、写真は言葉および文章の補完物としてあることになります。この逆もまた成り立って、言葉および文章は写真を補完するともいえます。最初に言葉ありき、とされる理の世界にあって、写真を単独で、つまり言葉や文章の介在なしに、独立した領域として在りえさせるためには、どうすればよいのか。これが写真表現の今日的あり方を模索する目的です。といいながら、これは文章に拠っている論です。

-4-
<聖なるものと俗なるもの>
自意識の構造を思うとき、世の中にはいくつものグレードがあって、聖なるもの、俗なるものという区分にしたがって、自意識がなりたっていることに気づきます。聖なるもの、聖なる心とゆうのは、人様にお見せしてもよい領域であり、俗なるもの、俗なる心というのは、人様にお見せすることがはばかれる領域です。つまりモラルという線引きにおいて区分される<聖・俗>二つの領域が、写真表現の向かう領域だと考えています。

聖なるものとは晴れの場、俗なるものとは穢れの場。このようにイメージしてもいいかと思いますが、聖なるものは公然、俗なるものは非公然。見せたいものと見せたくないもの。写真表現の被写体軸は、この聖なるものと俗なるものの二軸です。写真表現のプロセスが、見えないものを見えるようにする、あるいは未分化で意識レベルに浮上しないものを整理統合して意識化させる浮上行為だといえるかも知れません。

見せたくないものを見たいと思う心があります。聖なるもの、俗なるもの。この俗なるものを見たいと思う心があります。おおむね近年の写真は、この俗なるものを表現しようとしてきたようにもとらえています。聖でもあり俗でもある性表現領域において、これは顕在化されてきていると認識しています。残された未知の領域、人間の心の領域を解き明かす表現領域として、それはあるように思います。

-5-
<アーバンとルーラル>
写真に撮る被写体を、目の前にひろがる風景のなかに求めるとき、ぼくは、立っている位置から二つの軸先をみようとしています。見えるようで見えない日々のあり方を整理して、アーバン・ライフ軸とルーラル・ライフ軸に分けてみようと思ったのです。アーバンとは都市、ルーラルとは田舎、アーバン・ライフとは都市生活、ルーラル・ライフとは田舎生活。自分の日々生活と意識のなかに、この二つのライフ軸が、雑多に混在していることに気づきます。

ぼくが成そうとしている写真制作の一つの方法には、プライベートドキュメントという領域に則していこうと思っているわけで、その背後になんらかの意味を嗅ぎとってもらおうとの魂胆があります。写真に意味を語らせる、意味を語らせない。<意味>優先と<情>優先とでもいえばいいかと思うのですが、いずれも他者との交感作用をとらえようとの魂胆でもあるのです。意味を語らせるとすれば、世のありようを整理して、ひとつの方向へと向かわせる必要があります。

写真は世の中に生起する現象の表皮です。アーバン軸は都市の光景<町風景>、ルーラル軸は田舎の光景<里山風景>、とまあ便宜的に区分しておこうと思います。なによりも入り口を整理しておきたいと思うからです。しかしテーマにとって、この区分、分類は便宜的であり、本質を語るものではありません。というのも、プライベートドキュメント(まだ確かな定義がなされていない写真のあり方)を指向するけれど、その表皮ではなく、そこに営む生活者の心のあり方を表したいとも思うからです。

-6-
<都市軸と自然軸>
写真表現するための被写体を考えてみると、目に見えるモノとして、大きくは宇宙・地球を構成している物質世界があります。人間の手が入っていないナマのままという領域から、人間の手によって作られた人工の領域があります。写真表現というとき、カメラで定着させる素材としては、この全てが素材とすることができます。写真表現の中心点は自分です。表現するということは、自分の意図を伝えることが目的です。この表現意図が明確であるかどうかは、自分の認識を具体化させられたかどうかということに尽きると思います。

写真表現の歴史を紐解いてみると、見えないものを見させようとしてきた歴史だと理解します。見させるということは、目に見える背後に、二次的な意味を形成させる要素が必要になります。つまりその写真の中に込められた意味です。意味とは、説明できる内容です。他とは区別して、それが特異であることを、あるいは一般・典型であることを理解させる内容です。これを手がかりにして、現在的素材として整理してみると、自分の居る場所から、一つの方向軸が都市、つまり人工物によって形成された風景といえばいいですね。そうして反対軸が自然、つまり人間の手が加わらないままに形成された風景といえばいいですね。

カメラ装置を使って制作する写真でもって、何を表現するのか、何を意味させるのかの問題を解く鍵として、都市と自然という対置法が選択する素材を明確にさせてくれると考えています。問題の中味は、現在、巷で問題化されている問題、おおきな背景としての環境問題、現代人の心の問題、これらに言及していく手段として、写真を使うということです。ぼくは、この方法というのは、オーソドックスなドキュメント手法、現実素材から見つけるドキュメント手法だと考えています。

<この項おわり>

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写真への覚書-私風景論-
2007.5.9~2007.5.26 nakagawa shigeo
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私風景論-1-

通りすがりのスナップで、町中や神域をさまよいながらシャッターを切ります。やっぱり人のいる光景に興味がわいて、通りすがりに人がいる光景を撮ろうとしている私がいます。そうしていったい、この心境はなにかと問う私がいて、私の風景を探りはじめています。

写真を撮る行為の一つに、目の前にある光景を掠め取る、ハンター(狩人)の心境を表現する手法があります。密かに覗き見て集めるコレクター(採集者)の心境だろうと思います。この手法は、おおむね禁じ手として認識してきた手法なのだけれど、それをあえてやってみようとの試みです。

私風景論-2-

人の心のなかは、男は女に、女は男に傾斜していくものだと思っています。ぼくは男だから、女に傾斜していく、ごく当たり前の心境だと認識します。ところで人には理性という概念があって、男が女に、女が男に、容易に近づいてはいけないとのお達しがあって、その代弁として小説や写真等の映像が供給されているのです。いいえこの論は単純化した心理の原点であって、現実は迷路のような、いくつもの回路が組み合わされて、私のまえにたち現われるのだと思います。

私風景論-3-

見る、見たいという欲望が、いまや宇宙の果てから細胞内部の微粒子までをとらえるようになった映像世界にあって、ぼくが持っているデジタルカメラは、そのベクトルの一部をしかとらえられないので、その範囲で見る、見たい欲望を満たしていこうと思うのです。ここにあるのは、演出ナシのリアルな現場を、フィクション化していく写真作業です。

私風景論-4-

神という存在は見えないものらしい。まるで人の心と同じやなぁと思います。ボディがあって衣装をつけて、それらしく着飾らせてもらっている社ですけど、ボディにつけられた扉を開くとなにがあるんでしょうかね。 

私風景論-5-

ソーシャル・ランドスケープという概念があります。社会風景と訳せばいいかと思います。そういうレベルでいえば、パーソナル・ランドスケープ、私風景をその流れのなかで想定しているわけです。もう古びたアルバムを開くように、私風景という概念も新しくはないです。ちなみにその後にはプライベート・ランドスケープなんて概念がでてきますが、パーソナルとプライベートの境界線は、被写体との関係に基づいて、赤の他人か身内レベルかということにしておこうと思います。

私風景論-6-

社会風景にしろ私風景にしろ、基点は個人から見る視点です。撮り手は抽象的な立場ではなく、撮り手個人の具体的な立場での価値判断です。私の個人的興味に基づく被写体選び、このように言えるかと思います。そうするとぼくの興味は、・・・・ここに羅列する被写体への興味ということになります。たわいないといえばたわいないことです。

私風景論-7-

社会のありようへ意味を示すというのでもなく、個別の関係があるというのでもない位置で、写真イメージを示すことは、理知の領域というより感情の領域に属することだと思います。

私風景論-8-

1978年の夏に、ぼくは私風景論と題した文章を、手がけたことがありました。写真を撮る心の内部、心の動き、今流でいえば情動といえばよいかとおもいますが、これを知りたいと思っていたような記憶がよみがえってきます。それから30年の歳月が経過したいま、何とはなしにつけたタイトルが<私風景論>です。いまさら何を論じようとしているのだ、との声が背後から聴こえてくるような気持ちです。

私風景論-9-

年老いてきているせいだと思うけれど、どうも若さとか美しさというものに惹かれてしまいます。それに先行きどれだけあるのか不安な心境で、神とか仏とかの領域に足を踏み入れている私を発見します。俗にこの世という現世において、惹かれていくままにカメラを向けているという、正直な心境です。

私風景論-10-

注連縄と書いて<しめなわ>と読みます。てっきり締め縄、閉め縄かと思っていたらそうではないらしい。神話を教わる時代に生きていないから知らなかった、では済まされませんか。注連縄は神域と俗域を区分するものであるらしい。その起源は、天照大神が天の岩戸に隠れてしまって暗闇になったので、彼を引っ張り出そうとドンチャン宴会をやってストリップショーになって、顔を出したところを引っ張り出されたといいます。そうして戻れないように天岩戸に張ったのが注連縄だというのです。これが起源で、そうかぁ、天照は男であったのですね。 

私風景論-11-

そのころ千本通りの今出川から中立売までとゆうのは、ぼくの唯一の繁華街でした。繁華街とゆうのは悪の温床であって、子供がひとり、あるいは友だちと徘徊するのは禁じられていた場所でした。小学生のころは親と一緒に行くところでした。スター食堂ってレストランがあって、Aランチ、Bランチ、そのどっちかを食べた。大阪屋という食堂があって、ここは和洋折衷、うどん、丼、それにカレーライス・・・。
西陣京極の入り口にマリヤという喫茶店があった。どっちかゆうと甘党喫茶で、甘いぜんざいが名物のようでした。いやはや半世紀まえ、1950年代のはなしです。

私風景論-12-

学校行事に修学旅行という宿泊付き遠足があります。ぼくの小学校6年は一泊二日の伊勢神宮参り、中学3年は二泊三日の東京参り、そして高校2年には九州旅行で4泊か5泊でした。伊勢行きは蒸気機関車が二台で引っ張る鉄道でした。東京へは希望号とゆう修学旅行専用電車でした。九州へは別府まで汽船、そっからは汽車に乗り継いで宮崎、鹿児島、熊本・・・と回った記憶があります。それは東京オリンピックの前の年だから1963年のことです。冷たい記憶です。

私風景論-13-

若い頃ってゆうのは自己没頭、まわりが見えない、それでいいのだと思います。そこそこに分別がついてきたり、年喰ってくるとまわりを気にして鉄火面のようになりますね。いやはや、それ以上に年を喰ってくると、怪人二十面相であったり明智小五郎であったりする。谷崎に瘋癲老人日記なんてのがあるけれど、なんかまねごとしてるんかなぁ、羞じも外聞もあったもんじゃないとは思うけれど、世間体ってのがあるらしい。

終わり
nakagawa shigeo

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写真への覚書-写真の被写体論-
2007.5.29~2007.6.18 nakagawa shigeo
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写真の被写体論-1-

ぼくたちはめったやたらに写真を見る機会があって、日常のなかに溢れているわけです。そのなかでもイメージキャラクターとして女性を被写体とした写真が溢れています。世の女性にははなはだ失礼な話しではあると思うけれど、女性が被写体となる写真の類は、おおむね男性の視線を意識した写真です。

写真史的にいえば、1970年代に入って、篠山紀信は若いアイドル写真を発表し、1973年には大丸デパートで「スター106人展」を開催します。それ以前のプレーボーイ誌以降、ピンナップ写真が商業レベルで続々と提供されます。ここではおおむね男は見る、女は見せるという関係が成立しています。一方で荒木経惟は、無名の女の子を被写体に写真を撮ります。

アマチュアカメラマンを集めてのモデル撮影会が盛隆するのも、この時期で、若い女の子が被写体になり、男性カメラマンが写真を撮るという構図が確固たるものになりました。こうした背景には、カメラ関連産業や出版産業界が、商業イズムを軸にしてバックアップしているわけです。そうして現在のデジタル環境に至ってきた女性被写体です。

写真の被写体論-2-

目に見えるものは何でも写ります。光のあるところ、目に見えるところ、ところで最近では、人間の肉眼では見えないようなモノが、写真の被写体になります。電子顕微鏡レベルで、天体望遠鏡、電波をとらえて画像に構成する。宇宙の写真とか、人体ミクロの写真とかですね。

とはいえ、ここではぼくが持っているデジタルカメラにおいて、被写体となるモノについての論にしようと思っているのです。カメラはキャノンのデジカメです。水中に入れることができないし、身体に入れ込むこともできないカメラです。焦点距離は35ミリフィルムカメラ換算で、35ミリから100ミリまでのズームです。

目の前に現われたる事物は、その範囲で、何でも撮ることができます。何でも撮ることができるとは言っても、興味あるモノしか撮らないわけで、興味あるモノが全て撮れるかといえば、撮りたくても撮れない被写体もあります。カメラには鉄則があって、現物、目に見える事物しか撮ることができないのです。

写真の被写体論-3-

大きな話しだけど、宇宙を構成する物質を思うことがあります。もちろん現代文化のなかで培ったぼくの知識のレベルで思うわけです。無機質な塵が集まって物質が造られてきた。その一つに太陽系地球があります。地球には無機物と有機物があります。太陽の光があり、水があり、空気があり、鉱物があり、そうして生命体があります。生命体は植物と動物にわけられ、多種多様な形態です。

それら全てが、目に見える範囲で、ぼくは写真にすることができるわけです。それらのなかで何を撮るかは、様々な制約のなかで選択するわけです。空があり、地面があり、空と地のあいだに空気があり、雲があり、海があります。地面には、植物があり動物がいます。多種多様な植物があり、多種多様な動物がいるのです。これらはいずれも、写真の被写体としてとらえることができますね。

写真の被写体論-4-

写真の歴史って170年ほど(1839年発明特許)ですが、誰でもがおいそれと行けないような遠い処へおもむいて、写真にしてきた歴史があります。まただれもがおいそれと見ることができない希な現象を写真にしてきた歴史があります。そのうち特別イベントを写真にしてきます。報道領域なんかはその最たるものです。商業広告宣伝の領域においてはファッションであったり、写真をピンナップ目的とするアイドル写真などがあります。

こうしてかなり極端に外観してみると、写真の被写体にされてきた事物は、遠くの事物、希な現象、特異な現場、購買欲をそそるイメージ、所有したい欲望を満たす代弁。このようにまとめることができそうです。ぼくも含め、世の写真愛好家たちは、この外観に則して、被写体を求めているのだと思います。さてさて、これでいいのかな、天邪鬼なぼくは、この流れ、外観にたいして、それでいいのかな、なんて疑問符をつけてしまうわけです。

写真の被写体論-5-

これも特段に新しい考え方ではありませんが、おおむね写真の主流となる歴史に反抗していけば、どのような被写体選びができるのかです。遠くのものを近くに、というなら、近くのものを近くで、との論です。そうですね、日常生活空間とでもいえばよろしいでしょうか。ちょっと買い物に行ったり、散歩したり、なになに家の中があるじゃないですか。つまり写真の被写体を、勝手知ったる生活空間にあるものとしていく論が成立します。

日常の生活空間で希なる現象に出会うこと、これはあります。朝に射しこむ光の群れ、夕暮れに窓の外が夕焼け、日常生活のなかでの希なる光景です。これは採用しよう、日常生活における希なる光景。でも大半は、ごくごくありふれたことの繰り返しが日常生活というものだから、日常生活空間のなかで、遠くのものを近くへ引き寄せることが必要です。意識しなかったことを意識すること。この作業が、意識しなかった遠くのものが、意識することで近くに寄ってくるということです。

写真の被写体論-6-

写真を撮ることの目的として、人に見せるために、ということがあります。自己顕示、このようにとらえることができます。もちろん写真を撮って売ることをプロフェッショナルだとすれば、このプロフェッショナルは、買われることを意識しなければなりません。いやいや、写真をお金にすることは、クライアントがいてユーザーがいて、その求めにしたがって写真を撮ることが大半です。ある種、これは写真の制作技術力が備われば、撮る被写体は他から要求されるので、その要求に従えばよろしいのです。

写真作家というレベルは、そのクライアントとユーザーに優先されるレベルでなくて、俗っぽくいえばクライアントとユーザーがあとからついてくる。そういえばカメラマンをしている多くのプロフェッショナルが、自分の意思のおもむくままに写真を作りたいというのを耳にしてきました。つまり、自らの意思によって被写体を選びたいと思っているわけです。自らの意思というレベルは、俗に言えば好きな被写体を好きなように撮りたいという欲求です。

写真の被写体論-7-

人間の欲求、優先順位は、食欲、性欲、自己顕示欲、こんな順位かと思うところです。写真を撮る行為が、この欲求に根ざしているものとして論をすすめると、被写体としては、食べ物の類、性欲対象の類、自分を良く見せたい類、としてとらえることができそうです。カメラは実在するものしか捉えることしかできないし、写真はカメラが立ち会ったその時にしか作ることができない代物です。

食欲を満たすためには食べるわけですが、食べるモノと食べる場所はバリエーションがあります。写真において欲求が満たされるものではありませんが、これをカメラにおいて捉え、写真にしていく。性欲においても写真が欲求を満たしてくれるのではありませんが、写真が代用物となることはままあると思います。それに自己顕示、ほれほれ見てご覧、こんなの撮っちゃったよ、いいだろ!、なんていえる相手がいて、相手がうんうんすっごいねぇ、なんて感心してくれることを望むわけです。  

写真の被写体論-8-

カメラを持った自分が、被写体とどのような関係を結ぶのか、という問題があります。クライアントの求めに応じてカメラを持つ時には、あらかじめ設定された枠組みで被写体を撮ることになりますが、クライアントがいない場合、つまり、自分が選択していく被写体との関係です。写真を撮るということは、その場所に立ち入っているわけで、被写体と<何か>を共有することになります。遠い関係、近い関係。この遠近関係でいくと、なるべく近い関係を被写体に求めたいとの気持ちがあります。

ソーシャルランドスケープからプライベートランドスケープへと移行してくる写真の視点で、人物写真の場合、なるべく近場で、家族とか恋人とか、そういう現場で被写体を求めてきたわけですが、その関係の証が目線だと考えています。目線とは、被写体の見ているモノが何処にあるか、です。その目線がカメラを見ている、つまり自分を見ているという関係です。一人称と二人称の関係が成り立つ関係です。このことが最終レベルであるというには、異論がありますが、日常の関係を写真に求めるとき、自分に向けられた目線というのは、重要なポイントだと考えます。

写真の被写体論-9-

スナップ手法による写真は、ある一過性現象の外皮を写真像として定着させます。それだけでは意味とか価値とか、その現場に付随するものは表示しないものです。意味とか価値の概念は、言葉による概念です。写真が提示されたあとの後づけです。もちろん、この後づけの意味や価値を事前に用意しておいて現場と向き合うわけですが、写真像として定着されるのは、現場にあったモノ、それがあったことを表すだけなのです。

意味と価値、つまり言葉にべったりへばりついた写真のあり方に対して、プロヴォーグの同人は、異議申し立てをおこなったわけだけれど、その是非にむけて、ここでは再検討を試みようとしているのです。画像の解体、画像にまつわる意味の解体、無意味あるいは無価値なものにすることが、けっきょく新たな意味を生成しだすジレンマに陥ってしまうのです。ただし、ドキュメント概念の「場所・日付」を取り外したところに生じる新たなる意味であった。このように括ってみて、そこから何を今に引き寄せられるのか、ということが問題となるのです。

写真の被写体論-10-

この論を組み立てるために掲載している写真被写体の中心は、大半が人間、それも女性、あえて若い年代の女性が主体です。カメラとの距離、カメラに対する目線、それらの構図によって、遠近を感じさせます。遠くにあるモノが小さく、近くにあるモノが大きく見えるという遠近感にとどまらず、撮影者と被写体の位置関係における遠近が感じられるのではないかと思います。若い女性が選択されている理由は、撮影者が男であり、それなりの高齢者であることに拠っています。つまり撮影者の興味による選択です。

カメラのこちら側にある視線は、見る側の視線です。カメラのむこう側、つまり撮られる被写体は、見られる視線です。見る側と見られる側、セルフポではない写真の撮り方として、見る、見られる、という関係によって構成されます。写真は、見る位置において写真を見ます。現場の擬似物として、現場が凝縮されたものとして、写真があるとすれば、被写体の立ち振る舞いそのものが、見る側と見られる側の遠近を示すことになります。それによって喚起される心の問題、情のありかは、それ以後の問題となります。

写真の被写体論-11-

被写体としたモノには物語がある、なんてことを考えて、撮られたモノがおのずと語りかけてくる、なんて思って、写真を撮るわけだけれど、自分が見たい、熟視したい、と思うモノを被写体としていくわけです。そう考えると写真を撮るってゆうのは、かなり自分の欲望に則しているんですね。見たいと思うモノ、とはいえ熟視することなんてできないことが多いじゃないですか。なんだかんだと言ったって、食欲と性欲に満たされたぼくのからだですから、カメラがその代弁してくれて、あとでゆっくり見てあげる。

写真は視覚です。匂いも味も肌触りもない無味無臭。かってなら紙切れだったけれど、今様、モニターに映し出される画像です。カメラは、目に見えるモノしか写さないから、見えたモノをとらえてシャッターを切ります。合意のうえで撮るばあい、これは安定した気持ちで被写体と向きあえます。でも、見たいものは、つまり覗き見たいものは、おおむね相手の合意など得られないから、とくにおヒトにカメラを向けるときには、社会通念としての後ろめたさ気分に満たされますね。

写真の被写体論-12-

社会正義のために、なんて大義名分と目的が持てた時代には、撮ることじたいがそれなりに正義なんですけど、そんな目的を棄てたあとに照射されてくる内面は、自分の欲望、自分の興味、自分の所有欲、まあ自分にまつわる個人的なことでしかないわけです。なんだかんだと綺麗ごとを言ったって、そんなのは嘘っぱちであって、本音は撮ったモノを眺めて見入るために撮る。それがいったいなんぼのモノか、なんてことは考えないでおこうと思います。

写真は文化を形成する手段です。美的感覚、社会憧憬、それに所有する欲望の喚起・・・。いまや映像の時代だとしても、商品として写真が利用されるとき、様々に欲望を喚起させ、満たせてくれる代物です。すべてはヒトが使用にまつわる商品です。無害であるか有害であるかの基準は明確ではないけれど、無害商品、無印商品、有害商品、有印商品、そうしてここは無害な場だからこれ以上は言わないけれど、ゆうのにはばかられる写真商品があるわけです。制作者でもあり鑑賞者でもあるぼくは、無害有害のはざまを浮遊するのです。

写真の被写体論-13-

人間が初めて残した痕跡は手形、ネガティブ・ハンドだといわれていますが、それは洞窟のなかでした。鉱物の石に何かが宿り、それを神と名づけたようですが、宿っているか宿っていないかを区別するためには、しるしをつけます。注連縄(しめなわ)であったり、ヒトの顔であったり、そのしるしはいくつかあると思います。ただのものがただではなくなる。ぼくは、ただの石もただではない石も、もしかりに神なるものがいらしゃるなら、すべてに宿っていらっしゃる式の論法で、写真を撮りすすんでいるのだけれど、これなんぞは表記された代物です。

写真とするには被写体を選びます。被写体は何かを語らせる背景を持っているもの。うんうん、語らせると言ってしまえば言葉に従属してしまうので、何かを感じさせるモノでなければならない、と考えています。ヒトのからだと共にある<情>が醸され、滲み出る。情にも種別とレベルがあって、ナマリアルを超える情の誘発なんてことを思ったりするのですけど、究極の写真被写体とゆうのは、まさにナマリアルとは別のナマリアル。五感プラス一感で感じるナマリアルと同様、あるいはそれを超える<情>を誘発できるかどうかなのではないでしょうか。 

終わり

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写真への覚書-風俗写真論-
2007.6.20~2007.7.13 nakagawa shigeo
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 風俗写真論-1-

風俗とは、世の移り変わりの表皮であって、その奥にヒトのさまざまな欲望が渦巻く状態のことだと感じていて、風俗写真とゆうとき、第一の意味として、それが撮られた町並であるとか、ヒトの衣装であるとか、生活の道具であるとか、それら集合体の羅列です。そうして第二の意味として、その写真の背後に渦巻く欲望の情が感じられるのであれば、その写真はある程度完成品となるのです。

写真を読み解くことに重点が置かれてきた鑑賞の仕方から、感じとることに重点を置いた写真のありかたを模索します。欲望の質と種類にはいくつかの類型がありますが、大きくは三つに分類しています。生理的欲求としての食欲そして性欲、我が身に引きつけたい所有欲、精神的欲求としての認知されたい欲求あたりです。この世の欲望を満たしていくための装置として、いまや消費経済があります。

我が身を包む衣装の奥にヒトのからだがあります。からだの欲求は食欲と性欲です。食べることとセクスすること。この二つのことが、からだが欲求する基底にあるものだと感じています。世の中は生活のレベルでとらえると、おおむねこの二つの領域を満たすための装置です。写真を撮るとゆうことは、それらの表皮を撮ることでしかないのです。けれどもそれらの欲望が、視覚によって満たされる代償行為なのかも知れません。

風俗写真論-2-

頭を使って考えるなんてゆうと哲学に代表される思想の領域ですけれど、普通、日常、俗に普段という概念では、読み書きそろばん、いまなら看板を読み値札をよみ、お金を支払う、お金をいただく、とういった簡単なレベルで時間を過ごしているわけで、けっして高尚なことを考えているわけではない、と思っているわけです。写真なんて、いまどきのカメラはおおむね全て自動で、つまりオート撮影ですから、考えることなんていらないわけで、見たものに興味がそそられれば、シャッターを押せばいい次第です。

それにしても雑多な色彩に満ちた日常光景です。お洋服にしても、印刷物にしても、いやはや持ち物の大半が色つきです。赤色、桃色、橙色、どっちかゆうと暖色系の色合いとゆうのは、ぼくの心を惹きつけてしまいます。情を昂奮させる色彩なのだと思います。ピンク写真にピンクサロン、真っ赤では昂奮しすぎて派手すぎるので、ピンク、つまり桃色、そういえば桃色遊戯なんて言葉もありましたね。うんうん、なにが言いたいのかとゆえば、風俗という言葉が醸しだすムードとかイメージを追っているわけです。

風俗写真論-3-

ぼくの手許の国語辞典で、ふうぞく(風俗)を引いてみると、1に身なり、服装、2にならわし、習慣、とあります。そこに風俗小説という項があって、<その時代の風俗をえがくことを主眼とする小説>との記述があります。この風俗小説になぞらえて風俗写真を定義すると、<その時代の風俗を写すことを主眼とする写真>ということです。国語辞書の初版は1956年だからおよそ半世紀前で、いまここで風俗の中身はと問うてみて、今様身なり服装、今様習慣を写真に撮ることが風俗写真という枠組みとなりますね。

そうやないんや、今様風俗、なまってフーゾクって表記される場所ってのは、女がいて男がいる場所で、見る見られる、するされるとゆう関係性のなかで営まれる場所ですね。その表象をカメラでとらえること、つまり男と女の現場を写真にすること。この領域をもって撮られる写真を、風俗写真と定義してもよさそうかと思います。そうすると個人的に、風俗写真に立ち入れるかとゆうと、かなりムリめです。みずから演じることにより、あるいは立入ることを許される専属カメラマン、あるいは商用目的に作る写真群のカメラマン。まあ、風俗写真というのは、そうゆうレベルの写真であろうと思い、それが社会的否定ではなくて、有用であることへと転じさせなければいけないようですね。

風俗写真論-4-

千年前に書かれた源氏物語ってのがあって古典文学の代表作品、これは小説です、物語です。この物語には、後に絵巻物が作られて、視覚により見ることができるようになっています。最近の現代語訳では瀬戸内寂聴さんのものが出版されて、ぼくもダイジェスト版で読んでみました。自然風物、季節折々の草花、それらを背景にした宮中の男女関係が描かれていて、男と女の心理の襞が読み取れる感じがします。風俗小説としての最初の作品だと認知しているわけだけれど、一夜を過ごす男と女の行為描写はありません。つまりセクス現場の描写ですが、これはありません。

文学の正当な流れでゆうと、源氏物語に現れた表象描写が、正統派文学の表象であって、セクス現場の描写は正統派文学ではないとの認識ができそうです。官能小説というジャンルがあるし、現代作家のテーマに<性・セクス>を扱う小説も多くあります。これは文学の話で、さて、写真という分野、つまりイメージ像提示の現場においてはどうなのかというのが、ここでは問題として提起されてきます。ほくの認識は、公然と表沙汰とすることができる文章やイメージ像があり、そうすることが憚られる文章やイメージ像があり、それを区分する目に見えない線が変化してきて、今様文学および映像の線引きが問題となってきます。  

風俗写真論-5-

風俗という言葉がイメージさせることは、あんまり高尚で知的な領域ではなさそうです。そういう思い込みをぼくは持っているわけで、低位で感情的なことを、ひと前で晒すのは恥ずかしいことだと思っていました。このぼく自身の思い込みかた、あるいは刷り込まれかたといってもいいのかもしれない。この環境に対して、ぼくは歳とともに、恥ずかしさを乗り越えていこうと思うのでした。この世の出来事を、男と女という関係をもって組み立てる試みをしたいと思いだしています。女が写される立場に置かれた写真において、ぼくの立場も女は写される立場に置きます。ぼくは男だから、目線は女に向かいます。とは言っても女に接する機会なんぞ無いから、町角にて写真を撮る。そこに風俗をイメージしながら、写真を撮り、アップしているのです。

風俗写真論-6-

風俗とは、日常の生活の表面だから、日常の光景だとか、ありふれた光景だとか、つまり自分の身のまわりに起こる事柄を、写真にしていくことをもって、風俗写真とするのが妥当なのかも知れないと思います。でも、そこは淡々ではなくて、かなり濃厚な色艶があるようにも思えます。生活することそのこと自体が、かなりエロティックであり、情の世界があり、男と女があるわけで、そうゆう世界とどのように向き合うか、結果として向き合ったか、ということが現れなければならないように思います。

写真の向き合う世界で、被写体との個人的な関係のなかに求めることがあります。プライベートドキュメント、つまり個人の記録ということです。この記録の方式をどのように構成してとらえるか、このことがいま問われている問題だと感じています。日常生活の表面。日々目の前に起こる出来事に、カメラを向けていくこと、そこに何を発見するかが問われるわけで、自分の在処(ありか)を発見していく道筋だと思うのです。  

風俗写真論-7-

太宰の小説に女生徒とゆのがあって、女のわたしが色々思うことを書いている、まあ、いま読んで見ると、そんなに、あっと驚くほどの内容でもないけれど、その内面がけっこう悲惨な感じで面白い、へんな感想だけど、まあ、そのタイトルの女生徒という名詞を想い起こすわけです。制服に身をまとった女の子。女の子、生徒というものに一般化してしまう魔物だけれど、その奥に、ひとりひとりの心があって、なにかしらうごめく感情があって、そうして悩み、悶える身と心があるようですね。

写真は、そんな内面なんてお構いなしに、制服を着た女生徒とゆうのは、セクス業界の対象となるようです。そんなイメージがつきまとう制服すがたの女生徒について、ぼくは写真集のタイトルにしようかとも思っています。制服というのがキーワードで、具体的な言葉を紡ぐより、写真を連ねるほうが意味深いようにも思うところです。女生徒の制服が、風俗の何たるかは、いまのところ未知ですけれど・・・。

風俗写真論-8-

町角に、自転車に跨った女がいる。ふっとそのことが気になっていろいろと思ってみた。自転車に跨った女の図というのは、そんなに昔からあったわけではないようだ。そういえば祖母なんかは自転車になんて乗らなかった。女が自転車に乗るということは、淑女のたしなみではなかったのだとも言います。男は自転車に跨った女を見て、いろいろと思い巡らします。そうして自転車に跨ることを禁止した。ざっとこのような歴史背景をもった自転車に跨った女の図について、ぼくは写真を撮るとき意識してしまいます。

自転車ってゆう乗り物が、けっこうエロスティックな代物だと思うのは、ぼくの勝手な思い込みなのかも知れません。女が先っちょ尖ったサドルに跨って、自転車をこぐとき、膝が上がり下がりして、太ももが微妙に擦れ合うわけです。スカートを穿いた女なんぞは、奇妙に膝をぴったしくっつけてペダルをこぐから、余計に奇妙な連想をしてしまうのです。そうゆう代物、自転車に跨った女の図を集めた写真集を作りたい・・・。

風俗写真論-9-

写真がかもすイメージを、イメージとしてとらえていくと、ぼくは食べ物の店、この場合は中華料理の店、中華料理とはいっても庶民的イメージでアレンジされたメニューを扱う中華の店のショーウインドウなわけです。このショーウインドウ写真じたいが、ぼくには風俗濃厚写真だと思うわけです。風俗写真には、女の裸があればそれだけで風俗写真だと認定してしまうのですけど、それに類する、あるいはイメージ連鎖としての風俗写真の類に該当すると思っているのです。

かりに高級ホテルの高級中華料理店であれば、高額なメニューがある店イメージとしてどうだろうかと考えます。直感的に、高級料理店を風俗店とは言わない仕組みがあるのではないかと思うんです。高級店と低級店、このように分けたほうがわかりやすければ、風俗店イコール低級店、いいや低級店というのはふさわしくないですね、けっこう高くつくんですものね、風俗店とゆうのは、ね。結果として、高級店と風俗店は対をなす考えではなさそうですね。

風俗写真論-10-

エロ映画館の上映ポスターを撮った写真です。そうゆうことでいえば理屈抜きに、エロあるいはポルノといえばよろしいんでしょうか、その内容を映画の内容としたものが上映されているという告知写真を撮ったもので、なんの議論もなしに風俗写真として組み入れているわけで、深い理由はなくて、俗に風俗といえば、こうゆうイメージのことを指すのが適当だと思い込んでいるわけです。

これって複雑な回路で、けっこうややこしい認定のしかたやと思います。なんで女の裸が出てくれば風俗なんや、という疑問です。いやはや、風俗写真、もしくは風俗写真論ってゆうタイトルをつけたところに、すでに予定調和的、予兆的な思い入れがあって、それを疑問ともなんとも思わない、ではなくて、疑問に思うところから、この論が始まるのです。そうゆう代物ですよね、風俗写真って・・・。

風俗写真論-11-

いうまでもなく、見れば判る、モスバーガーの店舗です。見れば判るといいましたけど、知っている人なら見れば判る、という意味です。モスバーガーの店が、風俗店なのかどうかというのは人それぞれに議論の余地がありそうだと思います。ぼくだってけっこう曖昧に、この写真を撮って、風俗写真の論におけるイメージ写真として使っているわけだから、そもそも風俗写真に、このモスバーガーのイメージを排除するのか含めるのか、という個別の議論が必要なのかも知れません。

モスバーガーといえば、結構高級な感じのファーストフーズチェーンじゃないですか。うんうん、吉野家の牛丼なんかは、モスよりも風俗やといえば、モスバーガーより濃厚に思えるぼくだけど、さて、モスバーガーを風俗にいれるかどうか、ほれほれ、個別に詮索しだすと、訳がわからなくなってくるじゃありませんか。しょせん、言葉とか写真とか、突き詰めていけばいくほど、わけがわからなくなってしまうわけです。それで、ぼくは、そういいながらも、モスバーガーの店舗写真を、風俗写真から外そうとは考えていません。

風俗写真論-12-

ことばが紡ぎだせずに、イメージだけが先行している感じの風俗写真論です。とゆうのも、たぶん風俗という言葉のイメージに囚われすぎていて、思うように言葉がつながらないのだと思っています。なんのことはない、かっこうつけて、あんましゲスなこと書かれへん、とゆうような自負みたいなもんがあって、評論とはやっぱ、高尚なものでないとあかん!なんて思ってしまうわけで、そおゆう枠を外してしもて、もっと下種な話しにすればいいわけなのです。

いろんな商売あるけれど、これなんか屋台の商売で、見るたびにその生き方の逞しさに敬服してしまいます。ぼくなんぞにはできない仕事です。なんといってもできない仕事だと思ってしまいます。そういえば、なんか高止まりしてる感じですけど、お袋がこうゆう商売を一時期していて、それにまつわる記憶が甦ってくるからです。こってり生活の滲みついた光景なのです。

風俗写真論-13-

わけがわかったようなわからなかったような風俗写真論の最後は、グリコのキャラメルの箱を撮った写真です。一粒300メートルというのがキャッチフレーズで、子供のころ、一粒たべたら300メートル走れるとゆことやと思って、運動会の前に一個食べると余ってしまう、なんて妙なこと考えていたことを思い出します。なんだろう、グリコのこのパッケージをスーパーの店頭に見かけて、おもわづカメラを取り出してシャッターを切ってしもたわけで、その衝動たるや、いったいなんやねん、と考えてしまう、これがここでの論議です。

なんやねん、この写真、そもそも写真ってなんやねん、そんな疑問がわいてきて、ああでもない、こうでもない、そうしてわかったようなふりをして、わかったと言ってみようとして、はたっと困ってしまって絶句、なんてことになるのがオチなんだけど、あほみたいにこだわってるんやね、ぼくってほんと。もっとずばずば、ことの良否を論じていけば歯切れがいいんだけど、どうもそのようにはできなくて、困ってしまうのでございます。風俗写真論は終わりです。

(終わり)

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写真への覚書-風景試論-
2007.7.15~2007.8.2 nakagawa shigeo
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風景試論-1-

風景には、いくつもの種類があって、自然風景、人工風景という分類ができるし、この人工風景のことを社会的風景と呼んでもかまわない。つまりいくつもの種類があるとは言っても、ぼくの分類方法は、風景を構成するモノ自体についてです。徹底的に自然のまま風景、徹底的に人間の手が加えられた風景。この二つの間をゆれうごく風景を、ちょっと論じてみたいと思うのです。

この写真なんかを見てみると、まあ、ほぼ、100%近くのものに、人間が手を加えて出来上がったもので構成されています。この写真が撮られた町の中は、具体的には京都は西大路の廬山寺下がったところにあるマクドナルドの前です。このなかで自然のままのモノがいかほどあるかと見れば、まず四人の女の子のからだと、植え込みのなかの植物が、どちらかといえば自然のままで、あとの全ては人間の手によって加工されたモノなのです。

風景試論-2-

写真はカメラを使って撮られるわけだけれど、撮られる被写体の全てを風景としてくくることができます。この風景のグレードに枠をはめると、自然風景から人工風景までの枠があり、動物が居り、人間がいる。写真の関心ごとは人間であり、人間の顔であり、人間のからだです。なんだかんだといっても、感心ごとが人間であるのは決して写真がそうである以前に、人間の関心ごとが、ぼく自身の関心ごとが、そうなのです。究極、はだかの人に興味を示すわけですけれど、この世の中で写真を公然と見るには、はだかとはいえなくて、お洋服なりの衣装を着せてあげて、装飾品なんぞも持たせてあげて、そうしてスナップショットの登場人物としてしまうわけです。

撮った風景を共有する範囲について考えると、全てが全てに公開するという気持ちにはなれないわけで、たとえば恋人の顔写真は自分だけで占有しておきたい気分になるし、家族の写った写真も家族だけの共有としておきたい気分になります。ここに見せる気持ちと見る気持ちが矛盾するわけですが、見せる気持ちとしては覗かせたくない。見る気持ちとしては覗き見したい。こうゆう気持ちなわけですね。見ることと見せることが同じグレードで、双方向であるわけではないのです。そこで覗き見たいと思う気持ちを代弁する写真が、巷にあふれだすことになってきます。

風景試論-3-

撮影の現場は祇園祭の宵山です。だから撮る写真は、それらしい写真でなければならない、と思うんです。それらしい写真とは、いったい何かとゆうと、祭りだから浴衣(ゆかた)姿がいいですね。それに女性がよろしい、それに若い方がよろしい、まあ、それなりに限定つきで写真をかたちにはめこんでしまうんです。これ、常套手段なんですけど、こうして祭りやとゆうと、お定まりパターンがあって、その枠を確認していくことで、祭りのイメージを作っていくわけ。

まあ、厳密にいえば、写真が写真として社会の中で成立するための条件、なんてことに繋がっていく論ですね。ここで風景といいながら、町の光景を羅列しているわけだけれど、うん、これが風景なんです。まったくすべて人間の手によって作られたモノに囲まれた風景なんです。とはいっても中途半端な風景やなぁ、と思う。祭りの女、とか何とかの個別の題をつければいいものを、風景だなんて括ってしまうんだから、ちょっと理解しにくいんじゃないでしょうか。  

風景試論-4-

拡散する視点とでもいえばいいかと思いますけど、焦点の合わない写真。とはいっても技術的なピンボケではなくて、撮られた被写体への注視度が低い、あるいは拡散している、焦点が定まっていない。まあ、こうゆうたぐいの写真のことです。写真ってのは、一般には、何を撮るか、何が撮られたか、とゆうことが明確でなければならないとされるわけで、漠然と撮られたようにも見える写真を、このようにして見せられたとき、見せられたほうは、どう対処したらいいのか判らない。これ、率直な気持ちと意見だと思うんです。

これは祇園祭です。これは祇園祭の路上スナップです。これは祇園祭の見物に集まった群集写真です。いろいろと説明できるけれど、いったいそれがどうしたん・・・。そやから、どうやゆうねん・・・。まあ、写真の意味とかゆうのは、見る人がそれなりに見てくれたらええやん、と開き直った発言にもつながっていくんですね。それは、やっぱり無責任、こうして、こんなことゆうてることじたい、無責任ですね。あらためて、風景とはなにか、風景写真とはどうゆうものか、はたまた、写真っていったいなんなんうやろ???と考える。結論は、結局先へと延ばしてしまうにすぎないけれど・・・。

風景試論-5-

ソーシャルランドスケープ、社会的風景、路上でのスナップ写真は、社会的風景として現れています。こんな論を立てられたのが、1960年代、1966年に開催された写真展の標題だから、それから40年余りが過ぎてしまったことになります。だから、いまさら、こんな社会的風景論と路上スナップ写真論は、新しいものでも何でもない領域です。でもしかし、ここでは風景試論として路上スナップをメインに立てながら、それへの検証だといっておきます。

新しいテーマと手法による写真が、価値あるものだとすれば、使いふるされたテーマと手法をもって構成される写真群は、それほど価値のあるものではないのかも知れません。ここに一枚、自転車に跨った女生徒の写真ですが、このたぐいの写真の現在的主流は、すでにネットの中ではパンチラ写真なのではないかと思うところです。その初めをプレイボーイ誌のピンナップに求めるならば、その延長線上に展開されてきた商業写真とゆうことになるかと思います。  

風景試論-6-

女の子写真で、下着姿写真やパンチラ写真が商業的主流であるとすれば、消費者としての男の子はそのイメージに慣らされてしまう。もちろんエスカレートするそのイメージの奥には、ヌードフォトジャンルで、かなり開放されたセックス現場写真にまで到っているわけで、ネット上で、ひところでは考えられない勢いで流通しているわけです。

モデル撮影ではなくて、たまたま遭遇する路上スナップ写真において、女の子がいる町角&歩道の写真なんて、いまのイメージにおいて、どれだけの鑑賞に堪えることができるのだろうか、と思ってしまいます。イメージ操作のなかで、これらの写真イメージが入り口であって、次のページには透けた下着、パンティチラリの写真が載っていることを、期待するのではないかと思います。

風景試論-7-

次のページを開いてみても、相変わらず路上で撮られたスナップショットがあるだけで、見慣れた光景の繰り返しにすぎないとしたら、読者の興味は半減してしまう、あるいは興味をそいでしまうのがオチでしょう。つまり、この風景試論に写真を掲載している写真について、自ら検証しているわけです。商業でないシステムで写真を撮り、発表するとすれば、これが限界、限度だと考えるところです。

ところで現在のカメラシステム、デジタルカメラシステムは、プライベートな関係のなかに入り込みます。観光地などで、携帯電話のカメラを、自分たちの方へ向けて、記念の写真を撮っている男女のペアを見かけます。おおむね女の方が仕向けていくようにも見受けられる二人だけの写真撮影、記念写真。プライベート写真といえば、アラーキーのセンチメンタルな旅ってのが1970年に発表されているわけだけれど、そこにはちゃんと男と女、夫と妻のプライベートルームの痕跡が残されているわけで、その延長線上に、デジタルカメラの現在があるとも思えます。  

風景試論-8-

風景写真、ソーシャルランドスケープ、社会的風景。この社会的風景への撮影者のまなざしというのが論じられるようになって、ぼくは三つの領域に分けています。社会的な眼、個人的な眼、極私的な眼。ドキュメント写真を時代的に区切って、その変化をとらえたイメージです。個人的に社会と関わる眼でもって、写真を撮る。この風景試論に載せている写真のたぐいは、あえてゆうなれば、この領域の写真です。路上で、つまり公衆の眼の前でくりひろげられる世界です。一人称がおり、二人称がおり、三人称も混在する場、それが町角や路上です。

ここに連載の写真は、その関係を超えることがないところで撮られた写真です。ひところにはパーソナルドキュメント、私的なまなざし、なんてことが言われた写真です。ところが近年では、プライベートドキュメントと言われ、町角や路上だけではなくて、プライベートな生活空間が写真の撮影現場に含まれ、三人称が混じらない場、つまり一人称と二人称の関係のなかで撮られる写真が、公的に発表されるようになったわけです。公的にというのは、美術館やギャラリーでの展示、印刷物への転化です。プライベートな関係が、プライベートを超えてしまう関係が発生してきたわけです。

風景試論-9-

静止画としての写真が、商業流通の現場において、イメージの主流の座をビデオ映像に明け渡してから久しい時間が経ったように思います。報道や、コマーシャルの現場で、静止画が必要なメディアは、印刷メディアであり、商品カタログの類の写真であって、即座に世界を駆け巡る情報は動画映像の情報です。商品広告においてもテレビメディア用の動画、それも実写だけではなくて、合成を含む動画です。ここでは、こういった現状の映像環境のなかでの、静止画としての写真のあり方を考えているのです。

人間欲望実現のための道具としてのメディア。視覚と聴覚のレベルで展開されるメディアとして、その一つに写真があります。人間の欲望を満たすための道具としての写真。欲望の種類にはいくつかの類があって、食べる、着る、住まう、つまり衣食住に集約されますが、そこには最早、写真が主流になるところではありません。衣食住の情報を伝達する手段として、写真が主流になるところではありません。つまりテレビを媒介とする映像を想いうかべてみればいいと思います。こうしたときの写真の生き残り方を、思っているわけです。  

風景試論-10-

最近、ぼくは、かなりイージーになってきていると思っています。それらしい感じで、深い理屈もなく、どんどん写真を公開していっています。この風景試論にしても、写真先行で、そのあとから理屈を捏ねるというプロセスを踏んでいるわけです。写真イメージにあわせて、それらしい感じで、言葉を連ねているわけです。でも、まあ、想定するところ、くっつけられた文章を読んで見ても、なにをゆわんとしているのか、きっとわかりにくいやろなぁ、そのように思っているわけです。

最近のぼくの文体では、・・・ってわけです、なんて表現を多用しているところですけど、これは、説得力ある写真についての文章なんて、書けないなぁ、と評論家、あるいは批評家としては失格しているところです、と思っているわけで、そもそも風景とは何なのか、なんてあらためて問題提起しないと、説得力なんて出てこない気がして、でも、そんな問題提起して議論するほど、世の中ユックリズムじゃないと思ってしまうんです。だからこそ風景試論・・・。


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現代写真表現論
東松・荒木・プロヴォーグの作家にみるドキュメントの形
-生命・自然・欲望-

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2009.10.3 
Nakagawa Shigeo
★現在という時代の写真環境
・いま、現在200910月の写真をめぐるハード環境を外観すると、一眼レフ・フィルムカメラの時代が過ぎて、デジタルカメラとトイカメラが制作ツールとして、前面に出てきています。
・デジタルカメラは、一眼レフデジカメであり、携帯電話のカメラ機能であり、コンパクトデジタルカメラです。また、フィルムを使って、ちょっと作家気分が味わえるトイカメラ類があります。
1968年には、東松照明氏が、日録写真を発表(カメラ毎日3月号)していますが、フォトグラフィーにかわるホモグラフィーを提唱していたりします。

★現代写真とは、いつからを、始まりとするか。
・ここでは1968年を、現代写真の区切りの初めとしたい。
1968年前後とはどんな時代だったのか、特に写真をめぐる表現方法の問題として捉えてみたい。
・現在的な意味では、1968年から41年という歳月が経過したなかで、当時の主テーマだった「人間の解放」といったような命題が、いまどうなっているのか、との問い直すことだと思っています。
・この41年間になにがあったのか。現時点での話題の背景は、1968年を中心として現れてきた諸現象の将来的可能性に対して、現実に経過した年月があるわけですが、この現実に経過した年月をどのように捉えるのかが問題となります。つまり、肯定するのか、否定するのか。
・そこで、現代潮流としての社会的テーマを言い当てるとすれば、生命、自然、欲望というキーワードに、集約されるのではないかと考えています。
・この三つのキーワードを軸にして、現代写真の表現手法について考えてみたいと思います。

★日本の写真の特徴と東松照明
・日本の写真の特徴といえば、絵画や文学の特徴でもある花鳥風月の世界に対して、1950年代のリアリズム(社会の表層をなでていく手法でしか深化しなかった)、1960年代後半の前期コンポラ写真(PROVOKEを中心とする)と、後期コンポラ写真(牛腸茂雄に代表される)というおおきな流れとして観察されますが、東松照明氏は一貫して、社会ドキュメントの方法とあり方にこだわってきました。

★東松照明氏の年史(1966年から2007年)を書き出してみます。
1966年 「<1102分>NAGASAKI」出版。
     みずから出版社を作り出して単行本出版を試みる。
1973年 カメラ毎日誌に「太陽の鉛筆・沖縄」を連載する。
1975年 「太陽の鉛筆」カメラ毎日から出版する。
1974年~ 写真学校/ワークショップと「桜」取材を経て
1981年 京都取材に入る。
1986年 心臓バイパス手術を受ける。その後写真撮影再開でインタフェースの世界へはいる。
1989年 「プラスチックス」を発表(パルコ・ギャラリー)
1990年 「さくら・桜・サクラ」ロッテルダム&大阪で個展
1994年     「桜・京―原像ニッポン国」コニカプラザで個展
     京都取材から10年目にして個展開催
1999年 長崎へ移住する。
2003年~2004年 京都国立近代美術館において6回シリーズの個展を開催
2005年 「Camp カラフルな!あまりにもカラフルな!!」ギャラリー新居で個展
2007年 「Tokyo 曼荼羅」東京都写真美術館にて開催

★荒木経惟のメール・フォト&写真集「センチメンタルな旅」
・荒木経惟氏は、1970年前後、メール・フォトを展開します。写真をゼロックス・コピーし黒のラシャ紙を表紙として赤糸でとじられた写真集を郵便で送ります。ここで荒木氏は、<写真に関するメッセージ伝達の可能性>を追求していたとされています。
1971年には写真集「センチメンタルな旅」を、限定千部定価千円で自家出版します。
・妻陽子さんとの新婚旅行を、日常的な眼で追うフォト・ダイアリーと云った気軽さがそこにはあります。東京を発ち、京都から柳川への新婚旅行です。
・荒木経惟氏の写真記録は、個人の新婚旅行というテーマで、それまで写真として見慣れていた、写真の社会的光景を上回る衝撃を内含していました。
・私的な関係への私的なまなざしとでも云えばいいかと思います。

★「PROVOKE」は、196811月に季刊同人雑誌として創刊された。
・創刊時の同人は、中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦の4人。第2号から森山大道氏が加わります。
・「PROVOKE」(プロヴォーグ)とは、「挑発」という意味です。サブタイトルに「思想のための挑発的資料」と付けられていました。
・「PROVOKE」は、19698月に第3号を出して終わり、19703月写真・エッセイ集「まず、たしからしさの世界をすてろ」を発刊し、同人は解散します。
・「PROVOKE」同人たちの写真集
・森山大道「にっぽん劇場写真帖」1968年 「写真よさようなら」1972
・中平卓馬「来たるべき言葉のために」1970
・高梨 豊「都市へ」1974

★ 19749月、写真学校「WORKSHOP」が開校します。
・東松照明、細江英公、横須賀功光、森山大道、荒木経惟、深瀬昌久が講師となった個人塾の連合のような学校でした。季刊誌「WORKSHOP」を発行し、写真家志望の若者に新風をもたらしました。

★当時の流行にコンポラ写真というのがあります。
・コンポラとは、1966年にアメリカで開催された写真展「Contemporary Photographers Toward A Social Landscape」(現在の写真家、社会的風景に向かって)から始まる一連の写真家の作品をさしています。
・日本においても日常のさりげない事象(事件もストーリーもない)を切り取る横位置の構図、対象との醒めた距離などを感じさせる写真が出現してきます。午腸茂雄氏の「日々」(1971年)などがそれである。
・当時も現在もテーマとなる、<自己と他者>という関係の網の目を、カメラと写真というメディアをとおして、検証していく作業をおこなうわけですが、その一つのスタイルとして、選択されてきたといえます。のち1977年出版の午腸茂雄「セルフ&アザーズ」はコンポラ写真の代表的作品であるといわれています。

●写真史のキーワード
・「報道写真」的な写真の社会機能と「モダンフォト」的な写真作品機能の否定
・「アレ、ブレ、ボケ」といわれる制作方法とその作品群
・言語と意味によって固定される以前の未分化の世界の断片としての写真
・写真による新しいイメージの創出
1966年の「コンポラ」展の影響  etc


1950年代以降の現代写真の年代記

・名取洋之助主宰「日本工房」と岩波写真文庫
・カメラ雑誌の復刊・創刊
1950年代
・土門拳、木村伊兵衛のリアリズム写真運動(1952年)
・本庄光郎らの主観主義写真(1956年)
・東松、奈良原、川田らによるVIVOの結成(1959年)
1960年代
・コンポラ写真の始まり(1966年)
・中平、高梨、多木、岡田によるPROVOKEの発刊(1968年)
1970年代
・多極化の時代、ニュードキュメント
・東松、森山、荒木らによる写真学校ワークショップ(1974年)
1980年代
・マニピュレイト(操作)な写真の展開
・写真専門ギャラリーのオープン
1990年代
・新しい風景の発見(旅する視点)
・写真美術館のオープン
2000年以降
・新しい写真の潮流 プライベートフォト、女の子フォト

1945年以降の年代を分けるとすれば・・・
第一世代 土門拳 木村伊兵衛
第二世代 東松照明、細江英公、奈良原一高、川田喜久治 等
第三世代 中平卓馬、森山大道、荒木経惟、高梨豊、土田ヒロミ、須田一政 等
第四世代 北島敬三、石内都、畠山直哉、小林のりお 他多数
第五世代 ・・・・・多くの女の子たち・・・??

☆☆  現代写真表現のキーワード ☆☆
-生命・自然・欲望-

(1)   現代写真表現のキーワード
  生命、自然、欲望―

現在とこれからの写真の主要なテーマは<生命、自然、欲望>をめぐる3項目に要約されてくるのではないかと思います。

<生命>とは、

こころを科学の領域としてとらえていくことの方向です。これまでこころの領域というのはおおむね非科学的領域としてきました。フロイト以後の心理学分野では臨床成果を積み重ねることで科学的立場を持つようになってきました。これからは、幻想領域つまり妄想・幻覚・幻視など科学的に扱いにくいといわれてきたことをも含めていくことです。

これは科学的手法でもって非科学領域とされていた分野を解明していくという作業です。個体を超えていく意識、というイメージがあります。人間というのは合理性や道徳性に囚われることで自己というものを防衛していますが、合理的・道徳的でないとされてきた領域を取り込んでいくことです。

写真表現の領域というものが、いつもその外部にある社会科学や自然科学そして非科学的風評のなかで創られていることを取り込んで拡大してきたのだとすれば、この先におこってくるテーマは、いまの世の中の関心ごととその先にあるものを見えるイメージとして創生していくことになります。

<自然>とは、

やはり現在の世の中の関心ごとです。人間だけじゃなくて有機生命体として個体そのものがあるところ、宇宙や地球という環境のなかでどのように整合性をもって生命が維持されていくのか、という基本命題にたいして、どのように対処していくのがよいのかなと思うことです。ぼくたち人間は文化という概念を生成させてきました。その枠内で様々に考え行動する規範というものを作りあげてきました。

写真家という人は、写真という装置と手段をもってこの作りあげてきた内容を吟味し未来を予測していく作業をします。これはいつも自己矛盾を含みながらの作業となるように思います。<自然>の方向へとは、ぼくたちの日常にある<文化>という枠を外していくこと、可能であれば原初生命体のレベルで感じていくことです。

<欲望>とは、
情動つまり快感・不快感という感情レベルが生成されてくる処についてのイメージです。人間を含む有機生命体には生命維持階層のシステムとして内分泌系、免疫系、神経系の三系の構造に区分されていますが、どうも欲望という情動はその基底の内分泌系に由来するようです。その欲望というものをどのように開放してあげることができるのか、というのがこれからの写真のテーマです。写真がこころの深~いその場所に触れてしまうときっていうのが、深い感動を共有できる場面なのではないかなと思います。

これからの写真表現を考えていくにあたって、ぼくはこの3つのキーワードを手がかりにしながら、あらためて「写真」がこれまで表現しようとしてきた社会の表層構造(政治・経済、芸術、宗教の総合)にアプローチしていくことが必要ではないかと思っています。 

●現代写真のテーマとなる内容
1)人間とはなにか 社会とはなにか 人とはなにか 心とはなにか
 ひとの内面  ひとの外面    社会の内面  社会の外面

2)科学の領域では、ひとの内面-こころ-の解明が進められていく
  生命科学  生物学  医学 

3)これまで非科学的といわれてきた領域が注目されていく
  宗教  心・魂  アートする心

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現代メディア表現論
「過去の巨匠達から学ぶメディア表現とは」
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nakagawa shigeo 2011.1.29

1、写真発明以後のメディア概況

  (A)オリジナルプリント、版画印刷
  (B)輪転機印刷による大量コピー
  (C)映画の出現、テレビメディアの出現
  (D)インターネットの出現、携帯電話の出現

  ★カメラ装置の変遷
   (1)大型カメラから小型カメラ(フィルム)
   (2)デジタル家電製品としてのカメラ

  ★表現メディアの変遷
   (1)ギャラリーの壁面
   (2)印刷による出版(多数部数を印刷)(少部数を印刷)
   (3)ウエブネットワークの活用

  ★その時代のメディア展開方法
   (1)新聞・雑誌への写真掲載でリアルに表現
   (2)印刷媒体、コマーシャル時代のイメージ創造を担う写真

  ★消費される写真(紙媒体)
   (1)プリントショップによるプリント
   (2)コンビニのコピー機によるプリント
   (3)オリジナルアルバムの制作

  ★デジタルブックの時代
   (1)携帯電話機能とデジタルカメラ機能&フォトストック機能
   (2)写メ(写真添付メール)から動画○○メ(まだ名前がありません)へ

  ★現代写真家像
   (1)カメラ
   (2)テーマ
   (3)発表媒体と発表方法

各作家をとりまいたメディア環境

(1)タルボット
 英国にてカロタイプ写真術(1841年特許申請)による写真制作
 最初の写真集<自然の鉛筆>(1844~1846)
 オリジナルプリントによる写真集で6分冊24点のオリジナル印画

(2)ステーグリッツ(1864~1946)
 1903年~17年、写真分離派機関誌「カメラ・ワーク」50号まで
 1905年~17年、291ギャラリー
 カメラワークの出版と291ギャラリーの開設
 印刷による書籍化とオリジナルプリント展示

(3)スミス(1918~1978)
 1939年~43年、ライフに81点の写真、コリアーズに79点の写真掲載
 1943年~44年、フライング誌の特派員として南太平洋戦域に参加
 1944年、ニューヨーク近代美術館で戦闘写真を展覧、のち南太平洋戦線に戻る
 1972年~75年、水俣を撮る、撮り編集し巡回写真展を組織しながら、雑誌に発表

(4)東松照明(1930~)
 写真雑誌への発表による読者の獲得
 写真雑誌「フォトアート」、「カメラ毎日」など、総合誌「現代」など
 1954年、岩波写真文庫に入社
 1961年、「Hirosima Nagasaki Documento 1961」原水禁日本協議会
 1967年 写真集「日本」写研
 1972年~74年、沖縄移住、宮古大学を創設
 1975年 写真集「太陽の鉛筆」毎日新聞社
 1978年 写真集「泥の王国」朝日ソノラマ
 1990年 写真集「さくら・桜・サクラ」ブレーンセンター

(5)森村泰昌
 コンピューター処理による美術作品
 アーティストブック、現代美術ギャラリー、美術館展示
 逃走する作家 作家とは
 1989年 美術史の娘 マネのベルジェールの酒場
 1990年 批評とその愛人 セザンヌの林檎

3、現代のメディア表現環境

1、既存の表現媒体
 (a)ギャラリー壁面展示
 (b)写真集

2、新しい表現媒体
 (c)インターネットにおけるホームページ 
 (d)メーカー提供のブログ&フォトアルバム

3、静止画から動画へ
 (e)2010年現在、デジタルカメラで撮る画像は、静止画から動画へと移行中
 (f)記憶媒体(メモリー)の容量増大、通信速度の高速化
 (g)液晶画面で見る静止画から動画へ

4、現代写真家像は、いかなるスタイルをしているのでしょうか

<資料1>

<写真イメージは素材である>

写真を、紙に定着させるにせよ、パソコンでの液晶画面に定着させるにせよ、写真は一枚ぽっきりの単独イメージです。写真を考えるということは、写真の中身(撮られた被写体)を考えることを中心に、写真論を組み立て、写真のあり方を考えます。でも、それだけじゃなくて、写真という固定されたイメージの紙または液晶画面が置かれている状態を考えることも必要ではないかと思うのです。

写真の中身は当然、論の中心であってよいわけですけど、たとえば、写真を見せる枠組み、フレームといえばいいか、ギャラリーの壁面であったり、雑誌とか写真集の印刷物であったり、ネット上で組まれるアルバムであったり、そのフレームを考えると、写真が素材で、写真を料理(編集)して、器に並べて、見栄え良くして、おいしくいただく。そういう全体がわかってきます。

ここでは、ネット上で展開される写真の枠組みについて、論じておこうと思います。というのもデジタルカメラで撮って、ネット上で発表することが主流となってくるからです。ネット上で発表される写真の、枠組みは、ホームページ、オンラインアルバム、ブログなどです。もちろん自作も可能でしょうが、写真を載せる枠組みは、既存に提供されるフォーマットを使います。オンラインアルバムの形体、ブログのデザイン、ホームページのフォーマット、などは選択するところから始まります。

写真イメージは素材である、とタイトルしましたが、一枚一枚の写真イメージが素材として、スライドショーの枠組みを提供されていることに着目してのことです。つまり、スライドショーって、静止画の動画発想で、音楽つきスライドショーができるアルバムです。ニコンのアルバム、ヤフーのアルバム、ぼくはこの二つのアルバムのスライドショーを見て、考えているんです。このネット上のアルバムのスライドショーでは、写真イメージは素材なのです。

<携帯電話とトイカメラ>

最近の写真をつくる道具としてのカメラの注目は、携帯電話とトイカメラです。携帯電話についたカメラ機能と、いっぱんにトイカメラといわれているフィルムカメラ&デジタルカメラが、写真をつくる。これが写真家と呼ばれない人たちの最近の道具(ツール)です。
もちろん高級デジタルカメラがあり、従前のフィルム一眼レフカメラがありますが、簡便、面白い、など若い世代に受けているのが、携帯電話カメラとトイカメラです。

一方で、現代写真とは何か、どんな様相なのか、ということを考えていて、いくつもの切り口から、その全体を見てみたいとの思いがあります。この立場からいうと、写真を作る道具としての、カメラ装置への考察です。歴史に見てみると、写真の歴史はカメラと感材の道具類によって、その内容が左右される、つまり表現方法が変わる、ともいえます。

カメラは、いつも、その時代の最前線テクノロジー、技術が搭載された道具です。そのことでいえば、携帯電話はこの時代の最前線テクノロジーです。その機能としての写真を作る機能なわけです。反面、トイカメラは、そのまま直訳すれば、玩具写真機、基本原理に従って、フィルムまたはデジタルチップを装填して写真をつくる。

ここに二つの方向がみえてきます。最前線道具を使って、写真を作る方法と簡単装置で写真を作る方法です。特に携帯電話は、誰もが持っているような時代です。つまり、誰もが常態でカメラを持っている時代だと言えます。そのことと、昔帰り気分で、トイカメラ、と言うことでしょう。ピンホールカメラブームだし、トイカメラブームだし、いずれも時代感覚のファッションですね。

<ネット時代の写真表現について>

写真で何を表現するかという大きな問題を解いていく道筋に、今(2010年)の写真を作り、写真を人に見せる、つまり発表するシステムを解くことがあげられます。
この観点でいえば、ネットワーク、インターネットの時代、デジタルカメラの時代というのが、今の時代の代表システムだと考えています。
フィルムベースの写真の作り方から、デジタルベースの写真の作り方へ、わたしたちの思考とその手法を、考えなければいけません。

表現の中身は、プライベート情報の発信、と仮説を立てての出発ですが、ツールはデジタルカメラとデジタル環境です。
フィルムを必要としないデジタルカメラの、処理環境はパソコンです。パソコンの通信機能は、いまやネット上に開設されるフォトアルバムが、発表の中心媒体です。
フィルム時代には、印画紙に焼き付け、物質としての紙の上にイメージを載せ、それをギャラリー等に展示して見せる、という方法でした。この方法は、いまや過去とは言い難い状況ではありますが、カメラと写真のシステムとしては、今の最前線ではありません。

さて、こうして、今の環境、状況を考えると、デジタル写真がネット上のアルバムにて供覧される、というのが主流ですね。
ネットアルバムに写真を載せることって、とってもイージーなイメージがありますが、つまり、いまや写真発表は、イージーなのです。
何に対してイージーかといえば、ギャラリー等で展示するという方法と対比させて、ということになります。
それでは、ギャラリー等で展示することが、発表媒体として優位にあるかといえば、必ずしもそうではないし、過去と今、以前と今、それが現時点での一般的認知としても、ギャラリー上位ではなく、同格だと考えます。

つまり、ネット時代の特徴を、写真表現の手法に加えるべく、そのツールを加味しなければいけないと考えているのです。
フィルムカメラでつくる写真の延長線上に、今がある、とは言えない。言えないという認識から、デジタルカメラに拠る写真表現を、考えていかないとダメですね。
ひとつの特徴として、デジタルカメラからネット上への発表のプロセスには、第二者、第三者が介在しない、ということがあげられます。
フィルムの時代には、自家処理する人以外は、フィルム現像、プリントを、他者にゆだねなければなりませんでした。

<資料2>

★東松照明氏の年史(1966年から2007年)

1966年 「<11時02分>NAGASAKI」出版。
     みずから出版社を作り出して単行本出版を試みる。
1973年 カメラ毎日誌に「太陽の鉛筆・沖縄」を連載する。
1975年 「太陽の鉛筆」カメラ毎日から出版する。
1974年~ 写真学校/ワークショップと「桜」取材を経て
1981年 京都取材に入る。
1986年 心臓バイパス手術を受ける。その後写真撮影再開でインタフェースの世界へはいる。
1989年 「プラスチックス」を発表(パルコ・ギャラリー)
1990年 「さくら・桜・サクラ」ロッテルダム&大阪で個展
1994年 <![endif]>「桜・京―原像ニッポン国」コニカプラザで個展
      京都取材から10年目にして個展開催
1999年 長崎へ移住する。
2003年~2004年 京都国立近代美術館において6回シリーズの個展を開催
2005年 「Camp カラフルな!あまりにもカラフルな!!」ギャラリー新居で個展
2007年 「Tokyo 曼荼羅」東京都写真美術館にて開催

<資料3>

●1950年代以降のメディアと写真表現の年代記

  ・名取洋之助主宰「日本工房」と岩波写真文庫
  ・カメラ雑誌の復刊・創刊

1950年代 印刷雑誌の時代
  ・土門拳、木村伊兵衛のリアリズム写真運動(1952年)
  ・本庄光郎らの主観主義写真(1956年)
  ・東松、奈良原、川田らによるVIVOの結成(1959年)

1960年代 テレビの普及時代
  ・コンポラ写真の始まり(1966年)
  ・中平、高梨、多木、岡田によるPROVOKEの発刊(1968年)

1970年代 マスコミとミニコミの時代
  ・多極化の時代、ニュードキュメント
  ・東松、森山、荒木らによる写真学校ワークショップ(1974年)
  ・自主ギャラリーでの展開

1980年代 活字メディアから放送メディアへ
  ・マニピュレイト(操作)な写真の展開
  ・写真専門ギャラリーのオープン
  ・オリジナルプリント

1990年代 個人化とパソコンの時代
  ・新しい風景の発見(旅する視点)
  ・写真美術館のオープン

2000年以降 携帯電話とインターネットの時代
  ・新しい写真の潮流 プライベートフォト、女の子フォト
  ・デジタルカメラ、携帯電話を使う作品展開
  ・古典技法、オリジナルプリント、ミュージアム、ギャラリー展示

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写真論
「写真についての覚書-1-」
nakagawa shigeo 2010.1.6~ 2011.3.10
IMG_7526
<写真論の試み>2010.1.6

写真について、いろいろと、思うことがあります。
写真とは何か。
なにをもって写真とするのか。
写真をめぐる様々な論が成立すると思います。

いまさら、なんで写真論なの?
こんな単純な疑問が浮かんでは消えていきます。
そこで、ぼくのあたまのなかでぐるぐるめぐっている言葉を、紡ぎ出します。
写真とは何か、簡単で難しい、この質問を、ぼく自身に投げかけてみよう。

 <写真の定義>

写真とはなにか。
このような問いかけは、答えを導くのに、苦労します。
というのも、写真という代物、これの定義から、しなければいけない。
いま、この写真という代物が、どうゆうものなのか、を定義しないといけません。
このように書いているとき、その背景には、絵画とか、CGとか、を想定します。
なにより、写真とは、日本語、漢字で書いた言葉で、読みは、しゃしん、です。

写真は、カメラ装置で制作される平面イメージ。
そうなのですね、カメラを使って作った代物。
いちおう、このように定義しておきます。
カメラは略称で、カメラオブスキュラ、暗箱、暗い箱です。
といいながら、現在ならば、デジタルカメラ、暗い箱ではないですね。
フィルムって言ってる代物、カメラにフィルムを装填して、シャッターを切る。

このあと、いくつかのプロセスを経て、紙に定着されたイメージ、写真。
CTR、液晶画面に映しだされたイメージ、写真。
カメラを使って、作りだされたイメージが定着された代物。
これが、写真と呼んでいるもの、物体、イメージです。
最近では、画像、静止画像と呼んでいます、写真って表現しない。
でも、ここでは、やはり、写真という名称で、そのありかを探ってみたい。

<写真の定義-2->

絵画とかCGとかのイメージと、静止画像である写真は類似しています。
では、そのほかのジャンルとは、どんな関係が成り立つのでしょう。
ここで、形式または形となって現われだされた代物でいえば、文字です。
文字、文字の羅列には、意味を付加します。
もちろん、意味とは何かという定義も必要かもしれませんが。
その文字が、何を指し示しているのか、ということに着目します。

何を指し示しているのか、ということでいえば、写真は、明確です。
物が写っている代物、イメージが定着された代物、それが写真だから。
いやぁ、現代においては、抽象画って表現方法がありますから。
具体的に物を指し示すことばかりでは、ありませんけれど。
おおむね、具体的な物が、写真のなかには、イメージ定着されます。

ここで、写真の定義として、表面のイメージではなくて、何か。
求めているのは、意味、写真の中の意味、とでもいえばいいでしょうか。
文字の羅列が意味を生成させるように、写真も意味を生成させる。
写真の表面は、具体的な物の定着ですが、その奥には、意味がある。
この<意味>について、詮索していくことが、当面の作業かも、知れないですね。

<写真の定義-3->

写真とゆう代物について、ここでは写真の定義を試みています。
写真をめぐる論の、いくつかのカテゴリーを考えてみました。
写真の意味、写真の技術、写真の歴史、それに、ここ、写真の定義。
写真の歴史には、表現史と技術史があり、おたがいに絡みながら、進んできています。
写真の技術には、材料による分類、撮影技術、暗室技術、デジタル技術。

なにより、ここにおいて重要視しているのが、写真の意味。
その写真が、何を指し示し、何を意味するのか、とゆうこと。
制作者の個人的な見解、写真の撮られた社会的意味、など。
そのほかに、なぜ?という問いへの答え。
写真とは、何か。

なにより写真を撮るという、個人的な意味。
個人的な興味へ意味。
なにか迷宮入りしていきそうな、論になりそうな気配。
写真とは、いったい、何か。
写真の現代的な意味とは、どんなものなのか。

<写真の撮影技術-1->

写真を作るのには、撮影するという技術が必要です。
最近では、デジタルカメラが主流ですし、全てお任せ、全自動で撮れます。
シャッターを押すだけ、指先だけ、ぷちゅっと押せば、写真が撮れる。
技術的なことは、これだけでOK。
なにも、むつかしく考える必要は、ありません。

シャッターを押すだけで写る。
1960年代には、オートマチック、自動巻き上げなんてのがありました。
ラピッドカメラとか、専用フィルムでした、ぼくも使ってました。
でも、写真を制作する最初から、そのようにできたわけでは、当然、ありません。
フィルムも、印画紙も、もちろんカメラだって、作らなければならなかった。

1839年に、フランスにおいて写真術に特許権が与えられた。
ダゲレオタイプっていう制作方法、技術プロセスです。
でも、この技術が主流になるかといえば、そうえはなくて、カロタイプ。
イギリスのニエプスって人が、考案した技術プロセスだそうです。
19世紀の中頃に、光を転写して絵を得る<写真術>が発明されたのです。

<写真の撮影技術-2->

シャッターを押すだけである。
シャッターを押すと、カメラが全て引き受けてくれて、写真が撮れる。
ピント、露出、はオートで、カメラ内蔵のコンピューターが、決定してくれる。
構図、そうですね、撮る人が気にかけるのは、構図ってことですね。
構図は、見た目に整ってると思える、物の配置です。

ここでは、撮影技術ということで、論を立てています。
見た目の感じは、技術を使って、獲得できる。
暗いイメージは、暗く、露出を抑える。
明るいイメージは、明るく、露出を多めに。
見た目、ぐっとイメージが変わります。

最近のカメラには、レンズのズーム機能と露出の補正機能があります。
レンズでは、遠近感、露出では、明るさ、を調整します。
適正ということがあります。
カメラが示す適正と、撮影者が感じる適正とが、一致しないことがあります。
感覚、感性、自分が感じる感じ方、ここまでくると、内容論の入口ですね。

<写真の撮影技術-3->

撮影技術というのは、カメラ操作、ピント、作画、露出、これらをマスターすることで、解決します。
基本的には、JIS工業規格にのっとってると思うんですが、カメラの設計そのものを使いこなす。
特に露出をどう決めるかという問題は、JIS規格とは少し、表現意図が加味される。
まあ、撮影技術というのは、絵画における絵の具と筆、陶芸における土と釉薬みたいなものかも。
工業製品としてカメラ等、それによる写真(もしくは画像)制作の、制作道具の選択と組み合わせです。

絵画の絵の具と筆、陶芸の土と釉薬、と引きあいにだしましたが、この関係で続けると・・・・。
写真制作のプロセスを、工業製品以前の制作法に戻して、考える必要があるかと思います。
写真制作のプロセスを、手作りプロセスとすれば、撮影技術は、奥深いんじゃないか。
ここでは、撮影技術について考えているところです。
一方、表現技術という技術も別の系で、考えられると思います。

撮影技術については、物質を使うプロセスとして考えたい。
カメラ、フィルム、印画紙、それを処理する現像薬品、等々。
もうひとつの撮影技術は、デジタル画像を作るプロセスです。
カメラ、メモリー、コンピューター、プリンター、といった道具の使いこなしです。
いづれも、あらかじめ設計されたレベルを、いかに有効に導きだすか。

表現技術は、この撮影技術と密接な関係をもっていると思います。
この次には、この表現技術について、考えてみたいと思います。
撮影技術のマスターを踏まえて、表現ということの技術的側面を考えたい。
しかし、技術論の結論として、技術では解決できない問題が、あるのではないか、と予測しています。
さて、この写真論、そこまで行けるかどうか、不明な点が多いです。

<写真の意味-1->

写真とは何か、写真とはどうゆう代物なのか。
あるいは、何を、どのような方法で、どのように処置したものが写真なのか。
いくつかの、写真という言葉の定義をめぐる論が必要かと思います。
写真という言葉自体、最近では、静止画像、あるいは、単に画像と呼ぶことがあります。
それでは、写真と静止画像は、ぼくたちのレベルで、どのように一緒で、どのように違うのか。
こんな話が、じつは、くだらない話だとしても、なにがくだらないのかを話ます。
写真と静止画像は、違うといえば、紙媒体とCTRモニター媒体との違い。
紙にプルントしたものを写真、デジタル信号でモニターを通したものを静止画像。
ひとまづ、このように区分しておきたいと思います。

ここでは、カメラの種類とか、材料の種類とか、媒体の質とか、それがメインではありません。
写真の意味、前段で、写真は紙媒体を使ったもの、らしきことを書きましたが、このことではありません。
写真に撮られた<もの>の意味するもの、このことです。
<もの>とは、物質そのものを示すこともあれば、物質を含む周辺、そのイメージの全体。
その基本は、物質そのものの、意味です。
意味という文字を使っていますが、意味とは何、と問いだすと論から逸脱しそうだから。
意味とは、その物質が指し示す、そのこと、とでもしておきましょう。
写真のなかに犬がおれば、それは犬です。

写真に撮られた物質が、その物質であると示されていることが、意味です。
この意味で、意味のなかに、一次的意味と二次的意味とにわけるのがよろしい。
このような区分は、言語論の範疇に属するのでしょうか。
写真と言語という区分からして、写真を言語的に扱う。
ちょっと混乱しそうなので、どうしましょうか。
ここまで書いてしまったから、あえて消しませんけれど。
写真の意味という表題で、この文を、成立させようとしているわけです。
意味という限り、やっぱり言語の領域に置かれた写真なのでしょうか。

<写真の意味-2->

写真の意味を求める、というのは、言語的であると考えています。
写真は、イメージであって、文字言語ではない。
あるいは、写真は、文字言語とは別の体系をもつ、写真言語である。
言い方は、いくつかあると思いますが、要は、写真は文字言語ではない、ということ。
その流れでいえば、文字言語に従属しない。
文字言語から解き放たれた、独自のイメージ・言語だといえるんじゃないか。
われら、にんげんは、言語でもって自分の意志を表します。
なにも文学作業だとは言いません、日常会話のレベルです。

そうすると、写真を撮って、自分の意志とか思いを表す。
それを他者に見せる、作品として、あるいは会話の道具として。
この作品として、会話の道具として、イメージである写真を見せる。
そのとき、文字言語が介在しないで、その写真が写真として成立するか否か。
ここなんですね、ぼくが注目する、処なんです。
写真を読む、写真を語る、しかし、そこに言語はいらない。
ほんとかな、言語が紡ぎだせないだけじゃないですか。
評論、批評という枠は、イメージである写真を、言語でもって規定する。

どうなんでしょうか、言語で規定する。
つまりそのイメージ・写真の見方、考え方、捉え方を、解きほぐし理解すること。
理解するととは、このように考えるのが妥当ではないでしょうか。
そこで、そこで、そこでぼくが思うのは、これは言語に従属している。
だから、従属ではなくて、対等、もしくは言語から解き放たれること。
写真が、言語から解き放たれるとき、その写真に、何が残るか。
ここなんですね、何が残るのか。
ぼくは、この「何」の内容を、「感情」ということに置き換えたいと思っているんです。

<写真の意味-3->

なんだか、この論が、論である以前の状態へ戻ろうとしている気がします。
というのも、意味ってゆうとき、その意味とは、言葉で示される内容ではないか。
ということは、写真の意味とは、まさに、言葉に導かれる、そのもの。
ここでいま、試みているこの論、そのものが、意味を導くためのもの。
そうすると、写真(イメージ)が、言語(意味生成)と、ぶつかりあうことになります。
写真が、従属ではなくて、対等、または解放されるということは、意味を生成しないこと。

なんなんでしょう、意味を生成しないこと、とは。
ぼくが想定するところは、感情、そのものが交流しあうこと。
意味ではなくて、感情の交流、交換。
このこと、それ自体が、重要なこととなってきます。
写真は、言葉ではない、感情の交換だ。
これで、写真が意味から解き放たれて、感情のレベルで共有される。

なんか、言葉世代のぼくには、言葉で語ることからしか始まらないから。
ここに、こうして、言葉を連ねて、写真論を形成しようと試みています。
でも、このこと自体が、かなり無効になってきている気がします。
ナンセンスとは言いません、そうゆうことではなくて、感情。
提示された写真を見て、情が動く、感情に生成していく。
このことが、あたらしい写真の意味だ、といえるかもしれませんね。

<写真は静止画像-1->

写真を形として定義するとすれば、最近なら静止画と呼べばよろしいですね。
静止画像または静止画。
これに対して、動画というんがあって、これは静止画の連続で見せるもの。
むつかしくいわなくても、映画とかテレビとかの画面、その映像部分。
つまり、写真という名称は、いまや、用語としては、使われなくなった感です。

しかし、この静止画の発明は、画期的なことだったと思われます。
1839年といいますから、今から170年ほど前、フランスにおいて。
ダゲールという人物が考案の、光をとどめて絵を描く装置に、特許として与えられた。
ダゲレオタイプという静止画の制作方法です。
でも、イギリスではタルボットという人物が、カロタイプという制作方法を考案していました。

いずれも技術的な問題をクリアーして、世に出てきた写真、フォトグラフ、静止画です。
その時代、それは絵画に対抗するモノとして、存在してきたように思えます。
絵画の模倣、絵画に影響を与える、絵画、絵画。
絵画といっても、肖像画にダメージを与えます。
静止画、写真のイージーさ(失礼)において、手で描く絵画をしのぎます。

<写真は静止画像-2->

印刷されて、大量に流布される新聞、マガジンの類に、写真が載せられます。
文字と並列、文字の添え物、写真がメインで説明が付く。
オリジナルのプリント画像より、印刷物になって、使われてきた写真。
ところが、動画があらわれ、動画が多用されるメディアが出現。
映画はもとより、テレビメディアの普及です。

写真は静止画像だから、印刷物には適しています。
でも、テレビの中身には、及ばないです。
たしかに、動画として、写真をテレビに映し出す、これはあります。
でも、原則、静止画像は、オリジナルプリントか、印刷物で使われます。
写真がなかったころ、19世紀の半ばまでは、版画とか絵画。

版画や絵画のように、絵具をつかったり、手を施したりしなくても、勝手に作っちゃう。
感光材料のもと、勝手に絵ができる。
かなり、イージーな、絵画の作り方のように思えます。
発明されて半世紀は、絵画のまねごとをする時代であった、ともいえます。
写真がグラフ雑誌や新聞に使われ、いまある報道、広告宣伝分野の一角になります。
一方で、写真は芸術作品として認められようとします。


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写真論
「写真についての覚書-2-」
nakagawa shigeo 2011.3.10
IMG_1306
<アナログとデジタルの間にて-1->
2010.6.7

いまやデジタルカメラを使って作品つくり、というのが圧倒的多数でしょうね。
ここ数年、年々、デジタルカメラの性能がアップして、フィルムカメラを越えてきました。
たしか、フィルムの画素数は900万画素とか言っていたと記憶しています。
その画素数を、ごく普通のデジタルカメラの画素数が、越えてしまいました。
ということは、写真を構成する絵面が、性能的にデジタルカメラが上回った。
このように言えるのか、と思っています。

デジタルで作る写真の方法は、これまで展開されてきたフィルムの方法とは違う。
この違うという方法を、いよいよ模索し、新たな展開を実験的に行っていかないといけません。
新たな手法で、新たなツールとして、新たなメディア展開を、していかないといけません。
ぼくは、その意味で、デジタルで撮られた写真の展開方法として、インターネットの介在です。
インターネットを介して、発表されるのが本筋だと考えています。
インターネット上に展開される写真アルバム等が、質、量ともに増大しています。

でも、一方、フィルムで撮影してきた写真。
フィルムを使わないで、写真を制作してきた、それ以前。
ネガを作って、ポジをつくる、写真制作の方法。
ダゲレオタイプのように、一枚完結写真。
それらをまとめて、アナログ、アナログ写真と、ここでは表示しようかと思う。
アナログ写真とデジタル写真、その制作手法転換の過渡期になる現在です。

<アナログとデジタルの間にて-2->

写真とは言わなくて静止画像というのが今流かとおもうが、ここでは写真という言葉を使います。
光が自動的に描いてくれる写真の発明から映画を経て、技術的には、おもいっきり変化してきましたね。
カメラ、感光材料、モノクロからカラーへ、静止画から動画へ。
動画と言っても、つまりは静止画の連続ですが、動画には音が入ります。
アナログとかデジタルとかいう区分も、表面上の機材の問題レベルともいえます。

写真を制作するという本質論は、技術の問題ではなくて、思想の問題だ、と言いましょう。
何を表に現そうとするのか、つまり表現の中味をどうするのか。
こうなると、アナログとかデジタルとか、その区分などを越えたところが、問題ですね。
つまり中味、写された<もの>が持ってくる意味という中味のこと。
なにを意味してるん?なんて聞くあの<意味>に通じるとおもう意味。

いま2010年ですが、アナログとデジタルのかけ引きで、デジタルに軍配があがった。
だから、これからはデジタルのありかたを論ずればよろしい。
なんて単純なことではありません。
つまりアナログとかデジタルとかの区分ではなく、何を撮るか。
何を撮るかって、決まってるじゃん、好きなもの、興味あるもの。

<アナログとデジタルの間にて-3->

写真をつくる原点は、太陽の光を暗い箱にいれ、陰画をつくることにあります。
絵画から写真への移行は、太陽の光で、自動的に絵を描くことにあります。
暗い箱をつくり、外の風景を定着させるべく、暗い箱の奥に、感材を置く。
ピンホールカメラによる写真つくり。
いちばん単純なカメラ・ボックスをつくり、画像を得る試みです。

アナログとデジタルの境界面が、現在だとすれば、アナログのはじめはなんだったのか。
その体験を体感すべき試みのワークショップが開催されました。
京都写真学校のカリキュラムの一環です。
暗い箱は写真装置の必須アイテムです。
菓子箱とか靴箱とか、ボール紙の箱を使って、画像を得る。

陰画紙には、既存のRCペーパーを使いました。
そのペーパーも手作りすることで、原点に戻る。
なにが必要なのかといえば、いま無意識に使っているカメラ装置の再認識。
いつのときも、最前線科学技術に支えられて、作られてきたカメラ装置。
ピンホールカメラとは、その原点にある写真の手法、手触り、手がかり、と言えます。

<表現のはじめ>

人間が自分の思いを、何かに託して、表現しだしたのが、いつのころか。
港千尋氏の「洞窟へ」(せりか書房2001年)のなかに、ネガティヴ・ハンドの記述があります。
ネガティヴ・ハンドとは、コスケール洞窟のなかで見つけられた痕跡。
壁面に人間の手を置いて、レッド・オーカーで隈取られているといいます。
約2万6千年から2万7千年ほど前に、描かれたといいます。

人間の表現とは、何事なのか。
それがいつのころからはじまったのか。
その起源は、なにか。
写真という表現手段を手に入れている現在として、起源に興味あるところ。
興味は、洞窟の壁面に、じぶんの手に塗料を吹きつけ、痕跡を残したということです。

写真にかぎらず、なにか自分の痕跡を残すという行為。
そのことに、興味をもって、表現とは、何か。
この問いかけの一端が、そこにも見られる。
すでに2万6千年も前、旧石器時代において。
いったいなんだろう、写真表現とは、という設問を解く鍵がここにあるのかも。

<写真の表現について-1->

写真ってゆう日本語、この言葉が、いまや別の言葉に置き換えられる。
たとえば、テレビなんかでは、静止画って、言っています。
あるいは、画像、とも言っています。
そうゆうことでいえば、写真、なんて言葉は、古いのかも知れませんね。
とはいいながら、それらは言葉上の問題です。
ここでテーマとする<表現>の内容が、かわるわけではないですね。

表現とは、自分を表すこと。
自分の何を表すのでしょうか。
それに、写真、静止画を使っての表現です。
じぶんの心、思い、感情、などを表すこと。
現在なら、このことが、いちばんピンとくるかも知れません。
自分を表現する、あたりまえの言葉ですが、これが苦手な人間です。

もちろん人間、自分を取り巻いている環境って、時代とともに変化しています。
器材などのハード環境の変化がありますし、生き方への考え方の変化もあります。
いまの時代に、いちばんこころにフィットする内容。
つまり、感動を得られるかどうか。
感動を、共有できるかどうか。
それ、いまどきの、感情レベルでの判断になりますけど。

<写真の表現について-2->

自分のことを、相手に伝える方法としての、言葉があります。
しゃべり言葉としての方法、文字を書いて文章とする方法。
文章を書いて自分の意思を伝える。
想像力を働かせて、フィクションをつくる、つまり詩とか小説とか。
この言葉による文章をつくって表現する手段を、写真に置いてみる。

写真は、目の前にある物体を写して、自分を相手に伝えることです。
文で書けば、これはペンです、なら具体的な物体ペンを撮って、提示します。
さて、これで完結、かんたんですね。
いまどき、カメラの操作なんて、シャッター押せば写っちゃうんですから。
なのに、写真の表現、文章でいえば詩とか小説のこと。

これを、写真でやっちゃおう、ってゆうんだから、ちょっと難しい。
小説によるフィクションなら、、写真によるノンフィクション。
ノンフィクション、真を写すことだから、これはノンフィクションを得意とする。
たしかに、その側面はあるかと思うけど、ここで写真の表現というかぎり。
文章でいうフィクション、作り物、想像力の成果、とするには、難しい。

写真で、つまり具体的なイメージで、なにを語るか。
イメージそのものは、具体的なイメージであることが多い。
写真によるペンは、ペン、より具体的な個別のペン、そのものです。
概念を、というより、個別を、というのに適しています。
この個別をつなげて、概念化していく、文章の逆方法、ですね。

<写真の表現について-3->

ここでは、写真の表現というタイトルにしているんですけどね。
いまや<写真>という言葉が、有効なのかどうかを、考えないといけませんね。
最近なら、これまで写真って呼んでいたものを、静止画って呼んでいます。
その背景は、動画に対置していると思っています。
動画は、静止画の連続で得られるイメージの総合です。

また、写真、つまり<真を写す>という内容の<真>ということ。
真は、真実とか真理とか真意とか、まあ、究極的に不動にしてある事柄。
真とは、そのようなイメージかと思うんですね。
でも、その究極的不動の事柄ってことが、ホントにそうなの。
真実とか真理とか、その言葉が持つ意味内容が変容してきた。

そんな背景もあるとおもわれて、ぼくも便宜的に<写真>って言葉使ってるけど。
静止画、としてとらえて、書くこと、喋ること、<静止画>でいいのかなと。
これって、時代のなかでの、ありかた、語りかた、使いかた、なんでしょうね。
ともあれ、写真という言葉を使いますけど、表現とはなにか、これですよね。
写真の表現、写真表現、写真で表現する、・・・・。

表現するための根底には、内容、コンテンツと言われているもの。
これは、目的に合わせて、といえば妥当かも知れません。
なにを伝えるか、その伝えるべくものを、静止画イメージとして表出する。
この表出させるために、道具をつかう、つまり<カメラ>という道具です。
カメラを使って制作した写真・静止画を、なにを媒体として発信するか。
制作段階から、この媒体までを含めて、写真の表現ですね。

 <写真をつくる装置-1->
2010.9.13

写真をつくる装置について、考えてみたい。
装置というからには、仕組み、仕掛け、ということを含めて、その全体像です。
ハードウエアとソフトウエアのうち、ハードウエアを軸にして、ソフトウエアを考える。
シフトウエアを軸にしてハードウエアを考える。
軸の置き方によって、論の組み立て方がちがうと思うが、その両者をもって装置です。

さて、写真をつくるハードウエアの中心はカメラ装置。
カメラには、手作りカメラ、ピンホールカメラから、フィルムカメラ、デジタルカメラまで。
カメラには、フィルムまたはデジタル信号を記憶する装置、メモリー。
フィルムサイズにより、大型、中型、小型、と分けるのがいいですね。
それから、カラーなのか、モノクロなのか。

こうしてつくられる写真を、伝達する媒体、メディア装置。
印刷物にする、写真そのものを展示する、ネットにて配信する。
印刷物にするにしても、書籍として出版、カタログの写真、記事中の写真。
メディアの中で、いろいろな使われ方があります。
最近なら、デジタル信号化された画像情報を、インターネットのサイトに載せる。

いろいろなメディアが使える現在です。
でも、それらは、技術革新とともに、使えるようになってきたものです。
ここでは、装置としての歴史を、とらえてみたいと考えています。
発明の最初には、カメラという箱があり、光を定着させる媒体があった。
論は、ここから始めて、現在のデジタル環境にまで及ぼうと考えています。

2011.11.1
写真論と名付けたブログだから、それなりに。
難しく考えすぎていたようです。
だから、ついつい、ごぶさたになってしまうんです。
だから、気軽に、日記風に、書いていこうと思う。

なにより、名声とか認められたいとか、あるじゃないですか。
写真を撮る、写真を発表する、なんてことは、つまり。
これじゃないかと思うんですよ。
コミュニケーションツールとしてのカメラ。
写真を撮って見せあいっこする。

自分が認められたい欲望ってのがあって。
それにむかって、写真を撮る、なんていえば怒るでしょ。
そんなんちゃう、そんなこと思ってないって、反論あるでしょ。
まあ、いろいろ、とらえかた、考え方あるから無理にとはいいません。
でも、なんのために写真を撮るのか、なんて考えたら、こんな話もでてくる。

気軽に、こんな調子で、文章を書いて、おしゃべりしていく。
それのほうが、いまの時代、ネットってゆう媒体には、合ってる。
なんでもイージーに済ましちゃう。
かんたんに、ストレスかけないで、気軽に、なんて。
そうゆう時代の寵児、デジタルカメラの装置ですもの、ね。

誰がいつ、ここでいう写真に、写真という呼び名をつけたのか、ぼくにはわからない。
写真は日本語です。
写真は光の芸術とも言われたりしていました。
そのような写真が、概念的な意味が、ゆらいできているように思えます。

映画館での映画、家庭内で見るテレビ、いずれも動画です。
動画といえども、一枚の写真を連続させたものです。
連続写真、そうゆう言い方も可能かと思う。
しかし、映画、テレビの連続画像は、動画、動く画像です。

動く画像に対して、静止画という呼び名があります。
静かに止まっている画像、これが写真なわけです。
動く画像って動画ですが、これは静止画の連続したもの。
一秒間に24コマ動くといいます。

静止画はストップしている、ある瞬間の画像。
写真って、言い古されているけど、紙に載せられたイメージ。
紙とイメージをあわせた物質を写真という。
モニターにあらわされた画像は、写真とは言わない。

要は、写真とか静止画とか、呼び名はどうでもいいこと。
論の中心ではなくて、枝葉のこと。
とはいえ、でも、文字が違うとイメージが違うように思われる。
こんなことを話題とする写真論、けったいやなぁ、とも思っています。

-22-
ここでは、人間の欲望と写真の質について、考えたいと思います。
人間の手によって描くことなくイメージを定着させる写真。
最初は、だれでも撮れたわけではなく、それなりの技術が必要でした。
工業生産品となるまで、手作りでしたから、大変さは想像できます。

工業生産品となり、静止画の連続で映画が制作されるようになる20世紀。
モノクロ写真からカラー写真へ移行してくる写真。
つまり動画であって自然な色がついていることが求められる。
人間の欲望の結果、いまの映像環境がある、といえます。

たしかに写真、静止画って、簡単、わけなく撮れてしまう。
写真とはこんなものというイメージが定着しています。
意識がそうゆう類の光景を見て、写真にしてしまう。
カメラの性能があがって、それなりに写真になってしまう。

現在、動画環境は、静止画である写真ほどイージーではありません。
しかし現在、インターネットの通信速度とか、その他環境を考えるてみると。
動画を享受するに足りる環境が出来つつあります。
需要は、写真とゆう静止画から、映像とゆう動画に変わっていくのではにか。

でも、動画となると、編集作業とか、少しは処理が複雑になりますね。
メディアのほうでも、動画を募集するようになってきています。
動画投稿サイトが話題になっています。
このように、興味の方向は、静止画である写真から、動画に変わりつつあります。

そうゆう時代だからこそ、静止画である写真に固守するなら。
固守するに足りる論と内容が必要だと思います。
たんにイージーに制作できる写真の表面だけではいけません。
より欲望を満たす道具へと変化していく、その作り手に、です。

-23-
写真、静止画、カメラで制作する画像。
写真の定義をあれこれと考えているんですけど、写真とは。
いまや写真という言葉を使うより、画像、静止画、と呼ぶべきでしょうか。
ぼく自身は、写真という言葉にこだわっているわけではありません。

といいながら相変わらず「写真」という言葉を使って、論を立てる、写真論です。
けっきょく、写真をめぐるぼくたちの環境といえば、カメラ業界。
カメラ屋さんがあって、カメラがあって、現像所があって、パソコンがあって・・・・。
つまりカメラ産業ってゆうか業界があるわけです。

この時代だから、経済を抜きにして、写真を論じることはばかげてる。
ぼくは、消費するカメラ愛好者、いや写真愛好者たち、と言っています。
お金を出して、楽しませてくれる、そうゆう消費物なのです。
なぜそうなのか、なんて詳細に説明するのもむなしい感じです。

消費者たるぼくたちは、カメラ産業を担う業界と好い中なのしょう。
カメラ雑誌、写真コンテスト、コンテストに応募して、賞を得る。
賞を得ることで、名誉となる、それから作家として認めてもらえる。
でも、写真を撮って、作家生活するのは、経済的にかなり難しい。

でも、それでも、写真を撮って、それで何をするの?
なんて問題の解答を考えていて、結局、交友の手段かなぁ。
写真を見せあい、ほめてもらって、自分存在を確認する。
本質的に、そうゆうことなのかも知れない、とも思ったりしてみたり。

-24-
あんまり難しく考えると書けないから、ラフな感じで、日記風に書きます。
ええ、今年は2011年です。
京都写真学校って主宰してやってるんですけど、7年目です。
2004年から、この7年で、写真をめぐる環境が大きく変わったと思います。
なにより、携帯電話による写真制作が、飛躍的に便利ツールになりました。

写真という言葉は残っているけど、もう古いですね。
静止画、画像、そんな言い方、呼び名に変わっていますね。
ともあれ、デジタルカメラ、通信環境、ネット環境が飛躍的に便利になった。
メディアで言えば、出版が、紙の本から電子ブックへ、ですね。
そうなると、静止画から動画に移行するのも時間の問題か、なんて。

170年ほど前(1839年)に写真術が発明されたんです。
その当時には、絵画に似たものが、勝手に描ける装置、カメラでした。
絵画と写真が、平面における中心的な静止イメージ。
それが20世紀ごろになると映画が考案されます。
動く写真、連続写真、動く画、映画です。

映画のフィルムをカメラで使うようになります。
35ミリフィルムなんて、映画用に開発されたもの。
静止画写真は、動画である映画と向きあうことになります。
写真は芸術作品である、なんてことがいえるようになる時代です。
でも、決定的なのはテレビが普及することですね、写真の役割が変化する。

まあ、紙への印刷による出版物があるかぎり、静止画としての写真は残ります。
でも、どうなんでしょう、電子ブック。
これが普及すると、静止画が動画に置き換えられる。
そのとき、静止画、写真は、どこへいくのでしょうね。
どのような内容で、静止画は生きていくのでしょうね。

-25-
写真の現状を考えてみます。
といいながら、写真の現状、なんて書きだすこと自体が現状にそぐわない。
そんな感じにも思えたり、写真って言葉自体が、もう古いなんて思ったり。
写真、つまり静止画をとりまく環境は、どんなものだろう。

以前なら、写真を取り巻く環境が変わった、なんて書き出しで始めたものだ。
でも、いま、変わったっていっても、古い人から見たら変わっているだけ。
新しい人からいえば、いまがあるだけ。
だから、いま、どんな環境なのか、これを考えればいい。

写真、つまり静止画をつくる道具が、誰の手にもある現状です。
画像、イメージを撮れるツールです。
一眼デジカメ、コンパクトデジカメ、携帯電話のカメラ。
もう、簡単に、手軽に、撮影ができる環境です。

コミュニケーションのツールとして、写メール。
手紙に写真プリントを封筒に入れて、切手を貼って、ポストへ。
そんな手順が、写メール、いとも簡単、それがいま。
写真表現の質そのものが、基礎から変わっているようです。

どんなふうに、カメラを使いこなしていけばよいのか。
静止画と動画が撮れるデジタルカメラです。
メモ帳として、電子ブックとして、其処を自分の画像で埋める。
いやはや、アートフォト、芸術写真とは、いったい・・・・。

-26-
2011.3.5
写真の現況を考えてみます。
写真を撮ることって、けっこうイージーな作業です。
カメラを構えて、シャッターを切れば、写真(画像)ができます。
技術的にも、オート機能で、おおむねクリアーできます。
つまり、写真を撮るって、簡単なことなのです。

ぼくはこの、簡単なこと、というキーワードに着目しています。
写真が発明される以前には、平面静止画として、絵画があります。
版画という複製芸術が、そのころにはありました。
写真、フォトグラフは、太陽光が描く芸術です。
でも、画像を得るには、化学知識、それなりの苦労。

でも、いまは、デジタルカメラで、携帯電話で、写真を撮れます。
絵を描く技術がなくても、シャッターを押せば、写真が撮れます。
そういうことで言えば、写真を撮ることは、イージーな遊び道具?。
でも、写真は静止画で、次には動画が控えています。
デジタルカメラには、静止画と動画が撮れるじゃないですか。

写メールが動画メールになるのも時間の問題。
通信技術的には、i-phoneの新機種、いよいよその時代ですね。
そんな背景のなかで、写真、静止画を、どのように扱うのか。
いよいよ、写真が芸術のなかに参入、ということでしょうか。
それもイメージ制作、古典的存在として、絵画の次に現れた、とか。


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