写真日々

中川繁夫の写真日々。釜ヶ崎、白虎社、京都、の写真を収録しています。

カテゴリ: 写真について思う

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現代表現研究所HP
今年は2019年、写真ワークショップを開催することにして、告知しました。
昨年には、現代表現研究所をつくり、フォトハウス表現塾を立ち上げたところです。
手ごたえと言うか、反応は、ほぼ無視された感じで、また一人芝居だな、と思う。
とくに写真にこだわっているわけではないけれど、長年写真とつきあってきました。
企画から今年で三年目、全体像としてのイメージは描けたかと思っています。
経済システムのなかに成立させるのではなく、その前段での学び場です。
経済優先、グローバル化容認、その流れを目的とする、これについてのアンチです。
ぼくの年代の正義感といえばいいかもしれないが、実は、もう化石的なんでしょうね。

東松照明さんの「太陽の鉛筆」から半世紀が過ぎた現在です。
ステーグリッツが一世紀前、東松照明が半世紀前、では現在はスマホ写真。
写真の底流に流れる精神史みたいな、イメージ史みたいな、この流れです。
スマホで撮るインスタの現状など、若い子のそれはこの流れにありますね。
そのことに、気づいたというところで、写真ワークショップの内容を決めました。
東松さんをやるから来月はステーグリッツ、その次はインスタの現状ですかね。
社会のなかでカメラを向ける被写体への感性、作家個人の感性、その流れです。
社会構造が変わるから、当然作家の意識構造が変わるわけで、そのことです。

10年ほど前に、天地創造シリーズをやったことの続編で、日本生成イメージです。
二年ほど前から、古跡をたずねて、写真を撮ってきています。
これをまとめようと思って、日本寫眞記、というタイトルのシリーズです。
奈良の明日香から大和三山、それに神社、そこから京都へ来るという枠組みです。
京都は古墳、天皇陵、といったところが目に見えるポイントですね。
色彩が、木々の色と石のいろ、緑と灰色、地味な色で、カラフルさがないですね。
色艶のイメージでは、桜、着物、華と撮って写真集にしたから、これが対置です。
まだまだまとまらないところですが、進めだしました。

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現代表現研究所HP
スマホにはカメラ機能がついていて、カメラとして使うことができます。
このスマホのカメラを使って撮った写真が、インスタグラムやツイッターといったSNSにアップされる。
フェースブックを開くと、スマホで撮った写真・動画をアップすることができます。
ある種、このイージーさが、はたしてこれを「写真」と呼んでいいのだろうか、との問いになる。
総称して高級カメラとしますが、この高級カメラで撮った写真が「写真」である。
高級な一眼レフカメラとかで撮った写真と、スマホ写真とを区別しようとの話です。

写真は死んだ、なんて極論する意見もあるけれど、スマホのイージーさは現代です。
写真をつくる装置としてのカメラは、いかようなカメラであっても出来上がったものは「写真」です。
こう認識するのが、現代的な捉え方だと思います。
まあ、言いたいのは、そんなに簡単に写真が成立してはいけない、との気持ちでしょう。
そうなんですよね、写真は緻密な作業を経て世に問われるべく「絵」なんですね。
それも写真、でもスマホで撮られたイージーな写真も、写真なんだと認定しましょう。

出来上がる写真は、用途によって使われるカメラが選ばれ、使い分けられる。
この使い分けは写真を操る人の感性と経験に委ねたらいいと思うのですが。
それは写真を構成するマテリアルな部分のことで、撮られた内容のことではない。
もちろん撮られるモノも、媒体によってカメラが選ばれる、でいいのではないか。
大型カメラから小型カメラへ、モノクロからカラーへ、フィルムからデジタルへ。
そうしていま、スマホのカメラで写真を撮り、SNSやブログに載せることができる。
その写真が、人の心を、どれだけ揺すり動かすのか、感動させるのか、本質はこれです。


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<ステーグリッツとオキーフ>
 20世紀がはじまったころのニューヨークに、ステーグリッツが291ギャラリーを創設します。まだ女学生だったオキーフがこのギャラリーにやってきて、そののちにはステーグリッツと一緒に住むようになります。ステーグリッツ45才、オキーフ20才、といったところですでに名をはせていたステーグリッツにオキーフが学ぶといった関係から始まったと思います。そこで、ステーグリッツは、オキーフのポートレートを撮ります。資料が手元にないのであてずっぽ、記憶の中で書いていきますが、1930年半ばごろまで撮っているのではなかったかと思います。1970年代になって、それらの写真がニューヨークの近代美術館にて公開、展覧会が開かれ、写真集が作られ、世にしれることになります。

 彼女のポートレートを撮るということは、写真する者にとってよくあることです。絵画において自分の彼女や子供を描くということも多々あります。この写真行為について、プライベートな領域からパブリックな領域に引きだされてきた時代の流れがあります。いま2018年を迎えましたが、現在的な意味からいって、彼女のあるいは彼の、つまり関係する二人の間に撮られる写真が、作品となって表出してくるという構図が、公認されています。近代小説のなかで日本には私小説が自然主義のなかから出てきて、今もなお作品としてある形式ですが、写真においても、これは1970年代ごろにおいてでしょうか、作品化されるようになったと思います。

 ぼくは現代写真の基軸となる写真家にステーグリッツをあげています。スナップショットの技法や、オキーフのポートレートを、現代につながる写真の方法と行為だったと考えるのです。291ギャラリーを主宰すること、ヨーロッパに留学していて分離派運動に参加したとされるステーグリッツが、アメリカはニューヨークに戻ってきて、それこそ近代主義、モダニズムそのものの真っただ中で、ヨーロッパとアメリカの架け橋をつくっていくというのです。ステーグリッツの内面にオキーフという女性がいて、たぶん恋愛感情でもって、彼女を見ていたと思えます。その第一人称と第二人称の関係の中で、写真という行為があること、これが非常に「現在的」だと思うのです。カメラ機材の問題ではなくて、作品をつくる人間としての感情の問題としてです。




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<スマホフォト>
 この写真は、スマートフォン、アンドロイド、グーグルが提供しているソフトウエア。本体機種はソニーのエクスペリア、そこに最初からついていたカメラで撮ったものです。被写体は寿司ですが、スマホ本体の中で色と露出の調整、黒枠を入れる、など加工して、ツイッターにアップしています。インスタグラムとツイッター、ともにSNS、ソーシャルネットワークサービスの枠組みで、facebookに転載できるようにしています。今年の流行語大賞に「インスタ映え」が選ばれて、あっ、と思ったところです。たぶん圧倒的大部分の若い男女がスマののカメラを手元に持つ様になって、メモする感じで写真を撮る。動画の場合もありますね、縦長サイズの動画。この傾向を見ていて思うことは、これまでの写真概念を大きく変えている、ということでしょう。変えているというより、言葉で論じるなら、新しい発想で写真を捉える必要に迫られていると思います。

 そもそも、写真という言葉もへんな言いかただなぁ、と思うようになって久しいんですが、静止画とは言わずに写真と言って、書いて、いるところですね。ぼくなんかは、正直、最近「写真」という言いかたに違和感を覚えていて、動画に対して静止画が正しいように思ったりします。映画に対して写真、この対比のイメージは、フィルムで撮られた映画に対しての写真のイメージです。そろそろ、写真っていう言いかたを改めないと、混乱が生じてくる感じです。アートとかドキュメンタリーとか、その写真を分類して、整理して、社会の範疇に組み込もうとしてきたわけだけれど、もちろん今もって、それらの論は有効であって、なんら遜色なく、現代というものの質を露わにしていると思えます。そういうことで分ければ、スマホで撮る写真の大半の使われ方というか「インスタ映え」に象徴される写真の群は、これは、新しいジャンルだと言い切っていいかと思います。

 写真は写真でも、コマーシャル分野の写真とか、アートやドキュメンタリーという概念とは違ったジャンル。肖像写真館で撮る写真とも違ったジャンル。同じように平面に現わされる静止した画ですが、アートやドキュメンタリー、表現としての写真、それらと一線を画して語るのが、スマホ写真、インスタ映え、ということには正しいのかも知れません。昨年のことですが、ぼくはスマホを使って、写真集を作るという行為を、計画的にやったところです。カメラと表現の歴史を思うと、大型カメラから小型カメラに変わってきて、カメラやレンズの性能が向上してきて、それに伴って作品が生み出されてきた、という歴史があります。新しいカメラやフィルムを使うとき、いつも現実主義者の頭では、新しいツールを否定的に捉えてしまいます。そのときの時代の標準となった道具を使うことに、なんの疑義も持ちえない。いつも時代のなかで、新しいものと、すでに定着したもの、の層があって、新しいことが否定されていたのに、次第に市民権を持つ、ということになってくるのでした。そのことでいえば、スマホフォトは、新しい表現ジャンルであると考えるのです。



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 いま書こうとしていることは、写真について書いたり語ったりするときの、その内容の事です。話題の中身のことですが、写真というモノの本質に迫っていくような話になるかといえば、決してそうではなくて、その周辺ばっかり、ぐるぐると堂々巡りしているように思えて仕方がない。まずカメラのことが話題になります。カメラの使い方についてあれこれ、露出がどうこう、アングルがどうこう、作画についての話があります。それから、何を撮るか、ということは大事なことで、何を撮るかが問題だ、とまではいうけれど、何を撮ればいいのかということには、なかなか及ばない。どうも何を撮ればいいのかということに言及しようとして、撮る根拠を示すとなると、それが示せないから、あたまっからその話題には触れないでいこうとする感じがしてならない。

 何を撮るかという相手先への認識は、カメラ扱いと写真を作る、プリントする、本にする、ネットにアップする、それらのテクニックの話はできるけれど、撮られる相手への認識となると、そのことを認識するには、写真の範疇を超えていて、政治の問題や、文学の問題や、というように他分野、他ジャンルのことについて知らないといけなくなる。写真を、カメラを持つ以前のところで、そのテーマは発露してくるようなので、他ジャンルの専門知識がないと対処しきれなくなる。こういうことを言い出すと、写真が撮れなくなる、という話になってきて、つまり自分の中でぐるぐる回りの迷路に入ってしまうようです。まあ、自分の体験していることを、文章化してるところがありますが、写真は文章ではなくてイメージそのものだから、言葉は不要です、と。

 ぼくは思いますが、論理が必要な「知」の世界をあらわす写真と、論理が必要ない「情」の世界をあらわす写真があるのです。俗っぽくいえば、知の写真は高尚で、情の写真は下品だ、と感じられているようにも思えます。ここでいう情とは、どちらかといえばセクシュアルな側面を持った写真のことで、エロスに向かう、あるいは究極のエロスから閲覧許されるレベルにまで腑抜けにされたレベルで感じる「情」のこと、わかりずらいですね。まあ、写真の話しといえば、技術論、それにメーカーから供給される道具論、手作りってカメラがあるからそれについても語りますが、技術論ですね。でも、写真は、そういう技術に支えられるけれど、そうではない処のモノをイメージとして世に出す、ということではないのでしょうか。「そうではない」そのものの中身を話題にしていくのが本筋ではないのか、とぼくは思うわけですが。



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 この写真の図は二条城の門の上部、装飾が施されたキンキラキンに光っている光景です。デジタルカメラ、キャノンのG5Xというコンパクトデジカメで2千万画素で撮れるというカメラです。フィルムで撮っていた時から見たら、もう想像を絶するほどに、進化したカメラ装置、その周辺も含めて、カメラという道具がフィルムのときとは違う。ついつい、昔の話をしたくなる、そんなこんなで、関西の写真史を文字、文章と少しのイメージで描いていこうと思っている矢先の、この話です。フィルムを使って作った写真を展覧会に出展する。デジタルを使って作った写真を展覧会に出展する。出展された場では、フィルム制作もデジタル制作も、変わらない、紙に定着させるという最終出力の形は変わりません。ぼくが思うのは、あいかわらず写真展で紙に定着させたイメージを展示するということ、出版物として紙に定着させて保存するということ、このことへの想いです。デジタルだから、紙になんて定着させないのが、最前線なんだと思っていたけど、そうではないということ、これが現在地点ですね、結局。

 ぼくが一眼レフカメラを手にしたのが1975年頃です。当時、露出計内蔵カメラが主流になりつつあった時期だったと思います。自動露出ではなくて、ファインダーの横に針がついていて、それをもう一つの針に合わせる、だったと思うんですが、そうして露出を決定しましたね。でも、ぼくはその後ニコンF2のアイレベルを使いだして、露出計はセコニックのものを使いました。まあ、それから、露出については自動露出があたりまえになってきて、すごいことになっていて、でも若干の露出補正でまかなえる、という便利さで、ぼくは写真を撮っています。写真家さんを名乗る大半の人は、それはイージーすぎて、自動露出は使わない、マニュアルで撮る、らしいですが、本当でしょうか。カメラに内蔵の露出計ではなくて、単体の露出計を使うのでしょうか、こんな話はしたことないから、今度、プロカメラマンをしている人に会ったら訊いてみようかと、思います。

 もう写真という代物に関わりだして40年近くになります。いやはや子供のころからいえば60年近くになります。フィルムはモノクロでしたけど、1960年代半ばにはネガカラーが出てきて、それで撮るようになった。でも、カメラクラブに関わるようになってからはモノクロフィルムを使うようになります。ネガカラーでは作品にならない、という風潮で、カラーならリバーサル、ポジで撮るということでした。ポジで撮って紙に定着させるには、インターネガといってネガカラーフィルムに撮って、それで紙に定着させるということでした。ぼくの経験では、ポジで撮ってインターネガに起こすということはしませんでした。1980年ころでしたか、ダイレクトプリントなる方法が考案されて、リバーサルフィルムから、直接、紙にプリントできるようになった。モノクロフィルムで撮って、フィルム現像処理をして、プリントするって、いまのデジカメ、パソコンの流れからみたら、とんでもなく時間とお金がかかるものでした。

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1980年ごろだったか、かって写真行為論なんてタイトルで文章を書いていた記憶があります。写真行為とは、写真を撮って、その写真をどう他者に見せるか、ということを考えていたところでした。その頃って、ネット環境なんてなくて、だからもちろんメールなんてなくて、ソーシャルネットワークSNSなんてなくて、あったのは電話回線を使って草の根BBSでしたか、パソコンから文字を送るということが始まったばかりでした。その当時にはビデオカメラもセットで百万ほどしたからぼくなんかは手に負えるものではありません。写真を見せるといっても、ギャラリーを借りて、写真展を開く、そこへ来てもらう(この方法は現在も行われています花盛り的に)。来てもらうためには知らせなければいけなくて、ハガキなどに印刷して、郵便で送るという方法で告知していたところです。友達に見せ、家族で共有する、ということがありますが、写真愛好者が集まるクラブの例会や、新聞社が主催する写真例会や、カメラ雑誌のコンテスト、これらが発表の場として、確保することでした。それがいま、今、いまはどうなのか。このことを論評してみようと思い立ち、ここにいるところです。

掲載した写真は太陽の塔、たいがいの人はこの造形物が何処にあって何なのかということを、見ればわかるというレベルにいらっしゃると思います。じつはこれ、スマホ、アンドロイドを使っていますが、それを使ってインスタグラム、俗称インスタで撮って、ネットにアップした静止画なのです。ライブ発信です。ライブ発信ということは、撮ったその場で数秒後には、ぼくのサイトにアップされるわけです。ぼくは、見せる行為としての写真行為論を組み立て、ライブで痕跡を残していこうと思っていて、それの実行という行為です。かって、まだビデオ環境がなくて写真をつくるのにもフィルムを使っていた当時、1979年ですが、日替わり写真展という行為を実行してみました。撮った写真を現像処理して翌日に展示するという行為でした。それが今や、スマホからSNSへ、という行為です。

スマホで撮ってインスタにアップします。インスタにアップすると同時に、ブログのアメバ、SNSのツイッター、フェースブックへ、アップします。それぞれにそれぞれの使い勝手があって、使い道があって、SNS系は時間軸に沿って記事が流されていく感じで、すぐさま過去になってしまう感覚です。でも、場所とおおむねの時間が同時に記録されているから、過去から現在への見せ方がライブ感覚でできるわけです。と同時にインスタの写真をブログのアメバに連動させていて、アメバには写真記事として溜まっていきます。これらは、写真表現のレベルで、写真発表の現場であって、発表する形式であって、SNSではイイネをポチで、サロン的要素を共有感覚が持てて、写真展に足を運んでもらうよりはるかにイージーに、友達関係に見てもらうことができる。ブログは、ぼくの場合、公開してるから、だれでも見れるようになっています。
(続く)

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 静止画によるイメージ制作で、なにを為そうとしているのか。いつも、たいがい、写真という字面を見て、読んで、思うことが多い、自分への質問状です。考えるというか思うというか。考えるということは、論を組み立てていく作業だと思うけど、論を組み立てるなんてことができないから、思う、というレベルだと感じています。俗に写真といっているモノを、最近のことでいうと、静止画といういいかたの方があっているのではないか、と思えます。静止画に対して動画というモノが置けるからです。技術的に写真が出現する以前は、絵画、版画という平面の静止した絵でした。絵画、写真、映像、という歴史的時間の流れのなかで、現れてきた表現手段です。

 静止画である写真というモノを軸に考えてみると、ここから四方八方、いやはやビッグバーンで宇宙が拡大していくがごとく、様々な方向に論がひろがっていくではありませんか。その中心に立って、見まわしてみて、そこから見える星屑のごとく、一点一点に論を与えていくことにしないといけない、と考えるわけです。つまり、全体像をイメージ化して言語にしていく、あるいはイメージ画像にしていく、このことが重要なことではないかと思えます。道具としてのカメラが、今や、いとも簡単に静止画=写真を作り出してくれるから、絵画に比べて、動画=映像にくらべて、イージーに簡単、遊びの道具としてもてはやされる時代です。

 「写真について思う」シリーズは、およそ二年半ぶりの再開になります。前の最後のイメージが内灘の弾薬庫痕の風景だったので、その続きとして、同じ時に撮った別角度の写真を載せました。撮影は1975年ごろの夏です。内灘とは石川県の海金沢から近い砂丘の海岸にある地名です。今は渚ドライブウエーの起点になっています。で、1980年ごろには、この弾薬庫痕が無くなっていて、当然、現在においては見ることができません。戦争が終わって占領がとかれた当時、ここに米軍の試射場が設置されて、その弾薬庫として使われたコンクリートの塊の残骸が写ったのが、この写真です。ぼくの手元にこのネガがあり、デジタルデーターになって、いま、ここに、お見せできるのですが。一枚の写真から、その背景の話にすすめていくと、これは歴史の証しとなりますね。

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このブログには、1980年前後に撮ったフィルムからの画像を載せています。
フィルムに残された画像、もう陽の目を見ることもなかろう、と思っていました。
かって撮った写真を見たいと言われて、スキャンすることにしたのが3年前か。
手持ちの半分ほどのフィルムを、ちまちまとスキャンして、セレクトしました。
ここには大阪市内、西成釜ヶ崎、それに舞踏集団白虎社の画像を載せています。
撮ってからおよそ35年が過ぎてしまいました。
過去をふり返るということに抵抗を感じていた数年前までの過去。
いま自分が撮った写真をながめて、うまく撮れていないのが恥ずかしい。
スキャン画像はトリミングなしのフィルムそのままで載せています。
これはスキャンしてデジタルに変換している画像です。
スキャン専用のデジタルカメラで撮られた画像です。
思えばフィルムで撮っていた頃から見るとデジタルは使い良い。
もちろんフィルムからデジタル、その逆への処理がシームレスにできるから。
写真業界のシステムが、そのようにしてくれているからです。
いずれデジタルカメラで撮られた画像が全てになって、フィルムは旧メディア。
はたして紙に刷られた画像は、このまま続けられるのでしょうか。
そのことが、いま、ぼくのプレゼンテーションにおける関心ごとです。
ニコマートという機種を手にして、家族以外の風景を撮った最初。
掲載写真は、その最初の写真で、映像情報の表紙に使った写真です。
いまデジタルデーターになって、ここに載せます、石川県の内灘です。
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誤解をおそれずにいえば、写真は簡単に作れます。
写真を撮る、つまりカメラのシャッターを押す。
押すだけで写真が撮れる、デジタルカメラです。
昔のことはどうでもいいことだけれど、昔は。
昔は、とついつい比較してみたくなる年代のわたし。
昔といってもつい最近までのことですが、フィルム時代。
これとの比較は、追々やっていくこととして、今は、現状分析。
カメラを持つことがが大衆化して、今や誰でも持っている環境です。
誰でもとはいっても、赤子から幼児を除いて、ですね。
つまりひととしての意識が起きておれば誰でも、です。
市販のデジタルカメラ、かなり簡単に、写真が作れてしまいます。
つまり、写真は、いまや誰でも簡単に作れるんです。
この、誰でも簡単に作れるということが、写真の現在でしょう。
作家がうんぬんなんて言わなくて、ひとの欲求を満たす道具として。
市販されているデジタルカメラ、簡単操作で撮れるんです。
食べる、寝る、これが満ちたら、自己表現をしたい欲求ですね。
この自己表現欲求を満たすための道具としての、デジタルカメラ。
むつかしいことはいわなくて、カメラは自己癒しの道具みたいだから。
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     京都写真学校 2013.12.1

京都で写真を学ぶなら
   京都写真学校 
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人が表現する手段として作る、音楽、文学、それに画像があります。
音と文字とイメージ、といえばいいでしょうね。
写真は、このなかの、言うまでもなく画像、イメージの分野です。
人が耳から受ける音、目から脳をつかって受ける文字、目で感じる画像。
最近は、写真って、静止画とか、画像とか、こんなふうに呼ばれています。
あえて写真という文字、言葉を使っていきますが、この写真。
目に映る光景がカメラでとらえられて、再現されて、写真として目に見える。
写真のなかに写されたイメージは、現実にあったものの複写、コピー。
文字とは違う、音とも違う、視覚、目に見える、目で見るもの。
こうして目に見えた写真のなか、写っているものの意味を考える。
この意味を考えるということは、文字を理解すると同じ作用だ。
そこで、写真に先立つ文字・文章があって、写真に写ったものが理解される。
このようにして写真が作られ、使われてきた歴史が、写真の歴史の大半です。
ところが、いま、あらたな関係として、音、音楽のように、写真を感じる。
音が耳への刺激で感じるのならば、写真は目からの刺激で感じる。
理屈はいらない、言葉ではなく、ゆらめくとでもいった感じで、感じる。
あらためて、写真の要素をおもうと、見て感じる、本能が感じる、がある。
ことばによる理解ではなくて、本能に直結する感じで、見て感じる。
知性ではなくて感性、理性ではなくて感性、つまり身体が感じるということ。
さて、はたして、そのような画像、静止画、写真が、あるのだろうか。
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京都で写真を学ぶなら
 京都写真学校へ


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写真とは何か、なんて言葉の言い回しが流行していました。
あたまは写真だけではなくて、たとえば文学とは何か、とか。
ある領域をつかさどる言葉について、「何か」と問うわけです。
この質問形式は、解答を導くのに、けっこうキツイと思っています。
それぞれ論者が、それぞれの方向で語っていくけど、結論なしです。
そんなこんなを繰り返しながら30年もやって来ているように思う。
そうなんです、30年位前に写真を極めようとした人の発想です。
その時代、その時々、キーワードとなる言葉が、変化すると思うんです。
いまどきの人、写真を始めようとする人のキーワードはなんなんだろう。
写真学校なんて主宰していると、いつもこのことが頭をよぎります。
先生と生徒がいて、先生は先生の価値観で教えることになります。
これは教える教えられるという関係でみた場合のなりたちです。
先生⇒生徒という一方通行方式ではなくて、相互に教え教えられる関係。
この関係ですが、これでは教育にならないんでしょうかね?
あくまで大人、成人を対象にした場での、教え教えられる関係。
話の方向がだいぶんそれているんですけど、問題は、写真とは何か。
昔人間には、いつも、やっぱり、この問題があたまをもたげてくるんです。
写真について思う、このシリーズは、こんな話の展開になりそうです。
ああでもない、こうでもない、ああでもない、こうでもない・・・・。
結局こうして彷徨し揺れ動く状況を、現わせていければいいのかとも思うけど。

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     京都写真学校の第一期入学の日 2005.4.10


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