中川繁夫の寫眞帖

中川繁夫の寫眞帖ブログ、撮影被写体は釜ヶ崎、白虎社、京都、撮影期間は1978.9~1984.3です。

カテゴリ: 写真について思う

かれこれ30年、フォトハウス設立が1984年です。
当時の写真をめぐる状況を語ってみたいと思います。
最初は、カメラについて、です。
フィルムサイズが35㎜版、一眼レフカメラ。
ニコン、キャノン、ミノルタ、ペンタックス等、これらは日本のメーカーです。
そのなかでも高級の部類はニコンF2、露出は内蔵してなくて外付け。
ぼくが持ていたのはアイレベルとか言って、露出計のないニコンF2でした。
いや、露出計のついたフォトミックとかの機種は高かった。
露出計はセコニックの針が振れるのを使うようになっていました。
レンズは単体で、ズームレンズはあったけど使わなかった。
焦点距離は18㎜、24㎜、28㎜、35㎜、50㎜、85㎜、105㎜、200㎜、300㎜。
いつの間にかこれらが手元にありました、買ったわけですが。
カメラを持って、これはフィルムを入れて撮影する式のカメラ、フィルムカメラです。
このフィルムは、経済的な観点からモノクロフィルムしか使えなかった。
まだカラーといえばリバーサルフィルムを使っていたころです。
つまり、作品を作るとか以前に、カメラとレンズをどうするかという問題。
お金持ちは困らないと思うけど、若かったし収入も少なかったし、です。
やっぱり、写真をするということは、特別なことだったのかも知れません。
いま、デジタル時代とはちがって、めちゃくちゃお金がかかった。
そのように思う。
ああ、写真について語るよりも、カメラ機材についての話になりましたね。
追って写真についての思いを書いていきたいと思っています。

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写真とは何か、なんて言葉の言い回しが流行していました。
あたまは写真だけではなくて、たとえば文学とは何か、とか。
ある領域をつかさどる言葉について、「何か」と問うわけです。
この質問形式は、解答を導くのに、けっこうキツイと思っています。
それぞれ論者が、それぞれの方向で語っていくけど、結論なしです。
そんなこんなを繰り返しながら30年もやって来ているように思う。
そうなんです、30年位前に写真を極めようとした人の発想です。
その時代、その時々、キーワードとなる言葉が、変化すると思うんです。
いまどきの人、写真を始めようとする人のキーワードはなんなんだろう。
写真学校なんて主宰していると、いつもこのことが頭をよぎります。
先生と生徒がいて、先生は先生の価値観で教えることになります。
これは教える教えられるという関係でみた場合のなりたちです。
先生⇒生徒という一方通行方式ではなくて、相互に教え教えられる関係。
この関係ですが、これでは教育にならないんでしょうかね?
あくまで大人、成人を対象にした場での、教え教えられる関係。
話の方向がだいぶんそれているんですけど、問題は、写真とは何か。
昔人間には、いつも、やっぱり、この問題があたまをもたげてくるんです。
写真について思う、このシリーズは、こんな話の展開になりそうです。
ああでもない、こうでもない、ああでもない、こうでもない・・・・。
結局こうして彷徨し揺れ動く状況を、現わせていければいいのかとも思うけど。

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     京都写真学校の第一期入学の日 2005.4.10


人が表現する手段として作る、音楽、文学、それに画像があります。
音と文字とイメージ、といえばいいでしょうね。
写真は、このなかの、言うまでもなく画像、イメージの分野です。
人が耳から受ける音、目から脳をつかって受ける文字、目で感じる画像。
最近は、写真って、静止画とか、画像とか、こんなふうに呼ばれています。
あえて写真という文字、言葉を使っていきますが、この写真。
目に映る光景がカメラでとらえられて、再現されて、写真として目に見える。
写真のなかに写されたイメージは、現実にあったものの複写、コピー。
文字とは違う、音とも違う、視覚、目に見える、目で見るもの。
こうして目に見えた写真のなか、写っているものの意味を考える。
この意味を考えるということは、文字を理解すると同じ作用だ。
そこで、写真に先立つ文字・文章があって、写真に写ったものが理解される。
このようにして写真が作られ、使われてきた歴史が、写真の歴史の大半です。
ところが、いま、あらたな関係として、音、音楽のように、写真を感じる。
音が耳への刺激で感じるのならば、写真は目からの刺激で感じる。
理屈はいらない、言葉ではなく、ゆらめくとでもいった感じで、感じる。
あらためて、写真の要素をおもうと、見て感じる、本能が感じる、がある。
ことばによる理解ではなくて、本能に直結する感じで、見て感じる。
知性ではなくて感性、理性ではなくて感性、つまり身体が感じるということ。
さて、はたして、そのような画像、静止画、写真が、あるのだろうか。
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誤解をおそれずにいえば、写真は簡単に作れます。
写真を撮る、つまりカメラのシャッターを押す。
押すだけで写真が撮れる、デジタルカメラです。
昔のことはどうでもいいことだけれど、昔は。
昔は、とついつい比較してみたくなる年代のわたし。
昔といってもつい最近までのことですが、フィルム時代。
これとの比較は、追々やっていくこととして、今は、現状分析。
カメラを持つことがが大衆化して、今や誰でも持っている環境です。
誰でもとはいっても、赤子から幼児を除いて、ですね。
つまりひととしての意識が起きておれば誰でも、です。
市販のデジタルカメラ、かなり簡単に、写真が作れてしまいます。
つまり、写真は、いまや誰でも簡単に作れるんです。
この、誰でも簡単に作れるということが、写真の現在でしょう。
作家がうんぬんなんて言わなくて、ひとの欲求を満たす道具として。
市販されているデジタルカメラ、簡単操作で撮れるんです。
食べる、寝る、これが満ちたら、自己表現をしたい欲求ですね。
この自己表現欲求を満たすための道具としての、デジタルカメラ。
むつかしいことはいわなくて、カメラは自己癒しの道具みたいだから。
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     京都写真学校 2013.12.1

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このブログには、1980年前後に撮ったフィルムからの画像を載せています。
フィルムに残された画像、もう陽の目を見ることもなかろう、と思っていました。
かって撮った写真を見たいと言われて、スキャンすることにしたのが3年前か。
手持ちの半分ほどのフィルムを、ちまちまとスキャンして、セレクトしました。
ここには大阪市内、西成釜ヶ崎、それに舞踏集団白虎社の画像を載せています。
撮ってからおよそ35年が過ぎてしまいました。
過去をふり返るということに抵抗を感じていた数年前までの過去。
いま自分が撮った写真をながめて、うまく撮れていないのが恥ずかしい。
スキャン画像はトリミングなしのフィルムそのままで載せています。
これはスキャンしてデジタルに変換している画像です。
スキャン専用のデジタルカメラで撮られた画像です。
思えばフィルムで撮っていた頃から見るとデジタルは使い良い。
もちろんフィルムからデジタル、その逆への処理がシームレスにできるから。
写真業界のシステムが、そのようにしてくれているからです。
いずれデジタルカメラで撮られた画像が全てになって、フィルムは旧メディア。
はたして紙に刷られた画像は、このまま続けられるのでしょうか。
そのことが、いま、ぼくのプレゼンテーションにおける関心ごとです。
ニコマートという機種を手にして、家族以外の風景を撮った最初。
掲載写真は、その最初の写真で、映像情報の表紙に使った写真です。
いまデジタルデーターになって、ここに載せます、石川県の内灘です。

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